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天の恵み

 

 気後れしながら寄場通いが始まって四度目。回を重ねるごとに恐怖心は薄らいできたが、相変わらず足が重い庄吉である。ただ、高山から頼まれていた五日毎の島渡りを、四日毎にしただけ積極性がでてきたというべきかもしれない。しかしこの世はなんと皮肉なものか、おツネが崩した体調を戻せないで困っていた。


「なかなか治らないね、おツネちゃん。もう幾日になるんだっけ?」

 客足が遠のいたときには、遠慮なく休憩をとるのが店の慣行だ。そのかわり、今の時期こそ夜になっているが、以前は朝早くからむすび作りにかりだされていた。八つ時をすぎた今は潮が退くように客が途絶え、珍しく昼間からチビチビやる居座り客もいなかった。

 すっかり顔色は良くなったというのに、あいかわらずおツネの腹具合が悪そうなことをお君が心配していた。

「もう半月過ぎたんだけど、なかなか。眩暈は治まったのに、ムカムカするのが治まらなくて。虫下しでも飲んでみようかなぁ」

 おツネは、あれからずっと理由のわからない吐き気に悩んでいた。飯屋で働いているというのに、食べ物を見るだけでムカムカするのである。それを気遣って、客の片付けや皿洗いだけを任されている。食べられないから力が出ない、体がだるい。それに、いくら持ち場を配慮してもらっても、狭い店の中には雑多な匂いが充満していた。

 コトコト煮込む醤油の臭い、燗酒の臭い、そして、どんぶりによそう飯の臭い。それが鼻についてしかたないのだ。どうかすると、それを嗅ぐだけで奥へ走らねばならなくなることもある。いや、そういうことが続いているのだ。だから、ひょっとしたら悪い虫がいるのではと考えたのだろう。

「あぁ、暑気あたりかねぇ。頬のあたりが随分こけたよ、こないだのが相当堪えたんだよ」

 明らかに先の徹夜のことを言っている。

「それほどでもないと思うんだけど、どうしたんだろうね」

「ちゃんと食べてる? ごはんおいしい?」

「うーん、実はあんまり……。ご飯の炊けた匂いを嗅ぐとつい。だから、冷めたご飯ばっかり食べてる」

「そうかぁ……。店の仕事、辛かったら無理しなくてもいいんだよ」

「そんなこと。こうして洗い物してればなんともないから」

「ふぅん……。もうお彼岸だし、涼しくなったらきっと良くなるよ」

 慰めながらお君は、最近腰をおろすことが多くなったおツネの、こけた頬に目を走らせていた。なんでもない時は今までとまったくかわらず、クルクルと立ち働いている。客の後始末も普段どうり卒なくこなしている。しかし、注文されたものを配ぶときには、顔をしかめることがある。といっても、いつも嫌なのではなさそうで、盆に載せてから急に顔を背けることもあった。


「おハツさん、俺謝らなくちゃいけねぇや。庄吉にハッパかけるつもりだったんだがよぅ、おツネちゃんに辛れぇことさせちまった。あの野郎、いつもウジウジしてるだろ、だからガツンと言ってやったんだ。そうしたらお前ぇ、おツネちゃんがキッとなってよぅ……。ちぃと爪の垢でも飲ましてやりてぇよ。おかげで夜明かししたろぅ、そりゃあ吐きもするさ。よっぽど無理したんだなぁ、まだ治んねぇんだよ。これからは野郎だけ呼び出してハッパかけるようにするからよぅ、勘弁してくんな」

 すべての客が帰り、若い者がそれぞれに帰ってしまうと急に静かになる。そうなると徳市も急におとなしくなる。まるで、借りてきた猫のようだ。しかし心の内は決して穏やかではないようだ。

「もどすのですか、おツネが。……もしかして、子ができたのではないでしょうか?」

 おツネを孕んだ時のことを思い出しながら、ハツがポツリと呟いた。飯の炊ける匂いを嗅ぐたびに、吐き気がしたことを思い出したのである。おツネと庄吉が所帯をもって早、三月になろうとしている。祝言前が約ひと月あった。その間も体を重ねていただろうことを考えれば、子ができてもおかしくはない。もし子ができていれば、そろそろ兆候が表れる頃だ。

「いや、だから疲れからきてると思うんだ。だって、最初は庄吉も一緒に吐いたくれぇだからな。まさか、子供だなんて。……なあおハツさん、子ができるとあぁなるものかい?」

 徳市には子供をもった経験がない。それ以前のこととして、女と暮らしたこともなければ、惚れた女もいない。だからお君を育てあげられたのだし、よくも育て上げたともいえる。つまり、子を身篭ったらどうなるか、徳市はまったく知らないのだ。たしかに世間話としての知識はあるが、その聞きかじりがおツネに当てはまるかとなると、まことに不安なのだ。

