おまけ短編④ 青い瞳のお姉様
カレンベルク家の領地は王都の北東にある。肥沃であり王都からさほど距離のない恵まれたこの地を、カレンベルク家は先祖代々長きにわたって受け継いでいる。
自然の多い領地の、歴史と風格のある領主館で、魔性化したアンネリーゼは基本的に静かな生活を送っている。
基本的に、だ。
北領キュプカ村。アンネリーゼにとっては因縁の地だが、そこからたまに来客がある。父ローレンツの元恋人が、何かと理由をつけてやってくるのだ。「暇だ」とか「ミアが」とか「アンネちゃんに会いに来た」とか。
ローレンツに会いに来ているのは明白なのだから、正直にそう言えばいいと思う。
(そういえば最近来ないわね。静かでいいわ)
庭の木陰にそっと腰を下ろす。夏の盛りだ。蝉が鳴いている。
魔性化して領主館に来たばかりのころは監禁生活だったが、モニカにゲートルドへ連れ出されて帰ってきた後は、部屋に鍵を掛けられることはなくなった。領主館の敷地内なら、アンネリーゼはどこでも自由に行けた。父の判断らしかった。
アンネリーゼの私室がある別館と、父が暮らす本館と、野趣あふれる庭園。
今はそれが、アンネリーゼの世界のすべてだ。
陽光の反射に目を細め、妹からの手紙を読む。きのう届いた手紙だが、もう何度読み返したかわからない。
(舞踏会に出たのね……)
あの美しいフローラなら、求婚者は引きも切らないだろう。
妹もいつかは結婚してしまう。新しい家庭で夫と子供に心を向け、自分から離れていってしまう。
過去に自分が彼女にしたことを思えば、止める資格などあるはずがない。
それでもやはり、アンネリーゼは願わずにはいられなかった。
わたくしの元から去らないで、と。
アンネリーゼがしんみりした気持ちで手紙を封筒に戻していると、頭上の枝ががさりと不自然に揺れた。またかと思いつつ見上げると、大きな烏が一羽、こちらを見下ろしている。アンネリーゼがふいっと目をそらすと、待て待てとばかりに地面に降りて来た。すぐ近くまでやってきてつつくので、アンネリーゼはあきらめて烏の足に手を伸ばした。
烏の足にはいつものように、手紙が括りつけられていた。
開くまでもなく、ゲートルド国王アルヴァロからの文である。彼は何度も烏を使って文を届けてきた。内容は熱烈な愛の言葉と、いつでも迎えを差し向けるからゲートルドへ来い、そればかりだ。今回もそうだった。
(行かないわ)
アンネリーゼはアルヴァロの手紙を細かくちぎり、立ち上がって風に任せた。隣国の王の愛の言葉が、紙吹雪となって散り去っていく。
アンネリーゼはもう一度草の上に腰を下ろした。
午後の空気がまどろみを誘う。
きょろきょろと周囲を見回してから、思い切って寝ころんでみる。空を見ると、重く繁った枝葉の隙間から、夏の光がちらちらとこぼれた。
眩しくて目を閉じる。
烏が飛び立つ音がした。もしかして返事を託されるのを待っていたのかもしれない。そう考えたら可笑しくなった。領主館の静かな庭園にいると、モニカと行ったゲートルド王宮のことなど、遠い夢にしか思えなかった。
ゲートルド王宮での冒険も。
地下牢の朦朧とした記憶も。
一位の聖女と崇められた日々も、乱痴気騒ぎの夜会も、美しい愛人も。
嫌いだった王子も好きだった王子も。
全部、全部、夢の記憶。
そして夢から醒めたら、自分はまだ幼くて、聖女の力もまだなくて、姉がいて、妹がいて――。
いつの間にか寝入ってしまったらしい。
アンネリーゼが重い瞼を開けると、夏の日差しは夕方の気配を漂わせていた。
どのくらい眠っていたのだろうと思っていたら、澄んだ笛の音のような声が聞こえた。
「お目覚めですか。お姉様」
一瞬、これも夢かと思った。
アンネリーゼが寝そべるすぐ横にフローラが座っていて、こちらを見て優しく呼びかけてくれたから。
「フロー……ラ?」
「うふふ。私もご一緒してよろしいですか?」
アンネリーゼが答える前に、フローラが草の上にころんと横たわる。
