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遅くなりました!
風?
その風に仄かに混じる香り。
この香りを私は知ってる。
この香りは……。
「ふぁ」
「起きたか?」
「ん?」
「意外だな。くれはは朝弱いのか」
「……光輝?」
そうだ。あの香りはいつの間にか慣れてしまった光輝の香り。
でも何で此処に光輝がいるのだろう?
ぼーっとした頭を無理矢理働かせようとするけれど、朝が弱い私には難しい。
「くれは?寝ぼけてるのか?」
「ん〜ん、起きてる……」
言葉を発するも徐々に閉じてく瞼に抗えず、身体を丸めて暖かい寝具に潜り込む。
「くくっ、まだ早いから寝てろ。時間になったら起こしてやるから」
楽しそうな笑いを含んだ優しい声が私を眠りへと誘う。
「起きたら、虎の散歩おじいちゃんと行くから、もう少しだけ……」
「っっ、わかった。おやすみ、くれは」
「う……ん、おや……す……み……」
心地良い微睡みに容易く屈した私の記憶は其処で閉じた。
「虎……か」
虎はくれはが前世で飼っていた豆柴の名前だ。毎朝、爺さんと散歩してたのを覚えてる。あの事があった後に飼いだした虎は、引き籠もっていたくれはを外へと導いきその上、家族との繋がりも強めた。
削ぎ落としたかの様に表情を失っていたくれはを初めて笑顔にしたのも虎だった。だから虎には感謝してもしきれない。
……何故か嫌われていたけれど。
しかし、くれはは警戒心が足りない。
いくら警護の為とはいえ、年頃の、しかも自分を好きだという異性と一晩を過ごしているのに、この有様だ。
勿論、くれはが嫌がる事をしようとは思わない。くれはのペースに合わせようとはしてるけれど、こんなに無防備でいられると時々無性に腹立たしくもある。
そう思ってしまう俺はまだまだ未熟者なのだろう。
幼子の様に布団に丸まって潜り込むくれはを愛らしいと感じ護りたいと思うと同時に、布団から引摺り出し無茶苦茶にしてしまいたいと思う自分がいる。立場的にも激情に駆られるわけにもいかないと頭は理解しているけれど、心の奥に燻り続ける焔はどうやっても小さくなったり、消えたりする事はない。
時折、その焔は胸を焦がさんばかりに燃え上がるから、それを抑えるのにかなり苦労してるのだ。
そんな苦労を知らず、屈託なく接してくるくれはと一緒に居るのはなかなかにきついものがある。
……まあ、俺自身の事はいい。
くれはとクレメンティーヌ、俺とヴィンセントは、もう完全に融合した。
だけど予想よりも俺やくれはの存在が多く残った。
だからこその弊害。
俺達の前世の記憶。
この世界で生きていく上で別の価値観や想い出が多い事はあまり良い事ではない。為すべき事を躊躇ったり、進むべき方向へ行けなかったりするからだ。
この世界にはこの世界のルールがある。
勿論、良心に恥じない様に生きようとは思っているけれど、この世界での俺やくれはの立場にはそれに伴う義務が多い。それ故、前世でのルールでは考えられない選択肢を選ばざるを得ない時もある。
それを前世の記憶が邪魔をする。
俺はまだいい。
前世でもそこまで綺麗な生き方をしてきた方ではない。持てるものを使い、排除すべき相手に容赦せず、欲しいものの為に手段を選ばなかった。
だから王太子として為すべき事をするのに問題はない。
だが、くれはは俺とは違う。
口では強気な事を言っているが、本来の性分は変わっていない。結局、どんな事をされても許してしまう。
慈悲深い、とも言えるがそれは貴族社会では格好の的となる。
愛らしく無邪気なままでいては足元を掬われるだけだから。
そのままのくれはでいて欲しいけれど、王太子の婚約者、いずれ王妃になろうとも俺だけでは護りきれない。
くれは自身がもっと強くならなければ、潰されてしまうのだ。
だけど……。
久しぶりに見た警戒心の無い、ただただ柔らかな雰囲気のくれはは全てを擲っても良いくらい愛しくて。
答えの出ない悩ましさに小さくため息をついたのだった。
◇◇◇◇◇◇
「……は、く……は、くれは」
誰かが私を耳元で呼ぶ声に意識が覚醒する。
「時間だ、くれは。起きないなら襲うぞ?」
艶を帯びた色々な意味で危険な声に身体が反応する。
パチリと開けた視界いっぱいに二次元を立体化しても、ここまでは無理だろうと思える程のイケメンがいた。
「っっ、ち、近い!近い、近い、近いっっ!」
「残念。もう少し遅かったら襲えたのに」
「起きた、起きましたから!」
すっと身を引くあたり軽口なのだろうけれど、寝起き一番驚いた!心臓に悪いから止めて欲しい!
身を起こした私にさっと近付いた光輝。
チュッ。
わざとたてられたリップ音にキスされたのだと気付く。
「おはよう、くれは」
「………………」
欧米か?寝起きにキスなんて、欧米かっ?
声も出せずわなわな震える私。
「まあ、この世界観って中世ヨーロッパに似てるから、ある意味欧米だな」
「何も言ってませんが?」
「顔に書いてある」
読むな!読まないで!心の声も顔の文字も!
あははっと子供みたいに笑う光輝を睨みつけたのに、長くは続かなかった。
「殿下、少々よろしいでしょうか」
ノックと共に掛けられた声の主は近衛騎士のもので、その声は隠しきれない動揺と緊張に震えていたからだった。
「暫し待て」
「クレイ、身支度をしたら、攻撃、防御の魔道具の準備をして私の所まで来て」
「御意に」
ゲームでは省かれていた遠征地までの旅路で何が起こるのかなんて私にも想像がつかない。
でも、これは現実なんだ。
この世界に転移してきた私達の現実。
光輝が出て行った扉が音もなく閉じた。
次回の投稿は5/31(月)です。