放免
おかしな出会いをした庄吉と辰一は、どういうわけかウマが合った。気の弱い庄吉と、威勢の良さだけで生きてきた辰一を並べると、それこそ水と油ほどの違いがある。が、それは表面のこと。一つことを丹念に追い込むということでは双方ともに同類だったのだ。むしろ、自ら負けを認めた辰一のほうが、物事にのめりこむ性格のようだった。
自分が納得できるまで仕上げたものを得意そうに見せる辰一。が庄吉は、良いとも悪いとも言わずにそこへノミを当てる。その様子を忌々しげに睨み付けて、辰一は次のものにとりかかるということの繰り返しだった。
「辰さん、ちょっと線を刻んでみませんか?」
辰一の作ったものを手直しした庄吉が、意外な提案をした。
「線ならいつも刻んでいるだろう?」
面白くなさそうに辰一が応えた。
「こうしてね、墨だけを刻んでみませんか。墨以外に傷をつけないように」
庄吉は、墨壷から引き出した糸で放射状に線を引いた。辰一の腕では無理なほど間隔を狭くしてある。その線の真上だけを庄吉が刻んでみせた。
「これだけ細い線は、辰さんには早いかもしれませんが、力加減の稽古になります。それとも、もっと腕を上げてからにしましょうか?」
庄吉からの挑戦状である。辰一の性格なら、必ず喰らい付いてくるに決まっていると庄吉は睨んだのだ。
「俺には早えぇ? 舐めんじゃねぇ、吠え面かかせてやるからな」
案の定、辰一は一発で喰いついてきた。辰一のことだ、きっと剥きになってそればかりをするだろう。そして、浮かぬ顔で泣きを入れてくる。その時にどうやって教えてやればいいか、庄吉には何も思案がないのだが、つい気持ちを掻き立てることを言ってしまった。
間を三日おいて船着場に上がった庄吉は、憮然とした辰一と、笑いを抑えきれない高山の出迎えを受けた。
「庄吉、其の方、辰一に喧嘩を売ったそうだの。こいつめ、仕事を放り出してウンウン唸っておるぞ。他の人足どもにも広まってしまったようで、仕事がはかどらぬ。が、これほどに懸命になっておるのを初めて見たわ。遠慮はいらんぞ、もっと困らせてやってくれ」
顔を真っ赤にして最近の様子を語る高山に、辰一が食って掛かった。
「お言葉ですがねぇ、高山様もやってごらんなさいよ。端で見てりゃ簡単そうでしょうがね、これが簡単じゃねぇんだから」
「い、いや、すまん。だが、嬉しいではないか。何をさせても面白くなさそうにしていた辰一が、今は一つ事に夢中になっておる、まるで子供のようだ」
「悪うござんしたね。けど、悔しいじゃありませんか」
「何事も一足飛びには身につかぬ。それがわかっただけ儲けものというものよ。機嫌を直せ」
高山は、辰一の肩をポンと叩いた。
「辰さん、力加減の大切さがわかりましたか? ちょっと待ってくださいよ、そこんところを教えてあげますから」
庄吉は、柵から竹を少し切り取って先をノミで平らにした。巾もノミと同じくらいにして仮の刃先を作った。
「ちょっと膝を借りますよ」
辰一をその場に座らせると、膝小僧を台木にみたてて竹のノミを押し付けた。
「これくらいの力加減です。辰さんはどれくらいの力をこめていますか?」
竹のノミを受け取った辰一は、自分の膝小僧にそれを押し当てた。
「辰さん、膝が切れてしまいますよ。だめだって、そんなにしたら怪我するって」
慌てて止めたのだが、すでに細い線が刻まれ、うっすらと血が滲んできている。
「馬鹿言うない。あんな弱ぇ力でどうして削れんだい、出鱈目言いやがって。これっくらいでなきゃ、とてもじゃねぇが削れるもんけぇ」
膝にできた線から血の玉が膨れ上がり、スジを引いて垂れた。
