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第一話「違和感の春」

はじめまして。あるいは、いつも読んでいただきありがとうございます。

本作は「日常の違和感」から始まる物語です。

何気ない春の一日が、少しずつズレていく感覚を楽しんでいただければ幸いです。

それでは、第一話「違和感の春」、どうぞ。

 一

 電源を切ったスマホが、ポケットの中で震えた。


 慎悟(しんご)は立ち止まった。切った。確かに切った。画面を長押しして、スライドして、電源を落とした。なのに、ポケットが震えている。


 取り出した画面は、真っ暗のはずだった。


 着信画面が映っていた。


『金津美里』(かなづみり)


 見知った名前が、見慣れたフォントで並んでいる。登録した覚えなど、ない。


「......嘘だろ」


 指先が震える。隣に立つ妹の友紀(ゆき)も、親友の南海(みなみ)も、声一つ出せなかった。電柱に貼られたポスターが、春の風でぱたぱたと揺れている。


『行方不明者を探しています』


 写真の中の少女が、半端な笑みを浮かべている。金津美里、十五歳。黒髪、白い肌、目だけが印刷されていないみたいに光を吸い込んでいる。このポスターは、ついさっき貼られた。糊の湿り気が、慎悟の指先にまだ残っていた。


 着信が止む。メッセージの音。


 開いた画面に、一行だけ。


『入学式、楽しみだね』


 入学式は、三日後だった。


 二

 時間を、少し戻す。


 同じ日の朝。北潟慎悟はソファに沈み込んで、テレビを眺めていた。


 《彩獣戦隊(さいじゅうせんたい)ジュッサイジャー》。春の新番組。画面の中で十人の戦士が並んでいる。蒼い獅子の戦士が日本刀を振り下ろす。橙色の爆煙が咲く。


 〈蒼牙・裂風斬(そうが・れっぷうざん)!〉


「......また、握ってる」


 双子の妹、友紀が呆れたように言う。気づけば膝の上で拳を握りしめていた。爪が掌に食い込む。血が出そうなくらい、力が入っていた。


「殴んねえよ」


「そういう問題じゃない」


 友紀はソファの背にもたれる。目だけは、微塵も笑わない。テレビの中でヒロインが涙ぐんで言う。


 〈私、選ばれたんだね〉


「......選ばれたら、悩まなくて済むのかな」


 無意識の独白が、喉から滑り落ちた。


 清王(せいおう)学園高校、合格。県立福江(ふくえ)高校、不合格。双子で同じ結果。「選ばれた側」でも「落とされた側」でもない、中途半端な立ち位置。通知表を見た母親のあの小さな息。封筒を握る指から、目に見えて力が抜けていった。


「二人とも、よかったわね」


 あれは、どっちの笑みだったのか。


「選ばれたなら、血反吐を吐け」


 友紀は、一片の迷いもなく言った。


「相変わらずエグいな」


「褒め言葉として受け取る」


 そのとき、スマホが震えた。


 非通知着信。一度目。


 出るべきではない。脳が警告するより早く、指が通話ボタンを押し込んでいた。


「......もしもし」


 沈黙。砂を噛むようなノイズが鼓膜を引っ掻く。その奥で、湿った獣の唸り声。


 返事はない。ぷつりと電子音が鳴り、通話が死んだ。


 肺の空気を吐き出すのを忘れて、慎悟はソファに沈み込む。CMの笑い声が、遠い異国の言語のように響いた。


 二度目が来たのは、南海に呼び出される直前だった。


 今度は、声があった。女の声。低く、掠れて、鼓膜にへばりつく。


『......助けて』


 擦り切れた一言。そして、切れた。


「誰から?」


「......分かんない」


 嘘だ。だが、名前を口にした瞬間、引き返せない場所へ落ちる。そういう予感だけが、確かにあった。


 三度目が来た瞬間、慎悟は電源ボタンを長押しした。画面が闇に沈む。


「......電源、切ったの?」


「うるさいからだ」


 ドアを開ける。昼下がりのぬるい空気の中に、氷の刃のような冷たい風が一本、首筋を撫でた。


 三

 福江駅西口には、全長十二メートルもあるティラノサウルスのモニュメントが立っている。牙を剥いてロータリーを睥睨する、この街のシンボル。入学したら、毎日これを見ることになる。


「慎悟くん、友紀ー!」


 ティラノの足元の影で、坪江(つぼえ)南海が両手を大きく振っていた。栗色のツインテール、淡いピンクのパーカー。明るい笑顔。だがその瞳の奥で、常に「他者との距離」を測っていることを、二人は知っている。