「だるそうにしていませんか? あれがお腹にいるとき、水を飲むのも辛いことがありましたが、そんな様子は?」

「だるそう……なのかは分からねぇが、よく腰掛けて休んでるなぁ……。ほかは、面目ねぇが……」

 仕事の合間に様子を窺っているつもりだが、水を辛そうに飲むかまでは気をつけていない。主の責任を果たせていないことに気付いて首筋を掻く徳市だった。


 コロコロコロコロ……

 コオロギの頼りない音が響いてきていた。


「子を孕んだらどうなるか、調べることならできますが、……どうします?」

 団扇で風を送る手を止めて、おハツがポツッと呟いた。

「調べるったって、おハツさんは外に知り合いがいるわけじゃなし」

 身代を食いつぶしてしまった亭主とともに流れてきた長屋で、おハツはずっと閉じこもって暮らしていた。店を手放さねばならなかった失望感、亭主の女遊びを止められなかった悔しさ、幼子を抱えて後家になった絶望感。おハツは裕福だった頃の幻影に縛られ続けていたのだ。今日の飢えを凌ぐ日々が長く続く間に体をこわしてしまった。だからおハツには世間と呼べるほど人とのつながりがないのである。おハツにとっての世間とは、毎日食べ物をくれた徳市くらいなものだ。

「ですから、なんなら私が……孕んでみれば」

「なにおっ。おハツさんが孕んでみるだぁ?」

 思わず大声を上げた徳市は、真顔になって口をつぐんだ。窓は開け放してある。ここは二階で、すぐ下にはお君夫婦の暮らす納屋がある。その納屋だって、きっと窓を開けたままのはずだ。大声を出せば筒抜けになってしまうのだ。

「どうです徳市さん、ためしてみます?」

「なっ、ば、じょ、冗談にも程があるぜ、止してくれよ」

「そうすればはっきりするでしょ?」

「や、やめてくれってぇの。こっちは本気で心配ぇしてるってのによぅ」

「なにも心配することありませんよ、じきにわかります」

 さすがに経験がものをいうのだろうか、徳市をからかうような含み笑いがした。そして、ふっと灯りが消えた。

「月が煌々と照っています。油なんてもったいない」

 蚊帳の網目越しに黄色い円盤が妖しい光を放っている。薄闇に包まれたからか、コオロギの音が大きくなったように感じる。視覚を奪われると、きっと聴覚が鋭敏になるのだろう。寝ゴザの擦れる音でさえはっきりと耳に届いた。

「お、おハツさん、わかったから手前ぇの部屋で寝てくれよ。俺ぁもう寝るんだからよ」

「えぇ、寝ますともさ。丈夫になったおかげで、こんなことだってできるようになったんだし……」

 揉み合うような衣擦れの合間に、息をのむ微かな気配があった。

「よ、よせったら。洒落になんねぇよ」

 徳市の声は、コオロギの音にすらかき消されそうになっていた。


 同じ頃、源太とお君も床につこうとしていた。猛暑をすぎて川風に涼しいものが混じってきたとはいえ、必死になって子孫繁栄を挑みかける蚊に対し、蚊帳で抵抗するしかない二人。たとえ一匹でも殺そうと蚊遣りを焚いているのだが、はたして効果があるのだろうか。かといって、窓を閉めれば風が入らない。蚊帳の中の二人にとって、そよそよ吹く程度の風はないのと同じなのだ。

 夜更けて二人の寝所を訪ねる者など誰もいない。それを良いことに、二人とも襦袢一枚で横になっていた。

「消すよ」

 お君は、枕元に置いた行灯の火を吹き消し、火皿に皿をかぶせて念入りに火種を消した。長屋でもそうだが、生火は大敵なのだ。何かの拍子で倒しでもしたら、あっという間に燃え広がってしまう。その点、蝋燭なら油をこぼすことがない分安全だろうが、値が高すぎる。安物のイワシ油でさえ貧乏人にとっては贅沢品だし、安物の油を燃やすと魚を焼く臭いがプンプンする。だから、陽が落ちたらさっさと寝てしまうのが長屋暮らしだ。源太は今までの暮らしでそれが身についていて、夜まで灯りを絶やせない飯屋の暮らしには馴染めていない。とはいえ、寝床につくまでの短い間は明かりが必要だった。

「ねぇ……、おツネちゃん、大丈夫かねぇ。妙な病じゃないよねぇ。……ねぇ、聞いてる?」

 ふっと蚊帳がゆらめいた。少し風が吹きだしたようだが、網目に遮られて蒸し暑いのは解消されない。万一の用心のために蚊遣りの位置を移して、お君は浮かぬ声音である。

「聞いてるさ。疲れが取れていないんだよ、きっと。病なんかであるもんか」

 一方の源太は、さほど深刻に考えていないようだ。

「だけどさ、ちょいと長くないかねぇ。もう十日も経ってるんだよ、おかしいじゃないか」

「……」

「ねぇ、聞いてないの?」

「聞いてるさ」

 源太は、まだ眠っていないことを分からせるために、お君に腕枕をしてやった。

「あぁん、嫌だよう、不公平さ」

「なにが?」

「なにがって……、源さんは好きに手を遊ばせられるけど、……ほら、邪魔なんだよ、合せが」

 源太の胸にしなだれかかったお君は、源太の手を胸元に導いて甘えた声をあげる。そのくせ前合せのせいで自分は源太の肌に触れられず、襦袢の上から手をそよがせるしかできなかった。