「気持ちがいいです。空が高いわ」
「……そうね」
「ドロテアお姉様に見られたらおこられちゃいますけど」
「えっ。来てるの?」
思わずぎくっとしてしまう。
「ふふ。ドロテアお姉様は王都です。身重のお体ですもの」
「おどかさないで、フローラ」
「アンネリーゼお姉様はドロテアお姉様がこわくていらっしゃるの?」
「童心に返っていたのよ。子供のころはこわかったわ。口うるさくて」
子供でなくなってからは、あなたがこわかったわ。
心の中で、アンネリーゼは言った。
隣に寝そべるフローラをそっと見る。この優しすぎるほど優しい妹がなぜ怖かったのか、今となってはよくわからない。
自分は魔物だから、怖かったのかもしれない。フローラは清らかすぎるから。自分と共にある魔が清められてしまいそうで、怖かったのかもしれない。
(今のほうが魔物のはずだけれど、なぜこわくないのかしら)
「フローラはわたくしがこわくないの?」
「アンネリーゼお姉様が? なぜ?」
「わたくしは魔女だから」
「アンネリーゼお姉様は魔女なんかじゃありません」
「魔女よ。でも――」
アンネリーゼは一瞬言葉を詰まらせた。
「あなたの笑顔に応えていたら、魔女にならなかったかもしれないわ」
もっとはやく、だいすきと言ってくれる妹にだいすきと返していたら。
もっとたくさんの時間をこの優しい妹と過ごすことができたのに。
フローラは十八歳。カレンベルク家の姉妹でいられる時間は、もうあまり残されていない。幼い日、よちよち歩きで近づいてくるフローラに笑いかけることができていたら。ままごとのお菓子を食べてあげる真似ができていたら。十何年もの長い時を共に重ねることができたかもしれないのに、その時はすでに失われてしまった。
「アンネリーゼお姉様は魔女になんかなっていません」
「魔女よ。見て。目が赤いわ。魔物と一緒よ」
草の上に寝ころんだまま、横を向いて妹と目を合わせた。
「目が赤いと魔女だと、どなたがお決めになったのですか?」
同じように寝ころんだまま、不満そうにフローラが言う。
「知らないわ。考えたこともないわ」
「アンネリーゼお姉様は魔女じゃありません」
「ならなんなの、わたくしは。聖女でもなくてよ――」
「私のお姉様です」
フローラはにっこり笑ってそう言うと、おもむろに手を伸ばしてきた。草の上に投げ出していたアンネリーゼの左手が、フローラの右手に繋がれる。
「私の大好きなお姉様です」
アンネリーゼはがばりと起き上がった。矢も楯もたまらず、寝そべるフローラに覆いかぶさるように抱きついた。
「フローラぁぁぁ! お嫁に行っちゃいやよ。ずっとわたくしの妹でいてくれなくちゃいやよ。わたくしを置いていかないで!」
「お姉様……」
「今までのことはあやまるわ。全部わたくしが悪かったわ。ほかのみんなにもあやまるわ。お父様にも、お姉様にも、お義兄様にもミアにも侍女たちにも。嫌だけど、ディートハルトにだってあやまるわ。だからお願い、ずっとわたくしといて!」
すがりつくアンネリーゼの背をフローラの手がそっと撫でる。慈しむような優しい手つきで。
フローラがひと撫でするたびに、アンネリーゼは自分の中の絡まった糸の塊が、するするとほどけていくような気がした。
「ねえお姉様、私ね……どなたに嫁ぐことになっても、その方をどんなに愛したとしても……。私は、アンネリーゼお姉様のために生まれてきたような気がするの」
アンネリーゼは泣きぬれた顔を上げ、フローラを見た。
美しく清らかな、精霊のような妹の顔を。
「ずっとそう思っていました。うふふ、内緒よ」
「フローラ……」
「私とお姉様だけの秘密です――――あら? お姉様……」
フローラがしげしげと、涙で濡れたアンネリーゼの目を見上げてくる。
「なにかしら……?」
戸惑う姉に向かって、フローラは華やいだ笑顔になって、言った。
「赤い瞳のお姉様も素敵だけれど、青い瞳のお姉様も素敵だわ」




