第三話「最初の血」
第三話「最初の血」をお届けします。
ここから物語は、一気に“日常の外側”へ踏み込みます。
これまでの違和感は、もはや予兆ではありません。現実です。
守るべきものが壊れたとき、人は何を選ぶのか。
そして、何も持たない者が“それでも進む理由”とは何か。
少し重い内容になりますが、ここが物語の核です。
どうか最後まで見届けてください。
一
「……音がない」
北潟慎悟は、校門をくぐった瞬間に足を止めた。
毎朝そこに立っているはずの声が、消えている。
滝俊彦の怒鳴り声が、どこにもない。
「何が?」
隣を歩く友紀が首を傾げる。
慎悟は答えなかった。
ただ、首の後ろの産毛が立ち上がっていた。
生活指導教師・滝俊彦。生徒たちが陰で「学園のガーゴイル」と呼ぶ男だ。服装の乱れを鷹の目で仕留め、言い訳を一切受け付けない。三日前、雨に濡れて校門をくぐった慎悟に、無言でタオルを叩きつけてきた。そして「風邪ひくぞ」とだけ吐き捨て、背を向けた。
怒鳴り声しか持っていない男。
その男が、今朝はいない。
代わりに立つ若い男性教師は、顔が蒼白で、腕時計ばかり気にしていた。挨拶の声が上擦っている。
廊下に踏み込んだ瞬間、生徒たちの囁きが粘着質な糸のように耳に絡みつく。
「パトカー、見た?」
「裏門のフェンス、ひしゃげてたって」
「鉄の匂い、ヤバくない?」
一年一組の教室に入ると、空気が泥のように重かった。いつもの笑い声より、不安の匂いが勝っている。
「よう、慎悟」
柿原翔一が、机に腰掛けたまま声をかけてきた。口元は軽く笑っているのに、瞳孔が開いている。
「朝練で軽音の奴らが言ってた。裏門が半開きだったって。普段は南京錠がかかってるのに、引きちぎられてたって」
身を乗り出す。
「生臭いんだとよ。鉄錆みたいな匂いがするって」
背筋を氷の刃がなぞった。
「職員室も空だった」
熊坂健太が、地響きのような声で割り込む。
「電話が鳴りっぱなし。先生たち、全員裏門に走ってった」
「俺、見てくる」
翔一が立ち上がろうとした。
「座れ」
慎悟は翔一の肩を上から押さえつけた。
「なんでだよ」
「喰われるぞ」
理屈ではない。細胞レベルで警鐘が鳴っている。翔一の顔から、みるみる血の気が引いた。
窓際で、山室綾実がタロットカードを静かになぞった。
「『塔』。崩壊。予期せぬ破滅」
誰も笑わなかった。
予鈴が鳴る。いつもなら吉崎が黒いノートを持って現れる時間だ。
扉は、開かない。
廊下を駆け抜ける大人たちの乱暴な足音だけが、教室の静寂を削り取っていった。
二
一時間目は自習になった。
教頭が脂汗で顔をテカらせながらプリントを叩きつけ、「吉崎先生は急用だ」とだけ吐き捨てて逃げるように去った。誰とも目を合わせなかった。
「警察、来てる」
スマホを隠し持っていた生徒が息を呑む。
「制服じゃない。白い防護服のやつらだ」
「救急車は?」
瓜生翼が問う。
「来てない」
慎悟の一言で、教室の酸素が薄くなった。
警察が来て、救急車が来ない。
急ぐ必要のない肉塊が、そこにある。
「……慎悟くん」
隣の坪江南海が、震える指で袖を掴んできた。
「朝、保健室に寄ったの。鍵、かかってた」
絶対に遅刻しない養護教諭の不在。
誰も何も言わなかった。
「……血だ」
熊坂健太が、鼻をヒクつかせる。
「風に乗ってきてる。土と、大量の鉄の匂いだ」
園芸部で土を嗅ぎ分ける男の、静かな宣告だった。
昼休み前、スピーカーがノイズを吐き出した。
『清王学園高校の生徒諸君』
全員の呼吸が止まる。
