不安
一夜が明けた。
悪阻がおさまってきたおツネは今日は機嫌が良いらしく、朝寝をきめこもうとしていた庄吉を揺り起こすと店へ出かけていった。なにが不満なのかこの十日ばかり、おツネは事あるごとに庄吉にあたっていた。こんな些細なことでと戸惑っていると、おツネの不機嫌がさらに嵩じる。腫れ物にさわるような日が続いていたのだが、それが嘘のように穏やかになっている。現に今朝方だって、追い立てるように寝床を片付けようとはしなかった。その急変ぶりに驚き、戸惑う庄吉の視線に気付くと、ウフンと笑いさえする。子を宿した女にありがちなことだとおハツに耳打ちされてはいたものの、女は魔物だと庄吉は思う。
その魔物がいないうちに大掃除をすませてしまおうと、庄吉は裏も表も開け放した。
大掃除といっても狭い長屋のこと、たまった埃を落とせば終わったようなものだ。たちこめた埃が外へ出て行くまでの間に竈の灰を掃除して、敷きっぱなしのゴザを天日に晒すくらいのことである。わけなく済んでしまった。
まだおツネの腹は目立ち始めたところだ。これから寒さが厳しくなることを考えると、おツネの身体を労わってやらねばと思う。銭が入ったことだし、夜着くらい奮発してやろう、炬燵と行火も買ってやろう。いや、炬燵よりも綿入れのほうが喜ぶだろうか。そんなことを考えながら路地に出ると、隣からも、そのまた隣からも濛々と埃が噴き出ている。向かいの戸が開いたとたんに埃がなだれこんできたので、慌てて戸締りをしなければならなかった。どうやら庄吉が大掃除を始めたのをきっかけに、どこの家も始めたとみえる。
庄吉は、火事場から逃げるように路地から飛び出していた。いい気になって使うような余裕はないが、身重の女房のためなら少しくらいはかまうまい。手持ち無沙汰になった庄吉は、さっそく古着屋に駆け込んで程度の良い綿入れと夜着を手に入れた。ついでに行火も手に入れて、ウキウキとしながら店の裏で薪割りをしていたのだ。明日は大晦日、さすがに今日も仕事で出歩いている者は少なく、店は開店休業のようであった。
「ゆるせよ」
表の障子戸が開いて、高山が姿をみせた。今日は珍しくきちんとした身なりをしている。
「おいでなさいまし。お父っつぁん、高山様がおいでだよ」
「こんな狭い店だぞ、言われなくてもわかってらぁ」
お君が奥へ伝える間もなく、徳市の声がした。
大急ぎで薪を積んだ庄吉が店へ顔を出すと、黒紋付の羽織を着た高山が床几に腰をおろすところだった。徳市がしきりと桟敷へ誘うのを断り、高山は熾った炭に手をかざしてここが良いと取り合わない。
「高山様、今年もお世話になりやした。若い者に目ぇかけていただき、何とお礼を言ったらいいのか」
徳市は、今日は神妙な表情で深く頭をさげた。
「徳市、よせよせ、似合わぬことをするな。いや、源太と庄吉に手伝うてもらい、まことに助かっておる。実に天晴れな働きをしておるぞ。たった半年手伝うてもろうただけで、三十両も売値が増えたのだ。三十両だぞ。礼を申さねばならんのは儂のほうだ」
高山は自慢げに指を三本突き出してみせ、軽く頭を下げた。
「ちょっちょっ、何をなさるんで、およしんなってくだせぇ。おいらみてぇな者に頭を下げるもんじゃありませんぜ、冷や汗が出ちまわぁ。ところで、今日は特別な身なりでございますが、どうしなすったんで?」
慌てて両手を振った徳市は、かえって恐縮してしまった。
「ああ、今日はな、来年も勤めができるかお伺いの日なのだ」
悪戯っぽく笑った高山が、手刀で首をトントン叩いてみせる。
「来年って……、まさか、お役をお辞めになるので? いけませんよ高山様、絶対ぇ辞めちゃだめでやすよ」
「そうではない」
高山は、朗らかに笑って徳市の間違いを打ち消した。