「でも、それくらいにしなきゃ、相手が割れてしまいますよ。木だってね、ノミを刺されりゃ痛いに決まってます。切られまいとして抵抗しますよ。辰さんだって、高山様が殴ろうとしたら身を硬くするでしょ? そんな時に無理矢理殴ったら倒れるかもしれない。木だとね、ヒビが入るのですよ。木に不安を抱かせないように、木が気付かないように削るのがコツですよ。そのために、どうすりゃいいですか?」
「どうってお前ぇ、気付かれずに削るんなら、恐ろしく切れ味を良く……」
反射的に言った辰一は、ハッとしたように庄吉を見た。
「庄さん、お前ぇ、教え方が上手ぇな!」
一目散に小屋へ駆けて行く辰一の早いこと、つむじの辰一と名乗るだけのことはある。
「庄吉、其の方、教えることが怖いと申しておったのを覚えておるか? なかなかどうして、上手いものではないか。見惚れたぞ」
高山は意外な成り行きを目の当たりにして、盛んに感心してみせた。
庄吉が小屋へ行くと、半数ほどの人足が懸命に刃を研いでいた。庄吉の姿を見つけると、砥ぎの具合を訊ねにくる。庄吉は、爪に刃を当てて薄く削れるか試してみせた。刃先が鋭くなるほど、爪を薄く削れるものだ。一人にそれを教えると、次々にそれが広まった。辰一に教えた方法も既に広まっているとみえ、銘々が手近な材料で木製のノミを作っていた。
「親方! 俺っちにも力加減ってやつを教えてくれよ。つむじだけに教えるってなぁいけねぇよ、そりゃ贔屓ってもんだ」
口々に言い立てたのが、辰一に教えたことだった。いくら聞いてもわからないことを、辰一は教えてもらったと得意がったそうだ。そういえば、自分はあんなふうにして教えられたことはなかった。あんなふうに教えてくれたら、無駄に悪戦苦闘することはなかったかもしれないとも思う。奇しくも、今日は皆が自分に注目しているようだし、お世辞にせよ親方と呼んだではないか。職人の修行を始めるには遅すぎる者ばかりなのだから、一日でも早く腕を上げられるようにしてやろう。庄吉の心にさざ波が立った。
「ああ、皆さんにも教えてあげますよ。だけど、親方ってのはやめてくださいよ。私はただの職人なんですから」
庄吉は、一人づつ回って膝小僧に木ノミを押し付けてやった。
「私の力加減と同じになるように膝小僧を突いてください。コツがわかったら台木を刻んでみてください」
自分の仕事場に戻った庄吉が今日の稼ぎにするものを作ろうとした矢先に、あちこちから声が上がった。
「親方ぁ、こんなんじゃちっとも切れねぇぜ」
「線もなにも、ノミが刺さらねぇや。おっと、……あぁあ、やっちまったい」
しかたなく立ち上がり、泣き言を言う人足に手ほどきをする。すると、庄吉の手先を食い入るように見つめるのである。
「ほら、刃先が糸みたいに見えるでしょ? これでは切れませんよ」
刃先を砥ぎ直して木に当てると、力など入れずにすっと食いつく。それを見せておいてノミを持たせる。
「筆で字を書くように、力を抜いて……。少しでも切れなくなったら、すぐに砥ぐのです」
面白いもので、コツを掴むと無駄口をきく者がいなくなった。
「皆さん、ここいらで一服しましょう。私はね、薄暗いところでずっと仕事したから、とうとう目が見えなくなりました。たまには外へ出て目を休めなきゃ」
手の込んだものでなければ、寄場で人足の面倒を見ながらでも一つくらいは売り物を仕上げることはできる。今日のように人足が夢中になってくれれば、二つ作ることも難しくはない。その一つ目が仕上がったのを潮に、休憩を勧めたのだ。
案の定、外へ出ると皆が目を瞬かせている。ノミの刃先を凝視し続けていると、知らぬ間に酷く疲れるのだろう。
ウゥーンと腰をのばした人足たちは、眩しそうに目を瞬かせたり、ゴシゴシと擦ったりして思いおもいに座り込んでいた。
そうして皆が休んでいる間も、辰一は膝小僧を突いていた。