『今朝、本校教諭の滝俊彦先生が、校内で亡くなられているのが発見されました』
短い悲鳴。直後、ブツッという切断音が鼓膜を殴る。
窓の外では、隣接する中学校からサッカーボールを蹴る音が響いていた。
ここだけが、世界から切り離されていた。
慎悟は息を止めた。吐けば、何かが壊れそうだった。
濡れたシャツ。投げつけられたタオル。「風邪ひくぞ」と背を向けた、あの不器用な背中。
もうない。
「……誰が」
友紀の喉から、ひゅっと空気が漏れる。
「誰が、やったの」
答えはない。
死の質量だけが、教室にのしかかっていた。
三
三時間目で授業は打ち切られた。
慎悟は鞄を掴み、教室を飛び出した。友紀と南海が続く。
「兄ちゃん、どこ行くの」
「確認する」
「先生に見つかるよ」
「怒られるだけで済むなら、安いもんだ」
足を止めない。あの不器用な男の死を、ただの「ニュース」で終わらせるわけにはいかない。
「……俺も行く」
細呂木蓮が、音もなく横に並んだ。
「お前一人じゃ捕まる。俺がルートを塞ぐ」
四人は渡り廊下を抜け、北校舎へ潜り込んだ。近づくにつれ、空気が粘り気を帯びる。喉の奥にへばりつく、濃厚な鉄錆の悪臭。
「止まれ。ここから先は丸見えだ」
蓮が壁際に身を潜める。角の先には黄色い規制線。
慎悟は警官の視線が外れた一瞬を突き、植え込みの影に滑り込んだ。
規制線の向こうに、吉崎瑞紀が立っていた。ハンカチで口を覆い、肩を痙攣させている。
風が吹き、鑑識課員が横にずれた。
視界が、開いた。
赤。
アスファルトの凹凸が、すべて赤黒い液体で埋め尽くされている。
その中央。踏み砕かれた銀色のフレーム。片方のレンズは粉々に砕け、もう片方は血の海に沈んでいる。
毎朝自分たちを睨みつけていたあの視線が、ゴミのように転がっていた。
血だまりから、体育館の駐輪場へ向かって、極太の赤い線が伸びている。巨大な肉塊を強引に引きずり込んだ跡だ。分厚い鉄のフェンスが、内側から外側へ、飴細工のように引きちぎられている。
「うっ……」
南海が胃液をこみ上げさせた。友紀がとっさに口を塞ぎ、目を覆う。
慎悟は目を逸らさなかった。
これは事件ではない。「捕食」だ。
人間には不可能だ。もっと原始的で、圧倒的な暴力の残滓がここにある。
その時、駐輪場の奥の暗がりで、何かが揺れた。
風ではない。
巨大な質量が枝葉を押し退ける動きだ。
慎悟は目を凝らす。暗緑色の奥。一瞬だけ、光が反射した。
縦に細く割れた、金色の瞳孔。
爬虫類の眼光。感情の温度が一切ない、純粋な飢餓の視線。
心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで暴れた。全身の神経が「逃げろ」と絶叫する。
だが、慎悟の足は前へ踏み出していた。
フェンスに手をかけた瞬間、蓮の指が肩の肉に食い込んだ。
「行くな」
蓮の声が、微かに震えている。
「今行けば、お前もあの血だまりの染みになるだけだ」
正論の刃が、喉元に突きつけられる。
慎悟は奥歯を噛み砕く勢いで食いしばった。
行けない。力が、ない。今は、ない。
無力感が、胃酸のように臓腑を焼く。
「……戻ろう」
友紀が、南海の肩を抱きながら絞り出す。
慎悟は駐輪場の奥の闇を睨みつけた。眼光はもうない。だが、あの冷たい視線の感触だけが、皮膚にこびりついている。
日常の皮一枚隔てた裏側に、怪物がいる。
四人は無言で来た道を引き返した。
夕焼けが、校舎を血の色に染め上げていた。
坂道で、慎悟は足を止めた。