「儂ら軽輩はな、一年ごとにお伺いをたてねばならん。長年申し付くるという一声がなければお役御免なのだ。それで、与力の園田様のお屋敷に行ったというわけだ。いや、源太や庄吉の働きを甚く買ってくださり、仲を取り持ったということで儂まで褒めていただいた。元をただせば徳市のおかげだ。それに、徳市にはもう一つ借りができた。捨松との縁を結んでくれたからな」
「じゃ、じゃあ高山様は辞めなくても」
「おお、しっかり励めと力強いお言葉をいただいた」
うんと一つ頷いて、晴れやかに言った。
「そうでしょう? そうでなくっちゃ。脅かしっこなしですよ、高山様」
「すまぬ、言い方が悪かった。ところで徳市、いつになったら飯を食わせてくれるのかな。注文できずに困っておるのだが」
「ええ、すぐにご用意しますよ。今日は寒いから汁を変えましたのでね、少しお待ちくだせぇよ」
徳市は上機嫌だ。神様のように慕う高山が与力から褒められ、その理由が、源太と庄吉の働きだと告げられたからである。本当はそうではなく、真面目な仕事ぶりや、多くの人足に慕われる人格を褒められたのだろう。しかし高山は、必ずひとつ隔てた者を褒めることで暗に徳市を褒めていた。それは直に褒められれば嬉しいが、源太や庄吉を褒めれば猶喜ぶと、心得ているのだろう。
「お待たせしやした。今日は、粕汁でございますよ」
お君が配んできた碗には真っ白な汁が湯気をたてていた。
「これはこれは、粕汁か。いや、これはありがたい。ところでな、あの品書きはいったい何を食わせてくれるのかな?」
皆でワイワイ言いながら名づけた『大瓢箪甘辛煮』の札を指した。
「えーっと、昨日は牡蠣だったのですが、今日はどうでしょうね。ま、まあ、ものは試しですから、お召し上がりください」
小気味の良い下駄の音をたててお君が配んできた小鉢に、どす黒い塊がいくつか並んでいた。その色目に眉をしかめた高山が、おずおずと箸をつけた。
「おお、なかなか美味いではないか、これは好い」
一口噛み切ってもぐもぐすると、想像したように醤油の辛さが口いっぱいに広がった。と同時に、甘みがあるのである。醤油辛くありながらねっとり甘い。牡蠣の味が混ざり合って、とても美味いと感じた。
「徳市、持ち帰りたいのだが、少し包んではくれぬか」
高山はとても喜んだ。が、素っ気無い返事を返しただけで、徳市は勝手場から出ようとしない。
「生憎でやすが、それが最後でして。もう客も来ねぇだろうと少なめにしたのでね」
あいすいませんという言葉をのみこんで、頭だけ下げてみせた。
「……そうか。家の者にも食べさせようと思ったのだが、品切れならば仕方あるまい」
残念そうな素振りをみせながら、山盛りの飯をたいらげた。
「お君、お茶を替えてさしあげな」
言いながら現れた徳市は、両手に重箱を持っていた。
「こんなもの、お口に合わないでしょうが、皆さんでお召し上がりいただければ」
重ねてあるのを飯台に並べると、煮しめや田つくりといった節会の料理が見た目よく詰め合わせてある。その真ん中に茹でた海老が朝焼けのような色を思わせた。
「これは?」
「へいっ。正月でございますから、どうかお屋敷で皆様と。ただし、味は保障しませんぜ」
重箱を重ね合わせると、風呂敷にしっかり包んだ。
「甘辛煮も入えっておりやすよ」
悪戯っぽく目が笑っている。
「それから、こいつは高山様の分だい」
小餅と延し餅も飯台に載せた。
「これはこれは、何からなにまですまぬな。妻も喜ぶことであろう。で、代はいかほどかな?」
「へっ?」
「鳥目だ、代金だ」
「へい、三十文頂戴しやす」
「三十文? それではこの料理は?」
「そいつはご挨拶でございますよ。一年病にもかからずやってこれたんでさぁ。そのお礼でございます。それに、若い者がお世話になった。天秤にかけたら足りねぇのは承知しておりやすが、どうか気持ちだけでも」
「莫迦を申せ。徳市のおかげで三十両だぞ、世話になったのはこちらだ」
「いえ、そう仰らず」
「……そうか。では、遠慮のう馳走になる」
高山様はまたしても頭を下げた。