「辰さん、やけに熱心ですね」
庄吉は、この頃になってようやく気安い言葉をかけられるようになっていた。冗談の一つもかませば、軽くからかうことさえできる。
「なあ庄さん。お前ぇ、教えるのが上手ぇぜ。たしかに俺は棒っきれで字を書ぇてたんだなぁ。だけど、あんなこと誰も教えちゃくれなかったぜ」
辰一は庄さんと呼び、庄吉は辰さんと呼び合う仲になっている。言葉遣いは以前とかわらなくても、二人は互いに身軽になりつつあるのだ。
「口で言ってわかるなら、職人なんて簡単なものですよ。それはそうと、これができるようになったら、次は難しくしますよ」
「おう、ちょちょいとやってやらぁ」
辰一流の冗談なのか、あいかわらず自身満々だ。
「ね。そういう生意気を言うから辰さんの腕が上がらない」
「なんだとぅ、もういっぺん言ってみろ」
今では、辰一が少々言葉を尖らせたからといって、庄吉が飛び上がることはなくなった。それどころか、痛烈な皮肉を返すこともあった。
「どうやら、辰さんをその気にさせるには喧嘩腰にさせるのがいいようですね」
根は単純な男なのだ。気性の荒さも言葉の荒さも、自分を奮い立たせるために必要なのだと庄吉は気付いた。わかってしまえば、気の毒にさえ思えてくる。きっと辰一は誰にも頼ることができずに生きてきたのだ。自分はどうだろう。源さんや親方、それにおツネやお君さんがいてくれた。高山様や捨松親分もいてくれる。辰一と自分との違いは何だったのだろう。もし自分も同じ境遇だったとしたら、自分も寄場送りになったかもしれないのだろうか。辰一と自分の違いは何だ。庄吉は答の見出せないことを考えていた。
あっという間に季節が巡った。虫の音が途絶えると木の葉が鮮やかに色づき、やがてはらはらと舞い散った。冬篭りの支度を始めたら、いつの間にか吐く息が白くなっている。そして町には、掛取りが大慌てで走り回っていた。もう大晦日を目前にしていたのだ。
年内最後のお務めを終えた庄吉は、番小屋で挨拶をしていた。秋口から通っている番小屋だが、気心の知れない役人も大勢いる。しかし、御用納めの今日ばかりは寛いだ雰囲気に包まれていた。
「今日で年内のお役は終わりだ。よくやってくれたな、おかげで儂の株も上がったぞ。年明けは、四日から始めるゆえ、よろしくたのむぞ。ところで、内儀の様子はどうだ?」
高山は、型通りに庄吉を労い、おツネの悪阻も気にかけてくれた。そして、何やら言いかけて、途中で打ち消した。
「徳市にゆっくり話したいことが……、いや、儂がじかに言おう。今のこと、忘れてくれ。それと、すまぬが使いをたのまれてくれ。寄場は貧しいゆえ斯様なものしか出せぬのだが、其の方と徳市、それに源太と捨松の分だ。人足に下すものと同じですまぬが、使うてくれいとな」
料紙の上に真新しい手拭いが載っていた。
「これはありがとうございます。有難く使わせていただきます。ところで高山様、お訊ねしても良うございますか」
「なにかな」
「人足の皆さんですが、正月はどのように」
「そうさな、ここに居さえすれば喰うに困ることはない。また、送られてきたには相応の理由がある。せめて骨休めとせねばな」
「そうでございますよね。しかし、考えたのでございますよ。私だって、もしかしたらここへ送られていたかもしれないって。高山様、私と辰一さんの違いって、何なのでしょう」
「そうよなあ。誰であれ、罪を犯す種を宿しておる。其の方もそうなら、この儂とて同じことよ。が、そうならぬのはなぜか。難しいことだのう」
じっと庄吉を見つめていた高山が、ふっと視線を火鉢に落とした。火箸を手にして灰を丹念に均しながら少し考えているようだ。
「このところ辰一はどんどん変わっておる。素直になった。そうさせたのは庄吉、其の方かもしれぬぞ」
