辰一
仮の家族である『大瓢箪』。血のつながっているのは、おハツとおツネの二人。世間からみれば寄り合い所帯にすぎない六人だが、仲の良い家族である。そこでおツネの懐妊がわかった。
どんなものでもいい。酒でも飯でも、煎餅でも。僅かのものを分け合うところに連帯が生まれ、情が湧くものだ。ところが、天から授かるものではあっても片方は子を宿し、もう片方はそうでないとすると不公平感が生ずる。
まったく同じ日、同じ時、そして同じ場所で祝言をあげたお君の胸の奥底に、ポッと小さな火が点ったとして、誰が咎められようか。おツネのように外泊こそしなかったとはいえ、ほぼ日を違えずに男を受け入れたのだから、回数の差などは取るに足らないことだろう。ましてや、夫婦になってからは毎晩源太と睦み合ってきたのだ。月のものの最中であろうが、一度たりとも欠かしたことはなかった。それなのにどうして自分には授からず、おツネが身篭ってしまったのだろうか。もしかすると、自分は子を授からない身体なのだろうかと不安になる。源太に問題があるのではと疑ってしまう。
懐妊を知ったときは心底嬉しく思ったが、皆にチヤホヤされているおツネに対し、穏やかならぬ気持が湧き起ってきた。まるで、チロリと覗く猫の舌のように。
他人の不幸は蜜の味と軽口で言うが、血が濃ければまた嫉妬心は強くなるものだ。幸せの絶頂にいる者が困れば面白い。意識せずともそうした快感を得るものだ。しかも、表向きはさも心配そうにするのだからしまつが悪い。他人の幸を羨望する。それが嫉妬に変り、それが嵩じると憎悪に変る。人の本性というものは、それほど強欲なものともいえる。
「ところでお父っつぁん、煮付けの謎解きは?」
すっかりおツネに主役の座を奪われたお君は、そう言って話題を振り向けた。二人にばかり注目があつまるのが癪、というより、お前はまだなのかと当てこすりをされているようで癪だったのだ。
「ああ、あいつかぁ。ありゃあお前、味醂だけじゃ甘くなかったんでな、飴を入れてみたんだ。どうだったぃ、程よい甘さになってただろうが。あれで、稼がしてもらわにゃいけねぇが、さて、何て書きゃいいか……」
飯台においた手の指がトントン叩いている。徳市が考え事をするときの癖だ。指がピクッと止まって何かを言いかけ、そのまま首を捻ってしまった。
「なにをさ」
「決まってんだろ、お品書きでぇ」
俯いている徳市が、ギョロッと目玉だけをお君に向けて呟いた。が、そのまま黒目が吊り上がってしまう。
「なんだ、そんなことで考え込んじまったの? 難しく考えないでさぁ、大瓢箪甘辛煮ってしたら?」
「けっ、安直なこと考えやがって。そんな名前じゃあダメだい。でぇいち、何を食わせるかわからねぇじゃねぇか」
「だからぁ、聞かれてから教えればいいじゃないか」
「ばぁか。何をとち狂ったこと……」
「親父さん、お君の言うのが好いよ。是非そうなさい」
「源太までお君と同じこと言うのか? いくら夫婦だからってよぅ……」
「そうじゃないですよ。今日のおつけはなんだい? そう言いませんか? 今日は豆腐だ。今日はナスだ、大根だ。吸い物だってそうじゃないですか。今日は何の吸い物だね? へぇ、ハマグリで。今日はマツタケで。ねっ?」
源太の言うことに一理ある。飯だおつけだと客は注文する。ナマスを食いたい、焼き魚がいいとも言う。たしかに中味にこだわってはいないようだ。が、一理はあるが、そればかりではないような気もする。黙って源太の考えを聞いていた徳市が、首を捻りながら口を開いた。
「するってぇと、こういうことかぃ? おぅ、今日の大瓢箪甘辛煮……。なんとも長ったらしい名前ぇだなぁ、まあいいか。今日の甘辛煮はなんだい? へい、新子ハゼでござい。今日は牡蠣でやす。昆布でやすよと、こういうことかぃ?」
「そうそう、それですよ」
「そういうもんかねぇ。ただな、長ったらしいのがどうもなぁ、ただの甘辛煮ではだめかぃ?」
「お父っつぁん、甘辛煮なんてどこの店にもあるでしょう。これは、この店だけの味だっていうんなら、やっぱり屋号をかぶせないと」
徳市に馬鹿にされてプッと脹れていたお君が、苛ついた様子でたたみかけた。
