おまけ短編⑤ 国境のアンネリーゼ
ゲートルドとの国境近い森の中、冷たい泉の表面に、アンネリーゼはその美貌を映した。
魔性化の徴である瞳の赤色はもう見えない。わずかに揺らめく水面に映るのは、薄い青色の瞳だ。
「聖女アンネリーゼ」
最近新しく来た見張りの騎士に名を呼ばれる。魔性化が寛解し、アンネリーゼは「聖女」の称号を再び名乗ることを許された。とはいえ、騎士が彼女を見る目はいまだ忌まわしい魔女を見る目だ。この国では、堕ちた聖女を見る目はとても厳しい。
しかし、アンネリーゼはもうそんなことはどうでもよかった。
「『魔女』で結構よ」
返答を待たずに騎士の横を通り過ぎる。
黒いローブに黒いドレス。濃紺の豊かな髪は、結わずに遊ばせたまま。霧の立ち込める森を歩く自分を見たら、村人たちだって魔女と言うだろう。
第一王子の暗殺に手を貸した罪。従魔術師だったザムエル・ヴァッサーをそそのかし、魔物を使って聖女ブリギッタとキュプカ村を襲撃した罪。裏社会の魔術師を雇い、収監されたヴァッサーを殺害しようとした罪。
いくつもの罪を重ねたアンネリーゼを聖堂はもう受け入れない。
アンネリーゼも、聖堂なんてごめんだ。
(豪華な檻よ。聖堂なんて)
森の小道を歩きながら、アンネリーゼは自分の右手を見た。
この手をあてがえば、滅多斬りにされた刀傷だって綺麗に治せる。
アンネリーゼはモニカに連れていかれたゲートルド王宮で、瀕死の国王アルヴァロを癒したときのことを思い出した。あのときは魔性化により、アンネリーゼの力はかつてないほどに漲っていた。
アルヴァロは全身を何ヵ所も深く斬られ臓器まで損傷し出血も多く、あとは死を待つばかりの状態だった。傷に手を当て、あふれんばかりの力をもって死の寸前のアルヴァロを癒す時間は――――甘美だった。
あまりの快感に全身が泡立つほどだった。
癒しとは、己にこれほどの快楽をもたらすものなのかと、アンネリーゼは初めて知った。
格式ばった聖堂で、貴族たちのちっぽけな傷を癒していた日々はなんだったのか。
あの無味乾燥な時間は、一体なんだったのか。
アンネリーゼは瀕死のアルヴァロを深く癒すことで、聖女の秘密を知ってしまった。
聖女は人のために癒しを施す?
とんでもない。
この大いなる快楽は、聖女自身のものだ。
魔性化が解けたアンネリーゼに、国王から命が下った。
国境沿いの村々をめぐり、魔物被害者の治療にあたれと。
ゲートルドの大規模な従魔術実験により、多数の魔物が国境を越えてハルツェンバインに逃げ込んだ。そのため国境沿いの地域に多大な魔物被害が出た。魔物は討伐されたが被害者の数は例年の十数倍にのぼり、多くの人々が現在も怪我に苦しんでいる。
これは罪人となったアンネリーゼの禊の旅だ。堕ちた聖女への戒めだ。
誰もがそう思っただろう。
王都大聖堂の豪奢な部屋で癒しを行っていた一位の聖女がその座を失い、辺境をめぐる癒しの旅に出る。誰もが納得する、堕ちた聖女の償いであり罰である。
(罰、ね)
アンネリーゼは薄く笑った。
願わくば、一生この罰を受けていたい。
この村での癒しの場は、村長の家の庭先だった。
木の下に用意された色あせた布張りの椅子に座るよう、見張りの騎士に促される。
王都大聖堂癒しの間でそうしていたように、アンネリーゼはゆったりと椅子に腰かけ足を組んだ。ひばりが鳴きながら空をゆく。霧は晴れ、天気が良くなった。
「誰も来ないじゃない。ここの村人も魔女が怖いのかしら」
今までいくつかの村を回ってきたが、初日の午前中は皆様子を伺うだけでなかなか癒しにやってこない。魔性に堕ちた聖女が怖いらしい。誰か一人でも来れば、あとは雪崩を打つように怪我人が押し寄せるのだが。
暇なので、優美さのかけらもない村長宅の庭を見回す。草がぼうぼうに生えた片隅に、なにかうごめくものがある。目を凝らすと、小鳥のようだった。アンネリーゼは立ち上がり、名も知らぬ鳥に近づいた。
(怪我をしているわね)
獣か猛禽類にでもやられたのか、小鳥の片翼はねじ曲がり、付け根は血で汚れていた。ほうっておけば数時間で死ぬだろう。その前に狐か鼬にでも食われるかもしれない。
アンネリーゼはしゃがみ込み、小鳥の傷ついた翼に手を当てた。
憐れんだわけではない。暇だったから。
シュウッとかすかな音をたてて小鳥の傷が塞がる。少し手を添えて羽の位置を直してやると、小鳥はきょとんとしたように首を振り、二、三歩歩いてから空へ飛び立った。
鳥が見えなくなるまで見送りながら、死にゆくはずの命を無理矢理生かすのは精霊の意志に沿うことなのか、それとも逆らうことなのかと、アンネリーゼは疑問に思った。
ふいに、ギッと車輪の音がした。