「ちょちょっと、止してくだせぇよ。それより、昨夜富田町が来て言ってたんですが」
「ああ、あれな。本来なら其の方に相談すべきではあるが、仕事の内容がな。捨松ならば顔が広かろうと思うたのだ」
「水臭ぇな、高山様。おいらに話してくれたらその場で引き受けやすぜ」
特に怒っているわけではなく、それでもいくらか不満な気持ちを徳市は正直に言った。
「其の方に申せば二つ返事で引き受けてくれるとは思うたのだ。だがな、そうまで甘えることはできぬ。それに、捨松には徳市という後ろ盾がおるからな。それよりも、立ち直ろうとする人足を理解してくれる者を増やさねばならん。それで捨松に声をかけたのだ」
耳の後ろを指で掻き、なにかいい訳をしているような姿は、高山がよくやる仕草である。
「ならいいんですが、わかってくれる者ねぇ? また難しいことを考えなさる。どうしても増やさにゃならねぇんでやすか?」
「ああ、増やさねばならぬ。いかに徳市一人が理解したとして、世間の者が白い目で見たら居たたまれまい。そのようなことになれば、いずれ同類ばかりが集まることになる。と、どうなる?」
「どうなるって、まあ、考えのねぇ奴がいやすからねぇ。それにお調子者がくっつく。となりゃあ、じきに羽目外しちまいまさぁ」
なにをわかりきったことを言わせるのだ。徳市は、せせら笑いながら思いつくことを言った。
「そうだな。が、それでは意味がない。よくわかってくれる者がおれば、瀬戸際で踏みとどまるのではないかな。その辛さに耐えたのが徳、其の方よ。ただな、お君やおツネ、おハツがいなかったとしたらどうだ?」
高山がじっと徳市に目を注いだ。目尻に皺を寄せ、慈しむように見つめている。
「いなかったら、でやすか? そりゃあ、肩に重石がなかったら、極楽トンボをきめこんだかもしれやせんね」
そうだったことを想像しているのだろう、徳市は黒目を上に向けていた。
「其の方には、そうやって己を縛る者がおった。いや、そうやって縛ったのは徳市、其の方自身だぞ」
「へっ? おいらがおいらを縛ったんでやすか?」
徳市はきょとんとした。なにを馬鹿なことを言い出したのか、きっと高山様はからかってなさるんだとでも思ったのか、ヘラヘラと笑ってみせた。
「そうだ。考えてみよ。お君のことなど放っておいても良かったのだ。おツネやおハツのことも知らぬ顔ができた。というより、普通の者ならそうするであろう」
「そりゃあ……ねぇ……。荒くれ者ってのは、女房だろうが子供だろうが、平気で捨ててしまいやすから」
ところが、高山の話すことを聞いているとどうやらからかっているのではないらしい。
「それ、そこよ徳。其の方は、義理堅くお君を育てた。そうする中で、貧しさに喘いでいたおツネとおハツにも目が届いた。無論、其の方の男気があったればこそだが、彼の者を守ろうとした。つまりだ、遊ぼうとか、怠けようという心を捻じ伏せてきた。見ようを変えれば、其の方の男気に縛られたともいえよう」
「あっ、あぁ……、なぁるほど……」
高山の一言一句がすんなりと心に沁みてくる。自分は間違ってはいなかったのだと高山が穏やかに諭してくれている。そうやって自分の値打ちを十分に理解してくれる高山が、徳市は好きだ。
「それが長じて所帯をもった。源太と庄吉だ。それに儂との縁をとりもってくれた。また、捨松という善い縁もな。こう考えたら、其の方を真ん中にして人が繋がっているであろう。昔の徳市なら、間違いなく縁のない話だ」
「そりゃそうですよ、誰が御用聞きと兄弟分になったりするもんですか」
「であろう。庄吉にしたところで、今日の庄吉があるは、おツネのおかげ。いや、おツネは女傑だ。が、その切っ掛けをつくったのは徳市、其の方ではないか」
「えっ、何かやらかしましたか?」
「あ、いや。おツネのことはともかく、庄吉を怒鳴りつけたと聞いておる。よう教えてやってくれた」