「そうか? んじゃあそういうことに……、いや、やっぱり長ぇんだよなぁ……」
納得しかけて、手を打つ寸前に徳市の迷いがぶり返した。
パンッ
大きな拍手が響いた。
「誰だ、手ぇ打ったのは。源太か。お前ぇが勝手に手ぇ打ってどうすんだよ、俺のことなんだぞ」
「いつまでもウジウジしてる親父さんが悪いんですよ。お君の言うことはもっともです。ここはお君に花もたせてやりましょうよ」
こんどは源太に押し切られてしまった。
おツネが身篭ったと言われても、庄吉には一切の実感が湧かない。別段、腹が膨れたわけでもないし、なんの変調もない。ただ、時折口を押さえてドブに走るくらいなものだ。だから庄吉は狐につままれたような気分でいた。とはいえ、目を休めるために路地へ出ると、「おツネちゃん、おめでただろう?」と、長屋の女房連中が声をかけてくる。言われ続けるうちに、あぁ、俺も親になるのかとぼんやり思うくらいだ。
寄場へ行く約束の日まで、庄吉は売り物としての根付をこさえていた。源太に預ければ捌いてくれる。そうすれば、僅かとはいえ源太の実入りにもつながるはずだ。丸二日かけてこさえた五個ばかりを箱に収め、庄吉は夕餉にむかった。明日は寄場である。あまり嬉しくはないが、徐々に場馴れしてきている自分が不思議だった。
庄吉は、寄場で刃砥ぎの腕比べをしていた。出来栄えを見せにきた人足に、もう少し彫り込みを多くするよう助言したことがきっかけだった。
自分なら十本を超す溝を掘り込むところに、たった四本の溝を入れただけで得意げにしていたので、つい口が滑ってしまったのだ。しばらく口論が続いたあげく、手本を見せろと迫られて、つい本気を出してしまった。クソっという気が湧き起こり、剥きになったら十三本の溝を彫ってしまったのだ。
赤恥をかかされた格好の人足は、こんどは道具のせいだと言い出した。自分たちに与えられた道具は安物で、庄吉の使っているものとは切れ味が違うと言い立てたのだ。そこで道具の切れ味をくらべてみると雲泥の差である。しかし庄吉は、親方から独立するについて、道具に金をかけることなどできなかったのだ。となると道具は同じ。切れ味の違いといえば、砥ぎ方ということになる。それで、人足に与えられた道具を使って砥ぎくらべをしているのだ。昼前に始まったいざこざは、八つ時までもつれこんだということになる。
「よっしゃ、こんならピカイチだぜ。紙どころか、髭だってあたってやらぁ」
その人足は、主に刃裏ばかりを砥いでいた。そのくせ切刃は申し訳程度に砥いだだけだ。たしかにそうすれば砥ぎやすい。広い面をぺったり砥石に当てられるからだ。それに較べれば、切刃の部分は面積が小さいので真っ直ぐに砥ぎにくく、いとも容易に刃先が丸まってしまう。人足が刃裏ばかりを砥いだのはそれを恐れてのことだろう。だが、刃裏を平らにしてしまうと、刃先を食い込ませることができなくなってしまう。つまり、滑るだけなのだ。庄吉は、刃裏はなるべく砥がないようにしている。切刃だけなら、相当使い込んでも全体は薄くならない。薄くすれば撓んでしまって力加減が難しいのと、無理がきかないからだ。
「見てろ」
台に置いた紙に、人足がノミを滑らせた。ふっと持ち上がった紙がゆっくり板になじむ。
フッと一息で紙は見事に吹き飛んだ。
「どうしてそんな莫迦な真似をするのです。刃先を傷めてしまうではないですか」
庄吉は、せっかく砥ぎ上げた刃先を痛めたくなかった。そこで、別の人足の手をかりて紙を支えると、チッと切り込みを入れて一息に引き切った。
「……次は、髭だ」
人足が不精髭の伸びた顎にノミをあてがった。
「お言葉ですが、ノミは木を削る道具です。紙や髭なら剃刀に任せましょう。そんな意味のないことより、木を削りましょうよ、なるべく細い線を刻んでください」
ギロッと庄吉を見やった人足が、稽古用の台木にノミを入れた。必要以上に握った手と、ノミを差し込む勢いを見た庄吉は、唖然とした。事あるごとに力加減を教えたはずなのに、まったく無視していたからだ。それでも人足は、得意そうにびっしりと線を刻んだ。
「では、私も」