赤く熾った炭に目を向けたままだった。庄吉の目を見据えたのは、言い終えてからである。そしてこんどは、呟くように続けた。
「あ奴は、心を打ち明ける友がおらなんだのだ。実を言うとな、そろそろ放免せねばならぬのだ。それで、落ち着き先に心当たりがあるか訊ねたのだが、身寄りも知り合いもなさそうでな。ならばと、長屋を探す手伝いをもちかけた。ところが、ここに居させてくれと言いおった。放免された後のことが気がかりなのであろう」
高山の話し方は、とうに役人の立場ではなくなっている。単に侍言葉を使っているだけで、庄吉との身分違いなどは取り払っているようだった。自分を一人の男として語りかけている。庄吉にはそう思えた。
「何が心配なのでしょうね」
「そうよなぁ……。さしずめ、苦楽を語り合う友がおらぬことではないかな。と申して、自力で生きるほどの覚悟に欠けておることは確かだ。が、それは辰一自身がわかっておろう。かといって、おいそれと友などは得られぬものだ。それで苦しんでおるのであろうが、不憫なことだ」
「そうですか」
「以前の辰一なら、残りたいなどと願い出ることなどなかったであろう。が、其の方と出会うてから変りおった。其の方が話し相手になってくれればあ奴も助かるであろうが、無理強いもできぬしのう」
そこまで言うのがやっとのようだ。
「ですが高山様、辰一さんはご法度に触れることをしたからここへ送られたのでございましょう? はたして信用できるでしょうか」
庄吉は、思わず不安を口にした。人の本性がそうも容易に改まるものだろうか疑問なのである。
「そうは申すがな、放免された、長屋住まいを始めたとせい。周りがそのような目でみれば、いたたまれまい。仕事ができねば銭に困ろう。銭がなく、働けぬとなっても喰わねばならん。となれば、またぞろ悪事を働くしか手立てがないのではないか?」
「……ですが」
「だからこそ、辰一を理解してやる者がおらねばならんのだ。でなければ、徳市の今もないのだぞ。其の方の今もない。……違うかな」
「……」
「いや、これはつまらぬことを申した。好い正月を迎えてくれよ」
それで話を打ち切って、高山は仕事に戻ったのだった。
『大瓢箪』で威勢の良い掛け声が響いていた。正月を迎える餅を搗いているのだ。さすがに自宅で餅つきのできる家など僅かしかないので、自然と人だかりがする。どうやら恒例行事になっているようで、搗き上がったのを小餅にして持ち帰る人が多い。常連客に配る分を取り分けると、徳市は平べったい延し餅にした。
「源太、お前ぇ、すまねぇが使ぇを頼まれてくれ。こいつは神棚に、そいでこいつは雑煮に使ってくれって言うんだぞ。これを喰えば陰気臭い顔がちったぁ笑うかもしれねぇからよ」
小餅と延し餅を竹の皮に包んで捨松のところへ届けてやる。そのついでに酒粕を買ってくるよう言いつけた。
「庄さん、すまねぇが、いつものように店の中へ」
もう庄吉にはその意味がわかっている。毎日ムスビを貰いに来る者にも正月気分を味合わせてやろうとしているのだ。
ペタンペタンと杵を振るう徳市の周りに、ボロとしか言い様のない着物を着た子供が何人もいた。それをそっと店に入れてやると、搗き上がったばかりの餅をおツネが振舞ってやった。指の間からニュルリと顔を出したのを餅とり粉の上にポトポト落とす。それをおハツがクルクル丸めて皿に盛った。味付けはきな粉か醤油しかないが、温かくて軟らかい搗き立ての餅である。
「さあ、お食べ。そのかわり、これは正月まで取っておくんだよ」
腹を空かせた子供たちにとって、またとないご馳走だった。
子供に混じって、身体の弱そうな者もいた。彼らもおずおずと口に配ぶ。いかにもすまなそうにしている姿を見て、庄吉の耳に高山の言葉が甦ってきた。