音のほうを見ると、荷車に乗せられた十二、三歳の少年と目が合った。荷車を押しているのは父親だろうか。
「あっ、あの……。聖女アンネリーゼ……?」
おどおどと父親が問う。
アンネリーゼは立ち上がった。
「癒しかしら?」
荷車の少年の赤黒く膨れた右足を見る。壊死しかかっている。
「はい。魔物に噛まれて」
変声期のかすれた声で少年自身が答えた。
アンネリーゼは何も言わずに半ズボンから伸びる傷んだ足に手を当て、滑らすようにそっと撫でた。
「えっ……。うそ」
風船が萎むように、少年の膨れた足が元の形に戻ってゆく。
ものの数秒で何事もなかったかのような状態になり、少年も父親も言葉をなくしていた。
アンネリーゼは礼も待たずに、彼らに背を向け歩き出した。
快楽の余韻に浸る顔を見られたくない。状態が酷い怪我を癒すと快感が大きく、油断すると表情に出てしまう。
「せ、聖女アンネリーゼ……!」
「あ、おいっ」
ガタガタと音がしたかと思うと、追いすがる足音が聞こえた。少年が荷車から降りたらしかった。
「歩けるよ父さん、おれ……!」
「おい待てって」
「聖女アンネリーゼ!」
アンネリーゼは面倒な気持ちを表情に張り付けたまま振り返った。しかし少年は、アンネリーゼの不機嫌など気に留めなかった。
「ありがとうございます! おれ……おれ……また歩けるなんてすごくうれしくて……」
「走れるわよ」
「走れるなんて……おれ……」
少年が感激のあまり涙で目を光らせ、顔をくしゃくしゃにする。
「走れるようになったその足で、村を回って怪我人を連れてらっしゃい」
アンネリーゼが顎でしゃくるように少年に命じると、彼は大きくうなずいて走り出した。ひさしぶりで慣れないせいか足がもつれて転んだりしている。
すぐに大勢の怪我人がやってくるだろう。
アンネリーゼは木の下の椅子に戻った。悠々と足を組み、そよ風に身をさらす。視線を感じて見上げると、横に立つ見張りの騎士がこちらを見ていた。森の泉にアンネリーゼを迎えに来た騎士だ。彼はすっと目を逸らしたが、忌まわしい魔女を見る目ではなくなったことにアンネリーゼはすぐに気付いた。
(この騎士は次の村へ行く前に交代させないと)
騎士の頬が赤らんでいる。若くて見目好い騎士だ。遊び相手にちょうどいいが、自分に惚れる男は破滅するからさっさと遠ざけないといけない。
(わたくしってやさしいわね)
少年の元通りになった足に驚いた村人が、その後次々とやってきた。家から出られないほど状態が酷い者も何人かいるということで、アンネリーゼは騎士を伴い家々をまわる。
病気もいいかと問われたので、構わないと答えて最後に病に臥せった主婦のいる家へ向かった。ぐったりとした主婦を癒しながら、アンネリーゼは今までと違う引っ掛かりを感じた。主婦の体には、自分には手が届かない魔力の凝りがいくつもあった。
(魔障だわ。毒魔法)
アンネリーゼの癒しで一時的な回復状態にはできる。しかしやがてまた毒は体をめぐり、ほうっておけば死に至る。全快を信じて喜ぶ主婦とその家族に礼を言われながら、アンネリーゼはすっきりしない気持ちで家を出た。
(田舎の主婦がどうなろうとわたくしの知ったことでは……)
このもやもやした気持ちはなんだろう。沈む気持ちで村長の家に戻る。もう夕刻で、定位置となった木の下の椅子が夕日に照らされている――。
(誰よ。わたくしの椅子に座っているのは)
みすぼらしい布張りの椅子でも、そこは自分の場所だ。尊大な態度で椅子に腰かける女の顔は逆光で見えなかったが、波打つ長い髪が背後からの夕日に染められオレンジ色に輝いている。
「ちょっとあなた――」
「あっ、アンネちゃ~ん!」
聞き覚えのある声が女のシルエットから発せられた。アンネリーゼはようやく、女の髪が夕日に照らされてオレンジに見えるのではないことを悟った。
「……何しに来たのよ」
「あら冷たいわね、友達に向かって」
「友達になった覚えはないと何度も言ったわ」
「相棒だったわね!」
「それも違うと何度も言ったわ」
「それが、相棒なのよ~。ちょっと聞いてよアンネちゃん」
「アンネリーゼよ!」
「王様ったら酷いのよ。あたしをミアに会わせてくれないの。会いたかったら魔障の被害者を救ってハルツェンバインの役に立てですって。ゲートルド人だから信用ないのよ、あたし――ちょ、ちょっと何? アンネちゃん」
アンネリーゼは無意識に、モニカの手を引っ張って踵を返していた。
(すっきりしたわ)
主婦の家にもう一度あがりこんで、アンネリーゼはモニカに毒魔法を解除させた。これでもう、主婦が再び毒に蝕まれることはない。
すっきりした。本当にすっきりした。