 三人は並んで駅構内のムーンバックスへ向かった。窓際の四人掛けテーブル。テーブルの木目が少し剥げた場所に、この席で過ごした時間が丸ごと染みついていた。


「将来、なりたい職業とか」


 南海がカップの蓋を外しながら問いかける。


「......特には、まだ」


 ラテを一口すする。フォームミルクの甘さと、遅れてくる苦味。熱くも冷たくもない、その中途半端な温度が、今の自分みたいだとふと思う。


「テニスでプロって柄でもないし。そこまで賭ける覚悟はねえ」


「南海は?」


「誰かの、帰る場所になれる仕事、って言ったら、笑う?」


「笑わねえよ」


「笑わない」


 二人の返事は、ほぼ同時だった。


「......ありがと」


 南海は、照れたように笑う。その笑顔は、どこか自分に言い訳している。


「保育士とか、カウンセラーとか......人のそばにいられる仕事がいいなって」


「そばにいる」という言葉を自分で口にした瞬間、南海の奥で何かが疼く。


 ―――あの子の、そばにいられなかった。


「とりあえず、普通に高校生やりながら考えよ」


 南海は、自分に聞かせるみたいに言う。


「普通に恋愛して?」


 友紀が、わざとらしく声を弾ませた。


「ちょ、ゆーき」


「まあ、俺らはもう付き合ってるしな」


「ちょ、さらっと言うな!」


「事実だろ」


 告白も、初デートも、不器用で、ぎこちなくて、そのぶん全部が残っている。三つの紙コップが、テーブルの上でかすかに触れ合う。誰にも聞こえない、小さな約束の音。


「......ねえ」


 南海が、ふっと目線を窓の外へ逃がした。


「さっきから、誰かに見られてる気がする」


 慎悟の背筋を、悪寒が駆け上がる。


「どこ?」


「分かんない。でも、確かに......」


 南海は窓の外を見る。人混み。ベビーカー、イヤホン、スーツ。誰も、こちらを見ていない。


「......気のせいかな」


「そうだな」


 口ではそう言いながら、慎悟は指先でカップの底を押さえていた。


 電源を切ったはずのスマホが、ポケットの中で、ひどく重い。


 四

 駅から自宅までの道のりは、徒歩二十分。三人で歩くには、ちょうどいい距離だ。


「清王までの通学、これよりちょっと長いぐらいだよね」


「駅から学校まで、坂があるって聞いた」


 歩道脇には、まだ咲いていない桜の木が並んでいた。咲いていない桜は、咲いている桜よりも騒がしい。「これから」を全部抱えたまま、黙ってそこにいる。


「入学式でさ。ひとつだけ、絶対にしたくないことがあるんだ」


 友紀が、蕾を見上げたまま言う。


「何?」


「諦めてるふり」


 声に、熱が乗っていた。誰か一人の顔を思い浮かべている声だ。


「本当はやりたいくせに、最初から無理って決めつけて、傷つく前に諦めたフリしてるやつ。あれ、自己防衛じゃなくて、ただの卑怯だと思う」


「でもさ」


 南海が、間を置いて口を開く。


「諦めてるふりしないと、心がもたない時もあるんじゃないかな。期待して、裏切られるのが怖くて......」


「それは、分かる。分かるけど、そのふりを周りにぶつけるのは、違うと思う」


「......ゆーきは、ゆーきだね。そういうとこ、ほんと、まぶしい」


「慎悟くんは? 高校で、絶対したくないこと」


「......逃げること」


 少し考えてから、言葉を選ぶ。


「自分で決めた場所からは、絶対に逃げない」


 言った瞬間、自分で自分に鎖をかけたような感覚が走る。それでも、言い直そうとは思わなかった。


「らしい」「兄ちゃんらしいね」


「でも、そういう兄ちゃんだから、私は安心できる。私が前に出すぎた時、絶対止めてくれるでしょ」


「......まあ。一応、兄だしな」


 その一言に、南海は複雑な表情を浮かべた。羨ましさと、申し訳なさと――自分には守れなかった誰かの影。


「......ねえ」


 南海は、視線を落としたまま言った。遠くで、新幹線の発車ベルが鳴る。誰かの出発を告げる音。


「もしさ。高校で、なんかあって......どうしようもなくなったら」


「うん?」


「あたし、逃げ道になるから。逃げちゃいけない場所からは、逃げなくていい。――その代わり、ちゃんと戻ってきて」


 そう言って笑う南海の指先が、鞄の紐を握りしめて震えていた。


「......そっちの方が、よっぽど覚悟いるな」


 苦笑しながらも、胸のどこかがふっと軽くなる。


「ありがとな」


 春の風が強くなり、蕾の先端が小さく揺れた。


 背中に視線が刺さる感覚がして、慎悟は何気ないふりで振り返った。


 電柱の陰。黒いパーカーのフードを深くかぶった人影が、こちらを見ている。目が合った、と思った瞬間、その影はすっと身を引き、角の向こうへ消えた。


「どうしたの?」


「いや......なんでもねえ。気のせい」


 今度は振り返らなかった。


 五