「あぁ、あれでやすか。あれはそのぅ、人の道ってやつをね。ところで、おツネちゃんがどうしたって?」
「あぁ、いやいや、その話は忘れてくれ。とにかく、そうしてわかってくれる者がおらなんだら、人などすぐに畜生に落ちてしまうものだ。そこへゆくと、今の暮らしは楽しいであろう? ありがたいことだと思わぬか?」
「そりゃあまあ、今は万々歳で」
「人足とはいえ、縁あって知り合うた者どもゆえ、其の方のように生きてもらいたい。そう願うておるのだ。だから、理解してくれる者を一人でも増やさねばならんのだ」
こうして教えてもらえば、高山が考えていることがいかに重要なことか理解できる。それにしてもと徳市は思う。罪人の、咎人のと毛嫌いされる者を人と認め、世間で生きていっかれるように心を砕ける役人など、ほんの一握りだろう。せめて高山の考えが町名主にまで浸透すればどれだけありがたいかと。
「ところで、富田町に頼みなすったという奴ですが、どんな奴なんで?」
「イハチという名でな、左官の仕事を覚えさせた。生まれは」
「おっと、そういうことは本人の口から。左官を覚えさせたということは、前とは違う仕事ってことでやすね。……そうですかぃ。で、いつ頃」
「松がとれたらと考えておる」
「そりゃあ急がなきゃいけやせんね。住むとこ、所帯道具、それっくらいは何があっても要りやすから。で、掛かりはどこから?」
「まずは当方で支払うつもりだ」
「なるほどねぇ。……じゃあ、どうでしょう高山様、そいつを貸していただかにゃいけませんが、よろしいんで?」
「そうしてやってくれるか、いやありがたい。迷惑でなければ明日にでも来させよう。話を聞いてやってくれるか?」
「聞くもなにも高山様、イハチには借りがありやす。おろそかにはできねぇ。ところで、庄吉が言ってたんですがね、もう一人いるって」
「そうなのだ。どうやらそ奴、庄吉と気が会うらしい。それに、そ奴を素直にしたのは庄吉なのだ。もう放免せねばならぬ時期にきておるのだが、残りたいと願い出おった。それで、庄吉に友になってやれぬか頼んだところだ」
「そうですかぃ。あいつがねぇ……。大人しいはいいが覇気がねぇ。なのに慕ってくれる者ができたってのはたいしたもんだ。えぇ、庄吉の後ろ盾ならいくらでもしやすよ。イハチってのと相性が悪くなけりゃ、いっしょに寄越していただいて構いませんよ。おっと、富田町の都合もあるだろうから、これからちょっと話に行ってきやすよ」
年末の慌しいにもかかわらず、徳市は快く高山の願いを受け入れた。
「おいおい、そんなにせずとも。まずは自分の用を先にしてくれ」
「かまいませんよ。うまくすりゃ高山様、三人目、四人目の源太かもしれねぇ、庄吉かもしれねぇ。そう考えたらね、うふっ、嬉しくってねぇ。高山様、よくぞご縁をはこんでくださいやした」
きっぱり言い放つ徳市に、高山が三度頭を下げた。
暮れも暮の大晦日、イハチと辰一が二人して深川にやってきた。放免する前に町へ出すなど奉行所ではありえないことで、現実に来訪をうけた捨松はそれだけで驚いた。
「お前ぇたち、十手者の詮議を受けたらどうすんだ? それにしても無茶なことをしなさるぜ、高山様は」
二人を伴って店の暖簾ををくぐった捨松は、何度も首を傾げてみせた。
イハチにとっては見慣れた店、そして、辰一にとっては初めての店である。主の素性については高山が教えていたようで、いつも挑戦的な辰一でさえ小さく畏まっていた。
「なぁに高山様のこった。どうせ、用事で出したってぇ印を持たせてなさるに決まってらぁ、そうだろ?」
徳市は、すっかり高山を信じきっている。その言葉を証明するように、二人が木札を示した。
「見ろぃ。やっぱりそうだ。あのお方は、ちゃあんと考えてくださってるんだい。そこが町方と違うところだい」
徳市は、自分のことのように自慢した。
「早速だがよ、お前ぇたち落ち着き先に困ってるそうだが、どこがいいって腹積もりはねぇのか?」