庄吉は、居眠り狐のような細かい線を刻むことはしなかった。が、筆のような持ち方で支えたノミは、ほんの少し木肌に触れるだけで細い線を引いてゆく。人足の刻んだより三割は余計に線を刻んだ。
「線が細けりゃいいってもんじゃねぇだろ」
よほど負けん気が強いのか、人足が開き直った。
「どうですか、同じ道具のはずです。道具が同じでも、使い方ひとつでこれだけの差が出ます」
「これがどうだって言うんでぇ」
「はじめに教えましたよね、必要以上に力をこめてはいけないって。お前様の刻んだのをよぅく御覧なさい。力を入れすぎたから縁が盛り上がってしまっています。それに、溝の底、見えますか? ノミが突き抜けています」
庄吉は、他の者にもそれを見せてみた。しかし、三角の溝としか皆には映らない。
「こうすると良くわかります……」
庄吉は、親指の腹を当てて、そこを強く圧した。すると、ピチピチという音とともに、残っている山が剥がれてしまった。
「手前ぇ、なにしやがんでぇ」
人足が血相変えて怒鳴り声をあげた。
「私の刻んだのでやってごらんなさい。絶対にそうはならないから」
お返しとばかりに人足が力をこめたが、びくともしない。不必要に切れ込んでいないし、山が全体に低いのだ。指先で擦ったくらいで割れたりするわけがない。
「では、こんどは平らにならしてみましょうか。できるだけ薄いクズをだしてみてください」
またしても赤恥をかかされた人足が、割れてささくれだった表面にノミをはしらせた。始めこそ分厚い木屑が出ていたがしだいに薄くなり、舌なめずりした人足は、しだいに紙のように薄いクズを出した。
ところが、庄吉はもっと薄く削ってみせた。紙クズなどではなく、紙の毛羽立ちのようなクズを出したのだ。それはもう、削るというより擦っているようなものだった。
「これくらいに削れるノミです。決して刃が鈍っているのではありません。なんなら、自分でためしますか?」
庄吉がそっと置いたノミを手にした人足は、得心がいかない様子で台木を削りだした。
「あれっ?」
ぽつりと呟いただけで、人足は首を傾げながらノミを動かしている。どうせ切れ味の違いに戸惑っているのだろう。台の上に載せた紙を切るような真似さえしなければ良かったのだろうと、庄吉は人足の使っていたノミを陽にかざしてみた。案の定、刃先の一部に細い線か見える。
「台の上で紙を切らなければ、案外同じくらいの切れ味だったかもしれませんね。だけど、あんなことしたおかげで刃がつぶれていますよ」
その場にいる者すべてに刃先を見せて、砥ぐ頃合いを教えてやった。一通り皆に見せ終えると、軽く砥石で刃先を整えて人足に返した。
「それでやってごらんなさい」
「あれっ?」
たった今砥いだばかりのものに持ち替えた人足は、またしても妙な声を出した。
もう八つをすぎ、他の稽古をしている人足たちは中食のためにいなくなっている。今日の役目を終えた庄吉が道具を片付けていると、件の人足が近寄ってきた。
「悔しいけどよぅ、俺の負けだい。いい気になんじゃねぇぞ。そう啖呵きってもいいんだけどよぅ、こうまで差ぁつけられたらどうにもならねぇや」
剥き身の匕首を思わせる目つきをした男だが、切れ長に吊り上がった目尻を器用に下げて縮こまると愛嬌がある。
「得心いきましたか? まさか負けるわけにいかないから、アタシも肩に力が入ってしまいましたよ。もう勘弁してくださいよ。それで……どうします、これから。アタシの言うことを真面目に聞いて……」
慣れてきたとはいえ、オドオドするのは直っていない。今はただ、教える立場だということで毅然としていられるのだ。いや、庄吉自身は高山に教えられたとおり尊大にかまえているつもりでいるのだが、贔屓目に見て対等でしかない。
「わあったよ。きくよ、聞きゃあいいんだろうが」
面倒くさそうに男が遮った。負けを認めはしたが、隙あらばというねちっこさがあった。言った本人はニヤッと笑みを浮かべているが、目は決して笑っていない。
「それならこれ以上いる用はありませんので」
話を切り上げたくて、道具を納めた袋を小脇に作業小屋を出た。
「まぁ待てよ。どうかな、ちっとくれぇ話す間ぁはねぇかな」
追って出た男に、馴れなれしく呼び止められた。