『銭がなく、働けぬでも喰わねばならん』
たしかにそうだ。そうしなければ飢えて死んでしまう。死ぬくらいなら悪事をと考えるのは無理からぬことだろう。だが……
さすがに暮れも押し詰まると、外で夕食を済ます客が減るはずなのだが、『大瓢箪』はいつもと同じように客が入れ込んでいた。が、ほとんどが夕食を食べるだけで帰ってゆく。この寒空に外で酒を飲まなくても、早く寝てしまうほうが暖かいからだ。暮れ五つの鐘が鳴る頃には、ほとんどの客は帰ってしまった。
最後の客が帰ると、ようやく夕餉にありつけるのだ。
食事を終えた庄吉は、源太から根付の代金を受け取っていた。
「庄吉ぃ、頑張ったなぁ。いくらか売れ残っているけど、みな良い値で売れたぜ。一つ一分二朱で売れたからさ、俺の手間賃として二朱貰うよ。売れたのが三二個だから、お前の取り分は……八両だ」
源太が飯台の上に金銀取り混ぜた一分貨幣を一枚づつ並べてみせた。パチパチと算盤を弾いて自分の儲けと庄吉の取り分を勘定して、見ている前で金を分ける。八両といえば大金だ。庄吉は、額の多さにびっくりしていた。それもこれも眼鏡のおかげだ。元をたどれば、高山であり、徳市であり、女房であり、なんといっても源太のおかげだ。
「寄場でこさえたのは勘定に入れてないけど、どうする?」
寄場で作ったものも源太は売っていた。値をつけられないようなものが大半だが、一通り庄吉の目にふれたものばかりだから、品物としてはそう悪くはない。しかし、せいぜい値をつけても二朱。ほとんどが一朱で売るのがやっとだった。買ってくれるのは、ほとんどが大工やら左官やら植木職だ。五百文も日当をとれる大工の、半日分の稼ぎが一朱である。決して安い買い物ではないのだ。しかし、そうして売った額を合計すると二十両を超えている。源太は、自分の手間賃として二割を要求するつもりだった。が、庄吉には自分と違う事情があるのだからと、相談したようだ。
「いや、それは貰えないよ。高価なメガネをいただいたのだからさ」
庄吉は、いともあっさり言い切った。
「そうだな。欲かくと後で泣くことになるからな」
「じゃあ、ありがたく」
庄吉は、源太に礼を言って金を受け取った。それをおツネに見せて目配せをした。
「親父さん、言いにくいんだけど、これまでの食費として受け取ってください」
それは庄吉とおツネの間で話し合われたことで、あっさりと半分を徳市に押しやるのをおツネも黙って見ていた。
嬉しそうに源太と庄吉のやりとりを見ていた徳市が顔を曇らせた。
「馬鹿なことするもんじゃねぇや、お前ぇたちからお足をいただこうなんて思っちゃいねぇよ。じきに子供が生まれんだぞ。何かと要りようが増えんだからお前ぇ、大ぇ事にしまっときな」
ぶすっとして湯呑みを口に配ぶ。ククーっと茶を飲み干すとトンと音をたてて湯飲みをおき、徳市は天井を向いた。
「親父さん。おかげで私も稼ぐことができるようになったのです。これから精一杯稼ぎますから、どうか収めてください」
額が少ないので機嫌を損ねているのだろうか、庄吉はおツネの膝を軽く蹴って口ぞえをするよう合図を送った。
「いいから。気持ちだけで十分だ」
おツネが口を開こうとすると、徳市はプイと横を向いてしまった。
「親父さん、気を損ねてしまったのなら謝りますが、さんざん世話になりっぱなしじゃ立つ瀬がありません。どうか機嫌を直して受け取ってください」
「何回も言わせんじゃねぇ。いらねぇったら、いらねぇんだい。なんだい、生意気なことぬかしやがって」
とうとう徳市が癇癪をおこした。口を戦慄かせて怒鳴ったとみるや、くるっと背をみせてしまった。
「じゃまするぜ」