「場所なんかどこでも」
出合った時の印象そのままに、イハチはポツリと答えた。
「どこでもってお前ぇ、そんな捨て鉢なこと言うなよ、これから暮らすとこだぞ。静かなとことか、飯屋の近くとかよ、なんでもいいんだぜ」
徳市は、イハチの愛想なさなど一向に構っていない。むしろ素の姿を見せているイハチに好感を抱いてさえいた。
「本当に、どこでも構いはしません」
ぼそりと言ってじっと徳市の目を見つめた。力強い目である。それを受け止める徳市は、うんうんと頷いた。にこにこと笑みを絶やしてはいない。が、目は笑っていない。顔はヘラヘラ笑いながら、目だけはしっかり気合が入っている。
「そうかい。じゃあ、任せてもらっていいんだな?」
ゆっくり頷くイハチを見て、徳市は捨松に心当たりを訊ねてみた。すると、富田町に長屋の空きがあるということがわかった。善は急げ、早速唾をつけに行こうということになった。
「おぃ待てよ富田町の。今日が何の日かわかってんだろう、大晦日だぜ。いくらなんでもそりゃぁねぇだろ」
「徳さん、お前ぇは馬鹿か? 年が明けたら日がねぇんだぞ。なぁに、同じ町内だぁ。差配だって心安いのよ」
「まさかお前ぇ、御用風吹かそうってぇんじゃねぇだろうな」
「長生きするぜ、お前ぇはよ」
言うなり、捨松は皆を急きたてて表へ出た。
「なんでぇ馬鹿野郎、下手に出てりゃ付け上がりやがって。あんな目で見ねぇでもいいじゃねぇか、人をなんだと思ってやがんでぇ」
長屋を借りられたまでは良かったのだが、店賃の払いのことで捨松が口を滑らせたのがいけなかった。当面は高山様が払うと捨松が言うと、それはどなた様かとなった。口裏を合わせる算段などしていなかったので徳市が言い訳を考えている間に、実はこうこうだと捨松が漏らしてしまったのだ。そんなことを言えば、余計に詮索するに決まっている。そんなお役人がどうして店賃を肩代わりするのかと、こうなった。慌てて徳市が適当な口実をつけたのだが、胡散臭そうにイハチを見たのだ。
「富田町の、怒るお前ぇがおかしいぜ。あれが世間ってもんだ。イハっつぁんもよく覚えとくこった。どっちにしても新参者ってなぁあんな扱いを受けるもんだし、自棄おこすんじゃねぇよ」
徳市は、しみじみと言った。自分も最初は自棄をおこしそうになったからだ。その気持ちは堅気の者には理解できないことなのだ。
「まあいいや。それじゃあついでだ、町名主さんに挨拶しておこう」
捨松は、徳市ほど気持ちの切り替えが早くない。というより、自分が納得するまで突き詰める性格である。そうでなけりゃ指物の仕事なんてできるわけがないし、御用聞きを勤めることもできなかったろう。その捨松があっさり気持ちを切り替えたのは、町名主に挨拶するからだった。人別の保管から道中手形の発行、最悪の場合、町役人として白州に連座を命じられるのが町名主なのだ。そんな立場だからこそ嫌がられもしようが、親身になってもくれる。どちらになるかはイハチしだいとはいえ、捨松の口利きはイハチにとって心強い味方になるはずだ。憤懣やるかたないといった態度をどてらに隠し、捨松は町名主に一通りの助力を求めたのである。
仕事のことは年が明けてから。必要な品々もそのときに揃えようということで店に戻ったのだった。
庄吉は、辰一と店に残っていた。寄場への居残りを申し出た手前、辰一が住まい探しを遠慮したからだ。
「庄さんのおカミさんだろう? 器量よしだって、評判だぜ」
おツネを紹介すると、すかさず寄場での評判を告げたのだ。
「評判って、おツネは寄場なんかに……」
「今更誤魔化すなぃ。見られてんだよ、番小屋で掃除してるのを。不細工ならともかく、庄さんにゃあ勿体ぇねぇって大騒ぎよ。ところで、子供ができたのかぃ? いいなあ、おい」