「高山様にお話がありますし、お前様だって中食を喰いそこねてしまいますよ」
できれば妙な関り合いをもちたくないのに、ここでも庄吉ははっきりと気持を口にできない。
「あぁ、そうか。……だったらよ、この次……つまり四日の後に来るとき、ちょいとだけ早めには来れねぇか? 俺ぁ、辰一ってんだ。つむじの辰って言やぁすぐにわからぁ。なんだかなぁ、お前ぇさんと話がしたくなってよぅ。そのかわり、真面目に稽古すっからよぅ。なんだったらお前ぇ、ゆ、指きりしたっていいぜ。なっ、たのまぁ」
思ってもみなかった申し出だ。恥をかかされたことを根に持って難癖をつけるのではないか、そうビクビクしていた庄吉には意外だった。
「指きりですか?」
「お、おう、指きりでぇ。俺みてぇな者が言っちゃあ可笑しいか?」
なるほど、庄吉自身が指きりなどという言葉を使わなくなって久しいので、意表を衝かれる想いがした。言った辰一自身、恥ずかしそうに口ごもっている。
「そりゃまあ、少しくらいなら早く来てもかまいませんが。ですが、お断りしておきますが、話したことは高山様に筒抜けですよ」
面倒事に巻き込まれてはかなわないと警戒心が騒ぎ立てた。しかしなにを思ったのか、辰一はあっさりとその条件をのんでみせた。
「構うこたぁねぇぜ。なんなら高山様と一緒でもいいぜ」
目を逸らすこともなく言ったあとに、片方の頬をにっと上げて白い歯を見せた。そのときの目は、たしかに笑っていた。
そのまま役人小屋に顔を出すと、高山は源太と話しこんでいるところだった。といっても内緒事ではないようで、庄吉に気付いて手招きをした。
「ご苦労だったな。今日も稽古ははかどったか?」
いつものように労いと稽古の様子を訊ねられる。庄吉は、思い切って今日の腕試しを話してみた。
「そうか、辰一の鼻っ柱を折ってやったか、それはいい。いや、面白いものでな、ここにおる者共は意味のない自信をもっておる。俺は器用だとか、物覚えが良いとかな。それを捨てねば何事も身につかぬということを知らんのだ。世の中には上がおる。上にはまた上がおる。それをわからせてやらねばならん。その良い例が辰一よ。あ奴から話をしたいと申すのなら、降参したということであろう。ようやってくれた。ときに、居眠りをしておる狐だが、これより見事だ。早く焼印をこさえねばならんな」
辰一との腕試しを話すと、高山は手を打って笑った。そして、申し出を受けてやれとさえ言ったのだ。この人は、人足が寄場から逃げるかもしれないと疑わないのだろうか。一方で、源太が何の用で来ているのかも気になった。
「さて話を戻すが、其の方の申すことはもっともであろうが、そのために箱をこさえねばならん。それにだ、その掛は当方で負担せねばならぬ。上役の裁可を仰ぐためにも、理由が必要だが、考えがあるのか?」
「それはもう……。箱に屋号を入れておくのでございますよ。たとえば……、佃屋とでも入れておけば、誰が見ても宣伝になるではございませんか。他の売り物も、全部佃屋の名で売るのでございます」
「佃屋なあ……。石川島屋……、ちと長いなぁ。つくだや……、語呂は良いが、さて上がなんと申すやら」
高山がむつかしい顔で腕組みをした。
「源さん、いったい何の話だい?」
話が途切れたところで、庄吉は源太のもちこんだ提案を訊ねてみた。
「味噌をこうして売れば良いのじゃないかと思ってさ」
源太が示した箱には、口元まで味噌が詰まっている。紙を持ち上げてみると、下には鮮やかなハランが敷いてあった。
「なるほど。こうして摺り切りまで詰めたら、いつも同じだけ入るわけだ。買う方だって安心だね。けど、味噌って量目で売るものかな? 普通は目方売りじゃないかい?」
「だからさ、量目売りにするのさ。こうすれば秤なんかいらなくなるよ」
「ところで、この箱はどうしたのさ」
「富田町の親分さんにこさえてもらったのさ。あの人、指物職人だから、これくらいお手の物さ」
まったく源太には敵わないと庄吉は思った。
何か工夫をする。そのために必要なものがあれば、なんとしても手に入れる。それが源太だ。そんな才覚は、とうてい自分には縁のないものだと思った。