徳市が立ち上がって奥へ引き込もうとしたとき、冷たい風とともに陰気臭い顔がぬっと突き出された。
「外までまる聞こえだぜ。歳の暮れってのによぅ、もちぃと穏やかにできねぇのか」
どてらを着て頬かむりをした捨松が、ズカズカ徳市の隣に腰をおろして炭火に手をかざす。
「なんでぇ、富田町の。呼んだ覚えはねぇぞ」
「おう、呼ばれた覚えはねぇや。餅の礼に来たんじゃねぇか。お返しによ、下りものの酒を持ってきてやったぜ」
どてらをめくって徳利をぬっと突き出した。
「さっそく神棚にお供えしたんだが、やっぱり搗きたては旨ぇなぁ、おい。嫁ぁも喜んでよ、うまい旨いって、二人してあらかた食っちまった」
「喰ったぁ? 莫迦野郎。ありゃあなぁ、正月の雑煮用だぞ、それを喰っちまったってか。お前ぇってやつは……、ちぃとぐれぇ我慢しろよ。じゃあ、雑煮はどうすんだ」
照れくさそうにしている捨松の頬かむりをすっと引いた徳市は、舌打ちをひとつして額を平手でぺしっと叩いた。
「いや、雑煮のぶんは残してあるよ。けどよ、やっぱり火鉢で焼いて食いたいじゃねぇか、客だって来んだしよ」
叩かれた額に手をやって、捨松は苦笑いをうかべた。
「あぁ? だからどうだってんでぇ」
「だからよ、もうちぃと分けてくれよ。その代わり、特上の酒を買ってきたからよぅ。下りもんだぜ、灘の酒だぜ」
「ったくよぅ、しょうがねぇ奴だなぁ。じゃあ、しゃあねぇから、持って帰りな」
苦笑いをうかべる徳市は、庄吉の差し出した金のことなどすっかり忘れていた。
「すまねぇ、恩にきるぜ。ところで、何を大声だしてたんだぃ」
問われて徳市は、せっかく忘れたことを思い出し、むすっとする。しかし、その話はもう終わったことだと決めつけている。
「なにって、お前ぇ……。こいつらが道理の通らねぇことを言いやがるからな」
「おっ、そりゃあいけねえ。道理を踏み外すようなことがあっちゃいけねぇ。後々のためにも意見してやらんとな」
「だろ? だからお前ぇ、ちょっと声がでかくなったんでぇ」
「そうかぃ。で、道理を外したってぇのは、どういうこった?」
「だからよ、いらねぇって言ってるのに、どうしてもって食い扶持を引っ込めねぇんだ。俺がいらねえって言ってるんだぞ、素直に引っ込めればいいじゃねぇか。違うかぃ?」
それを聞いて捨松は呆れかえってしまった。若い者は当然のことをしようとしているのに、それを無理無体に拒んでいるのは徳市ではないか。徳市こそ道理を外しているのだ。
「お前ぇたち、今の話は本当かい? 何か付け加えることがあるかい?」
なにを頓馬なことで揉めているのかと、捨松はバカバカしくなった。が、若い者の言い分を聞かねば全体像が見えてこない。
「私は祝言からこっち、親父さんの世話になりっぱなしでした。おかげで仕事に戻ることができたのも、親父さんが高山様との仲立ちをしてくれたからです。それで、根付を売ったお金が入ったので、せめて半分でもと……。恩返しのつもりだったのです」
「だからよ、最初っからいらねぇって言ってるだろう、強情な奴だな、ったく。張り倒してやらねぇとわからねぇのか?」
苛ついたのか、徳市が声を荒げる。
「まあまあ、待ちねぇ。祝言からこっちって言ってるが、本当かぃ?」
「おう、そうでぇ」
「それで、ようやく稼ぎがあったんだな?」
「そうでぇ」
「だったらよ、収めてやんな、片意地張らずに」
若者の言い分が真っ当なのだ。誰の目にも徳市の考えが片意地にうつるはずだ。
「なにも意地張ってるわけじゃねぇや。俺ぁなぁ、祝言のときに約束したんでぇ。うちで喰えって。今更約束を反故にできるけぇ」
プイッと横を向いて、徳市は腕組みをした。
「ま、そうかっかすんなよ。けどよ、手前ぇの食い扶持は手前ぇで稼ぐ、それが当たり前ぇだ。それを出すってんだから、収めてやらにゃあ」