 大通りに出る角。電柱に貼られた一枚のポスターが、春の風に揺れていた。


 最初に気づいたのは、南海だった。


「あ」


 小さな声に、二人の視線が吸い寄せられる。端がめくれかけて、ぱたぱたと乾いた音を立てている。慎悟は反射的に手を伸ばし、テープを押さえた。


 指先に、ぬるりとした感触が残る。まだ乾ききっていない糊の冷たさ。


 顔を上げた瞬間、世界の輪郭が、わずかにねじれた。


『行方不明者を探しています』


 白地に太い黒文字。その下で、一人の少女が半端な笑みを浮かべている。まっすぐに切り揃えられた黒髪。目だけが、印刷されていないみたいに光を吸い込んでいる。


「......嘘」


 友紀の声が震えた。


 金津美里。行方不明者。年齢、十五歳。中学三年の春から行方不明。


 このポスターは、ついさっき貼られた。貼った者の体温が、糊の湿り気の中にまだ残っていた。


 脳裏に、あの日の音が蘇る。椅子が倒れる音。机をひっくり返す音。泣き声。教師の叫び。そして、翌朝の空席。


「なんで、今になって......」


 友紀は、喉の奥から絞り出すように呟く。


「目、笑ってねえな」


 慎悟が、低い声で言う。友紀は何も言わない。南海もまた、口をつぐんだまま、ただポスターを見ていた。


 北潟(きたがた)友紀と坪江南海にとって、金津美里は「元クラスメイト」ではない。幼稚園から続く衝突。小学校での取っ組み合い。中学での、支配と反発の三年間。卒業式の日、彼女の席は最後まで空席のままだった。それで、幕は下りたはずだった。


「......終わって、ないんだよ」


 南海が、初めて口を開く。声が、かすかに掠れていた。


「だって、まだ見つかってない。生きてるかどうかも、分かんない」


「今、あいつがここに立ってたら......どうする?」


「殴る。全力で。そんで、叫ぶ。『どこほっつき歩いてたんだバカ』って」


「......抱きしめる」


 南海は、目を伏せたまま言う。「生きてたんだって、ちゃんと確認してから。それから、同じこと言う」


 慎悟は、自分の答えを飲み込んだ。妹と美里が取っ組み合うたび、立ち尽くすしかできなかった自分。止めに入ろうとして弾き飛ばされた腕の痛みと、泣いていた妹の背中。


 春の風が、ポスターの端をぱたぱたと揺らす。


 めくれた裏側に、血のような赤いマジックで――


『みつけた』


 ポケットが震えた。


 電源を切ったはずのスマホが。


「......兄ちゃん」


 友紀の声が、掠れていた。慎悟は、ゆっくりとスマホを取り出した。真っ黒だったはずの画面に、にじむように光が灯る。ロック画面を飛び越えて、いきなり着信画面。


『金津美里』


「......嘘だろ」


 着信音が鳴り響く。非通知ではない。登録した覚えもない名前が、見慣れたフォントで並んでいる。


「出るの?」


「......分かんない」


「応答」と「拒否」。どちらを押しても、何かが元には戻らない。


 着信音が止む。沈黙。留守番電話の無機質な電子音。そして――メッセージの着信音。


 慎悟は、震える指でメッセージを開いた。


『入学式、楽しみだね』


 三人とも、動かなかった。誰も、何も言わなかった。


「......行こ」


 友紀が、無理やり視線を引きはがした。


「こんなん見てたら、気が滅入る」


「......うん」


 慎悟は、最後にもう一度だけ、ポスターを見た。


 金津美里。焔みたいな怒りと、氷みたいな孤独を、同時に抱えていた少女。写真の中の彼女は、何も語らない。形だけの笑みで、紙の中に閉じ込められている。


 スマホをポケットに戻した。電源の切れたはずの画面が、まだ光っていた。


 六

 風が、ポスターの端をぱたぱたと揺らしていた。


 三つの影が遠ざかっていく。振り返らない背中。揺れるツインテール。兄妹の肩越しに、何度も空を見上げる少女。


 影が角を曲がった。見えなくなった。


 電柱の陰から、一組の視線が離れる。


 ――ずっと、ここにいた。


 ポスターの中の顔と、その視線の温度は、ぴたりと重なる。


 裏に走る赤い文字は、まだ乾ききっていなかった。


『みつけた』

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


この第一話は「何かがおかしい」という感覚だけを積み重ねる構成にしています。

正体や説明は、あえてまだ出していません。


ポスター、着信、そして「みつけた」。

すべてが繋がるのは、もう少し先になります。


次話では、入学式の教室に“あるはずのないもの”が現れます。

ここから物語が一気に動き出します。


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引き続き、お付き合いください。

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