辰一には望んでいけないことである。寄場での生活は三年だとか。較べることはできないが、かなりの期間である。そのほとんどを島の中ですごすのだから、欲求不満にもなるだろう。それにしては、腕っ節の強い者がいないというのに、辰一は逃げようという素振りをみせない。
庄吉は、辰一が求めるにまかせて細工のしかたを教えてやっていた。
「辰さんとかいったなぁ。どうだったぃ、庄さんと話が弾んだかい?」
徳市は、冷えた風を連れて帰った。いかにも寒そうに手を炙ってはいるが、イハチともどもケロリとしている。綿入れを羽織った捨松が胴震いをするのとは対照的だ。
「へぇ、勘どころっていいやすか、コツを教ぇてもらっとりやした。ところで、つかぬことをお訊ねしやすが、お前様はニゴロの……」
「おぅっ、滅多なことを言うんじゃねぇ。その名前ぇはもう捨てたんだよ。今はな、大瓢箪の徳市っていうんでぇ」
捨松が陰気な声になった。
「なぁに、構うもんか。手前ぇの撒いた種だい、仕方ねぇやな」
ありがとうよとでも言うように、徳市は捨松にわずかに頭を下げて、照れくさそうな顔を辰一に向けた。
「確かにニゴロって呼ばれて意気がってたが、今じゃ大瓢箪って通り名だ。その徳市だよ。お前ぇがどんな二つ名か知らねぇが、足ぃ洗わせてくれる男を見つけな。悪いことは言わねぇ、ありがてぇもんだぜ」
徳市が捨松の背中をどやしつけ、得意そうに鼻を擦ってみせた。
「えっ、そうなんですかぃ? だけど、そちらさんは十手者なんでやしょう? ニゴロの親分さんがこともあろうに十手者とねぇ。……そうですかぃ」
「それがどうしたぃ。男と男、よしとなったら素性なんぞ関係ねぇや。笑う奴の気が知れねぇ。違うかぃ?」
「だけど、十手者ですぜ」
「なぁー、焦れってぇ奴だぜ。お前ぇにゃそういうことがなかったんだろ? 人を信じられなかったんじゃねぇのか? だからそんなことを言うんだろう」
「うかっと信用なんぞした日にゃ、カモにされて素っ裸でやすからねぇ」
「なら、どうして放免を断るんだぃ? どうして庄さんと縁をもちたがるんだぃ? 正直になんな」
「そう言うんなら、そっちの兄さんはどうなんでぇ」
「イハっつぁんかぃ? それならお前ぇ、出掛けに十分話をしたぜ、なあ、そうだろ?」
「馬鹿言わねぇでくだせぇよ。ろくに話なんかしてなかったでしょうが」
「いんや、したぜ。目と目でしっかりとな。万事俺たちに任せる。そう言った。そうだろ?」
初めてイハチが微笑んだように見えた。が、相変わらず言葉にはせず、会釈をしただけだった。
「それみろぃ。いいか辰つぁん、手前ぇが相手を信用してもいねぇのに、俺を信じろってのは虫がよすぎる、そうだろ? ここなら何を言ってもかまわねぇ。腹ん中のもん、全部出しな。俺たちゃ、外へは漏らさねぇよ。そのかわり、お前ぇにも守ってもらう。ここで見聞きしたことは、外じゃあ金輪際喋っちゃならねぇ。それが掟だ」
「掟ねぇ。盗賊と同じってことか」
「莫迦言うな。盗賊もやくざも、欲だけでくっついてる外道じゃねぇか。俺たちゃな、欲得ぬき、心だけでくっつくんだ。それっくらいの仁義は当たり前ぇだろ?」
何を思ったか、徳市は言い置いてふいと姿を消した。ずいぶんたって、ほかほかと湯気のあがる鍋を提げてきた。
「せっかく娑婆へ出てきたんだ。これっくらいのことをしてもバチは当るめぇ」
中味を椀に注いで皆の前に配ってまわる。
「やっちくれ。寄場じゃちょいと飲めねぇ代物だ。美味かったら、好きなだけ飲んでくれ」
イハチも辰一も、たっぷり注がれた粕汁に目を奪われた。面倒をかけられているにもかかわらず、嫌な顔をせずに汁を振舞ってくれるのだ。
ふうふう冷ましながら、捨松がズズッと啜り上げた。
「いいなぁ、徳さん。寒いときゃこれが一番だ。お前ぇたちもご馳になんな、それが礼儀ってもんだぞ」
そう言って、またしても派手な音をたてて啜った。
「俺は……、川崎の生まれです」
「そうかぃ、川崎かぃ」
突然イハチが話を始めた。ずっと黙ったままだった男に、何か変化があったのだろうか。徳市は、咄嗟に鸚鵡返しで返した。