炭火に手をかざしながら、捨松が笑った。
「だったら俺の約束はどうなるんだい。結局反故にさせるってのか? 冗談じゃねぇ」
「なあ、大瓢箪の。どうしてそんなに拘るんだい。本当は嬉しいんだろ?」
「どうしてって……。で、でぇいち、きれいじゃねぇか」
徳市の指が飯台をトントンと突いた。そして、徳市は腕組みをしてふんぞり返ってしまった。
「大瓢箪の、いや、徳さん。お前ぇはきれいだぜ。こんなきれいな心根の男がどこにいるって言うんでぇ。俺ぁなぁ徳さんよぅ、お前ぇと兄弟分になれたこと、誇らしいぜ」
捨松は、徳市をもちあげておいた。そして続ける。
「けどよ、この話は誰がどう聞いても若けぇ者の言うことが正しいや。業腹だろうがな、若けぇ者の顔が立つようにしてやったらどうだい。お前ぇの気持ちは十分わかったからよ」
さすがに相手の気持ちを害さないよう、それでいてこちらの言い分を納得させる話術に長けている。
「お前ぇら、いい親父に出会えて幸せだなぁ」
若い者に一声かけて、捨松は徳市の肩をポンポンと叩いた。
「すまねぇが、こいつで一本つけてくれねぇか。熱々にしてくれよ」
徳利をお君に預けた捨松が、不意に真顔になった。
「ところでよ、大瓢箪の。三日ばかり前に高山様がお寄りなすったんだが、ここへも回ったかぃ?」
「いいや、だけど、お前ぇんとこに寄って、うちに寄らねぇってのは気に入らねぇな」
徳市の知らないことのようであった。
「そうか。お急ぎだったのかもしれねぇな。そん時の用事ってのが、仕事の世話だったのよ」
「仕事? いってぇどういうこった?」
「なんでもな、近々人足を放免するそうでな、そいつの仕事を探してくれということだったんだが、どうしたものかと思ってよ」
「どうとは?」
「そいつは左官だそうだ。俺ぁ稼業のつながりで大工の棟梁にも顔がある。その伝手で働くところを世話してくれないか、とな」
「そいで?」
「さあ、そこでだ。俺が給金払うのならかまわねぇが、……もし、ってことがあると厄介だからなぁ。どうしようか、迷ってるんだ」
「そりゃあ、世話してやってほしいけど、こればっかりは相手次第だしなぁ。いったい、どんな奴の世話するんだ?」
「ほれ、お前ぇが嵌められた時に高山様の手先をしていたイハチって奴だそうだ」
「そういえば、番屋へ引っ張られる前に連絡に来たなぁ……。お訊ね者みてぇな喰い方する癖が残っててな、口数は……、ほとんど喋らねぇ奴だったなぁ。けどよ、いい眼をしてたぜ」
皆に猪口が配られ、燗のついた酒が注がれる。しじみ汁を旨そうに飲む姿を思い出しながら、徳市は猪口を空けた。
「……じゃあ、大ぇ丈夫ってことか」
きゅっと飲み干して、唇についたしずくを手の平でなすった捨松が、チロリを上げた。
「おう、何かあったら俺も手ぇ貸すからよ」
小さく頷いてしっかり捨松を見据え、それだけ請合うときゅっと猪口を空けた。
「あのう……」
二人の話を聞いていた庄吉が、遠慮がちに口をはさんだ。
「私も高山様に頼まれたのです」
「ああ、イハチのことなら俺たちに任せておきな」
捨松がくるっと庄吉に顔を向けた。そして、話をややこしくするなよと言いたげに目配せをする。
「そうじゃなくて、辰一という人なんです」
庄吉は、高山が自分だけに相談したのだなとあらためて思った。
「何を?」
徳市も捨松も、初めて耳にする名前に顔を見合わせた。
庄吉は、辰一との出会いから現在の関係、それに、高山が呟いていたことなどを皆に話した。
「そうかい。そいつのことは会ってみないとなんとも言えねぇが、なあ庄さん。お前ぇが一肌脱いでやらにゃあな」
徳市の目が挑戦的に庄吉を見つめたのだった。