振り返る。二人の顔も、赤く照らされていた。
「……一緒に止めよう」
静かな声だった。
「俺一人じゃ、確実に死ぬ。隣で鎖を引っ張ってくれ」
力が欲しいわけじゃない。ただ——。
「止まりたくないんだ」
友紀は涙を堪えて、唇を歪めた。
「引っ張るよ。首がちぎれるくらい」
「私も」
南海が顔を上げる。
「一人で死なせたりしない」
三つの影が、夕焼けのアスファルトで一つに重なった。
牙もない。爪もない。何も持っていない。
だが確実に何かが、胸の奥で沸騰し始めていた。
四
夜。福江市の空気は、見えない恐怖に汚染されていた。
SNSのタイムラインが狂乱している。
『清王の教師、バラバラだったらしい』
『裏山で巨大な獣を見た』
その狂騒の中で、一つの名前が浮上していた。
『春宮勉』
退学処分を受け、行方不明になっていた元生徒。
自室のベッドでスマホの光を浴びながら、南海は毛布を握りしめた。
春宮勉。
その名前に、南海の指先が白くなる。
中学時代、金津美里が不敵に笑いながら口にした名前だ。
『この街には第三の道があるの』
美里の声は、あの頃と変わらず耳の奥に残っている。
『人間を辞めて、本物に喰らいつく道がね』
正しそうに響いた。それが最も恐ろしかった。間違っているはずなのに、疲れた夜には、その声の方が正直に聞こえた。
——美里。
——あなたは、私に何を選ばせたかったの。
窓の外。雲が月を隠す。
完全な闇の中で、何かが蠢いている。
南海はスマホを伏せた。画面が消える。
暗がりの中で、彼女は眠れなかった。
五
深夜。
慎悟は、ベッドから跳ね起きた。
微かな地鳴り。
地震ではない。巨大な質量が、アスファルトを踏み砕く規則的な振動だ。
窓を跳ね開ける。夜の冷気が流れ込む。
——グオオオオオオオオオッ!!
咆哮。
ライオンよりも重く、狼よりも太い。大気を物理的に震わせる、王者の叫び。
方角は東。福江市郊外の裏山。
慎悟は胸ぐらを掴むように自分の心臓を押さえた。恐怖で破裂しそうだ。だが同時に、何かが全身の血管を駆け巡っている。
再び、咆哮が響く。
今度は、ただの獣の声ではなかった。
「許さない」と血を吐きながら呪詛を撒き散らすような、人間の魂の絶叫だった。
怒りか。哀しみか。両方か。
慎悟はガラスを叩き閉めた。
隔てても、その呪詛は脳髄に直接響き続ける。
——怒りは力になる。
——だが、あれは救いにならない。
わかっているのに、声は止まない。夜の中で延々と、拒絶された魂が叫んでいる。
ふと気づく。
部屋の中も、叫んでいる。
声に出さずに叫んでいる。滝先生の死が、あの血だまりが、踏み砕かれた眼鏡が、ずっと胸の中で鳴り続けている。
慎悟はゆっくりと床に足をつけた。
明日、学校に行く。
今日の「前」には、もう戻れない。
窓の外、裏山の咆哮は、夜が明けるまで止まなかった。
怪物には牙がある。爪がある。力がある。
自分には何もない。
それでも——。
止まりたくないんだ。
暗い部屋に、その言葉だけが静かに落ちた。
第三話まで読んでいただき、ありがとうございます。
正直に言うと、この回は“楽しく読む話”ではありません。
ですが、この物語にとって絶対に避けて通れない地点です。
・守る側だった大人の死
・「事件」ではなく「捕食」という現実
・そして、無力を知った上での決意
ここで初めて、主人公たちは「戦う理由」を自分で選び始めます。
次話からは、いよいよ“力”の物語が動き出します。
ただし――それは救いだけではありません。
引き続き、よろしくお願いします。