「お大師様のすぐ近くで漁師をしてたんでさぁ。漁師ってもただの勢子、なんとか銭を掴もうと思いましてね」
「勢子じゃあ稼ぎが悪かったか?」
「仲間と組んで、漁でもらった魚をイケスにためてました。たまったら江戸へ運んで買ってもらう。何度もそうして稼いでました」
「なかなか上手ぇ銭儲けを考えたな」
「その晩、俺と銀二は交代で船を漕いでた。舟を出す時には星が出てたんだ。それが急に消えちまった。交替で寝てたもんだから、銀二が指した方へ向かったんだが、そうじゃなくてな」
「どうしたぃ」
「気が付いたら岩に乗り上げて、そのとき銀二が海ん放り出されて……。必死で銀二を探したけど見つけらんなくて……」
「……そうか。うん、わかった。よく話してくれたなぁ。俺もな、仲間を死なしてんだ。俺が手ぇかけたわけじゃねぇよ。そいつもな、手向かいしなけりゃ命は助かったはずだ。けどよ、もしそうなってたら、今の俺はいねぇ」
そこで話を切った徳市は、ふいと奥へ姿を消し、餅をいくつか手にして戻ってきた。五徳の上に網を置き、無言でそれを並べた。
「だってそうだろ。お君を育てるこたぁなかったんだ、親がいんだからよ。だとすると、この店だってねぇだろうな。だからよ、悪いことばっか考えるのは止しな。この先、真っ当に生きりゃいい。……そうは思わねぇかぃ?」
徳市が口を開いたのは、餅がぷぅっと膨らんでからだった。
そういい残してまた座を外し、次に現れたときには、汁椀を持っていた。
「イハっつぁん、固めだ。受けてくれるかぃ?」
イハチは、はっとしたように徳市を見つめた。
縋るような目が徳市を捉えて離さない。
長い躊躇いがあった。きっとイハチの中で様々な思いが錯綜している。そう思えばこそ、徳市は何も言わずに椀を差し出したままでいるのだろう。
イハチはおずおずと椀を受け取ると空いた手も添え、ズズッと啜った。
「富田町、お前ぇはどうする?」
「馬鹿野郎、お前ぇだけいい格好すんじゃねぇ」
捨松も一口啜り、イハチの肩をがっしり掴んだ。
「そこでだ、イハっつぁん。お前ぇの請け人のこったがよ、俺がなるぜ」
「待てよ、おい。俺が相談受けたんだぞ、なんでお前ぇが勝手なことすんだ。こいつの請け人には俺がなる。それが道理ってもんだ。厭とは言わせねぇからな」
世間に戻るには厄介な決まり事があり、わけても頭を悩ませるのが請け人だ。住まいを探すにも、働くにも、身元を保証する者が必要なのだ。万一仕事先でしくじった時はもちろん、奉行所の世話になった時も、請け人が責を負わされる。その苦労を買って出よう。徳市が男気をだすのを捨松が遮ったのだ。
「どうだぃ辰つぁん。お前ぇも」
「俺? 俺みてぇな半端者……」
「おぅよ、半端者よ。だから、俺ぁお前ぇの請け人にゃあならねぇ」
喜んだのも束の間だった。徳市の冷ややかな一言で辰一の顔から表情がなくなった。
「そんな顔すんじゃねぇよ。俺はならねぇさ。だってよ、お前ぇの請け人なら、そこにいんじゃねぇか」
えっと怪訝な表情で捨松を窺った。
「違うよう。富田町はイハっつぁんの請け人になるんだ。いっぺんに二人は無茶ってもんだ」
だからといって、他には誰もいないではないか。辰一にかぎらず、庄吉も狐に抓まれたような心地で徳市の言うことを聞いていた。
「おいおい、なんて機転のきかねぇ奴らだ、まったく。お前ぇが頼まれたんだろう、えぇ、庄さんよう」
俺だって? 庄吉は、ぽかんとして自分のことを指差した。
「そうでぇ。受ける受けねぇは自分で決めな。遠慮するこたぁねぇ。信用できねぇと思うなら断ってかまわねぇ。そぃだけ腹括らにゃできねぇこったからな。お前ぇも、断られたからって怨む筋合いのもんじゃねぇぞ。信用してもらえねぇのは、手前ぇのせいだからな」
にこやかに笑みをみせている。しかしその実、徳市の目は強い意思を漲らせていた。二人の覚悟を問い詰めているのだ。