癒しの力を使ったときとは別の快感があった。
「アンネちゃん、ちゃんと仕事してるのねえ……」
再び村長の家に戻る道すがら、モニカにしみじみと言われる。
「だから何」
「えらいなって」
「えらくないわよ」
「えらいわよー。ね、あんたもえらいって思うわよね?」
モニカが見張りの騎士に話を振る。騎士ははにかんだ笑顔で頷いた。
「えらくないわよ! わたくしは好きでやっているの!」
「好きで!? 好きでやってるの!? アンネちゃんが好きで人助けを!?」
「ちがっ……そういう意味では……」
「さすが大聖女の娘だわ。いろいろあったけど、アンネちゃん真に目覚めたのね。真に聖女に目覚めちゃったのね!」
「違うって言っているでしょ!」
「何がどう違うってのよ?」
「それは…………」
答えられない。答えたところで理解は得られないだろう。
癒しの力を強く深く使うと、身が震えるほどの大きな快感を得られるなどと。
(わかるのはお母様しかいないわね。きっと)
大聖女コルドゥア。
彼女は人助けに生きた聖なる偉人などではなかった。
ただひたすら、己の快楽を貪り続けた女だ。
アンネリーゼはこの癒しの旅で、カレンベルク家の玄関広間を見下ろすコルドゥアの肖像画の、気味の悪い微笑の意味を知った気がする。
わたくしは好きでやっているだけなのに、皆わたくしを崇めて馬鹿みたい。わらっちゃうわ。
――きっとそんなところだ。
聖女と呼ばれようと魔女と呼ばれようと、母も自分も、人の世では異質な何かだ。もしかしたら、魔物なのかもしれない。
母も自分も、このオレンジの髪の女も……。
「アンネちゃんがちゃんとお仕事してるんだもの、あたしも相棒としてちゃんとやるしかないわ~」
「相棒って何よ……」
モニカと組んであの主婦のような例を救えということだと察しはついた。モニカに言うことをきかせるのは並大抵ではないと思うが、宮廷はミアを人質にとっているようなものだ。王宮にミアがいればモニカも戦力にできる。国王は上手くやったものだと思う。
「まずは癒しの旅みたいな小さいことからはじめて、いつか一緒にでっかいことやりましょうよ、アンネちゃん」
「ゲートルド王家のお家騒動みたいなのはもうごめんだわ」
「あっそうか。一発目がでっかいことだったわ! やーね、忘れてた」
「よくあんな大事件を忘れられるわね。鳥並みね、あなたの頭って」
「あたしは今しか見えないの。ふふん」
「胸張って言うことじゃなくってよ。反省なさい」
「絶賛反省中の人が何か言ってるわ」
モニカとのやりとりに見張りの騎士がくすっと笑う。
睨んでやったら、騎士は「すみません」とうろたえて口元を押さえた。
(このわたくしを笑ったわね。誘惑して骨抜きにして破滅させてやろうかしら)
アンネリーゼが騎士に憤っていると、「聖女アンネリーゼ~!」と呼びながら駆け寄ってくる者がいた。今日最初に来た少年だ。
「お友達ですか?」
少年がモニカを見て、にこにこ笑いながら言う。
「友達なんかじゃなくってよ!」
「そうですか? 仲良さそうだったので」
「仲良くなんかなくってよ!」
「そうですか? あの、おれ、聖女アンネリーゼに、足を治してもらったお礼にこれあげたくて」
少年はポケットから、透明な丸いものを取り出した。
魔石だ。
「きれいでしょ? 中に白い薔薇が咲いてるみたいで」
少年は暮れかけた空に魔石をかざした。魔石の中の、花弁のように重なる白い層が、夕日の残光に薄く透ける。
「……ええ」
「もらってください! お礼です」
アンネリーゼは差し出された魔石を受け取った。自分の手でもう一度夕日にかざして見る。とても綺麗だった。
「これ、妹のフローラにあげてもいいかしら? 美しい魔石を集めているの。これをあげたら喜ぶわ。わたくし、あの子の喜ぶ顔が見たいの」
アンネリーゼは思ったままを口にしただけだったが、なぜかモニカと騎士が驚いた顔で固まってしまった。
「どうぞ! おれもうれしいです」
少年だけが満面の笑みだ。
アンネリーゼはもらった魔石をハンカチーフに丁寧に包み、ポケットにしまった。「ありがとう」と少年に言うと、彼はポッと顔を赤らめた。美しさって罪ねと、他人事のようにアンネリーゼは思った。
アンネリーゼが去ったのちも、村人たちは黒衣の聖女のことを忘れなかった。とくに右足を治してもらった少年は、「ほんとうはやさしい方なんだよ。傷ついた小鳥だって癒してた。それに妹思いで――」と後々まで熱っぽく語っていた。
この村でアンネリーゼの護衛を担当していた騎士はその任を解かれたあとも、黒衣の聖女の噂を耳にするたびに、美しい彼女の面影にひっそりと胸を焦がした。