庄吉の心は騒いだ。辰一を友として迎えるだけではなく、兄弟同然の責任を背負わねばならないかもしれないからだ。人としては受け入れてもかまわない。しかし、もしもの不安が拭えない。なにも辰一がどうということではなく、喧嘩を売られたらどうするだろう、黙って頭を下げられるだろうか。面倒事に巻き込まれるのは厭だ。だいたい、辰一はどこまで本気なのだろう。
考えても答の出ないことばかりである。
辰一は、落胆している。つい今しがたイハチのことで棚ぼたのようなことを見せ付けられた。あの状況なら自分のことも受け入れてくれると思ったのに、当てが外れたのがありありと見てとれる。思わせぶりを言ったのは誰だ。その本人が、手の平を反したように奈落に突き落としてくれた。やるならお前だと指名された庄吉は、グズグズと迷っているばかりではないか。そう非難しているような様子である。だからといって自分から縋るでもない。
徳市の顔色を窺い、辰一の様子を窺い、結局返事ができぬまま庄吉は皆の顔色ばかりを気にしていた。
表情を硬くしたおツネがするすると庄吉に寄り添った。
バチン
庄吉の頬が乾いた音をたてた。
「お前、またかい。ここぞって時にどうして尻込みするのさ。受けるか断るか、はっきりおしよ。受けてもいい、断ってもいい。お前の決めたとおり、ついてゆくよ」
それだけ言うと、徳市を押しのけて辰一の正面に回った。
バチン
辰一の頬にもおツネの平手が炸裂した。
「なんだい、お前。自分が頼む立場じゃないのかい。ちょっと言われたくらいで仏頂面して、頼むの一言も言えないのかい。黙ってたって、誰も手助けなんかしてくれないんだよ。頭下げるのが厭なら出て行きな。それっくらいの礼儀も知らない人とは、こっちが断るよ」
「……」
「言うことはないのかい」
「す……すまねぇ」
蚊の鳴くような声だ。
「なんだって?」
「俺が悪かったぃ」
「生憎だけどね、耳が遠いんだよ。大きな声で言っとくれ」
「お、俺が悪かった。助けてくれ」
「助けろはいいけど、真人間になるんだろうね」
うんうんと辰一が何度も頭を下げた。
その光景を呆気に取られて見ていた徳市は、高山が女傑だと漏らしたのを思い出した。
「おい兄弟ぇ、こいつはまた、アハ、アハハハハ。て、大した女だぜ」
捨松につられて、徳市も笑ってしまった。
「そりゃあな、富田町にしても俺にしても頼りにゃならねぇ。けどよ、イハっつぁんは頼りになるぜぇ。庄さんと辰一、良い取り合わせだぜ。まぁ、無理にとは言わねぇがな」
呆然と見つめる辰一の目から涙が溢れてきた。それを袖で拭いながら、徳市が差し出す椀に震える手を伸ばした。
「おぉっと、その前に言っておくことがあった。こいつを飲んだら最後、絶対ぇ俺たちとの縁切りは赦さねぇ。そいで、死ぬ気で働くんだ。困った者がいたら皆で助けてやるんだ。どうだ、守れるか」
指が触れそうになったところで、徳市はくいっと手首を捻って逸らせてしまった。意地悪く薄笑いをした後で、眉を怒らせた恐ろしい形相になっている。徳市の覚悟を知った辰一は、鼻を啜りながら椀を掴んだ。
ズズッ、ズズッ……
「こ、こら! まだ俺が飲んでねぇんだぞ。全部飲むなよ」
徳市は、満足そうに笑うと椀を毟り取り、ズズッ啜った。と、庄吉はそれを横取りした。
「親父さん、仲間外れはいけないよ。人の道に外れるよ」
まん丸メガネの庄吉も、どこかふっきれたように笑いを誘った。
二人が肩を並べて帰って行く。深川と石川島は指呼の先。猪牙船を使えばわけなく行けるところだが、勿論そんなことは許されていない。永代橋から豊海橋、東湊町で稲荷橋を渡り舩松町に渡し場がある。そこまでぐるっと回り道をしなければならない。
二人の後ろ姿は、浮き立つ通行人となんら変らぬほど力が抜けていた。
「そのままでいいんだぜ。おぅおぅ、力ぁ抜くんだ」
見送る庄吉は、徳市のかすかな呟きを聞いた。