「今夜は暑いよぅ、湯文字のせいかね。そうだ、今夜は湯文字なしで寝ようっと」

 腰紐を解いたお君は、横になったまま器用に湯文字を外してしまった。そして、焦れったいと呟いて源太の腰紐も解いてしまった。

「寝冷えするよ」

 お君の好きにさせながら、源太が団扇で風を送る。

「……ばか」

 蚊遣りのたちこめる中、闇の中でほの白い影が重なり合った。


 さて、皆が心配しているのをよそに、おツネも寝苦しい夜を迎えていた。

 おかしなことに、庄吉に触れてもらいたくて仕方ないのだ。毎月何日かはそんな日があったのだが、日がたてばなんでもなくなっていた。しかし今は、触れられたい、睦みたいと体が求め続けている。自分は淫乱な女になってしまったのだろうかと不安にさえなった。こんなことを庄吉に知られたくない。しかし、知らぬ間に庄吉にしがみついている。いくら慣れっこだといっても、長屋の仕切りは薄っぺらな板壁一枚である。夜毎睦言を聞かれることにも抵抗があった。

 今夜は我慢しようと心に決めながら、庄吉にすがりついていた。いつもよりしっかり襟を咥えて。


「ねぇ、……良かった?」

 頭に突き抜けた痺れから回復したお君が、のろのろと身を起こしながら囁いた。最後のほうは自分のことしか考えられなくなって、源太のことなど忘れてしまっていたのだ。だからよけいに不安がつのってくる。

「あぁ、良かったとも。お君とこうしていると、今日も無事に終わったってね」

 満足そうな声がした。そっと隣に横になり、ぴったり寄り添ったお君に腕枕をしてやる。そして、肩越しに伸ばした手を枡にして、ふっくらした乳房にかぶせてみた。

「ねぇ、さっきから何してんのさ」

「あっ? ああ、味噌を売る方法を考えているのさ」

「味噌? 味噌とわたしのお乳とどう関係があるのさ」

「うん。味噌って、いつもどうしてる?」

「どうって、壷に入れるに決まってるじゃない」

「それさ。壷に入れると淵にへばりついたのが取れないだろ? だから、枡に入れたらどうかと思ってね」

「枡? ……枡ねぇ。へばり付くのはいっしょじゃない」

「たとえばね、これを味噌だとするだろ、それをこうして四角い枡に入れる……。この出っ張りはじゃまだから押し込んでと……」

「うっ……、ちょ、ちょっと、だめだったらぁ……」

 黄色い声で抗う。

「竹の皮じゃあ色目が悪いからハランを敷いて、そこに紙を敷くのさ。それをこう四角い枡に入れておいて味噌を詰める、そして蓋をする。どうかな、売れないだろうか」

「ば、ばか。もう、……寝るから」


「大丈夫かい? 具合が悪いのだからさ、少しはひかえないと。俺のことなら気にしなくていいんだよ」

 庄吉は、上になったまま激しく戦慄いたおツネの背を、優しく撫でていた。昨夜もその前も、更にその前も、おツネはこれまでになく庄吉を求めていたのだ。まだ重なったままの背中を撫でてやると、時折ヒクリと腹が波をうつ。そのたびにおツネは、ほつれ毛を吸い込んで悔しそうな素振りをした。

「本当に大丈夫かい?」

 こくんと一つ頷いて、ようやくおツネは庄吉から離れた。

「大丈夫っても、あまり食べてないんだろう? せめて、豆腐みたいな口当たりの良いのを食べないと」

 コクコクと肩口に額が当った。




 寄場へ行かない日は、庄吉は長屋にこもってノミを揮い続けている。療養所でいただいたメガネのおかげで、思うさま細かな筋を刻むことができるのだ。ただ、根をつめると目の奥に軽い痛みを感じた。くれぐれもと念押しされていたことは、時折メガネを外して遠くを眺めることだった。

「う、うーん」

 小さく伸びをしてメガネをかけかえた庄吉は、木屑まみれの前掛けを外すと、ふらりと表へ出た。

 薄暗い路地で、子供が遊んでいる。この長屋はまだ土地を広く使っているので邪魔にはならない。真ん中に一尺巾のドブ板が路地を貫き、ドブ板を挟んで二尺巾の小路になっている。せっかく道幅が広いのだから、ついでに庇を一尺延ばして建てれば、雨降りでも濡れずにすむものを、意地悪なことに道の真ん中で庇は途切れている。その下には、雨だれが穿った跡が筋になっていた。とはいえ、その筋の上を歩いてさえいればどぶに足を突っ込むことはないので、かえって庄吉にはありがたい目印であった。


 スタスタスタスタ……

 知ったところを歩くときは背が伸びている。表通りに出ても、誰とも連れ立っていないときは、ごく普通の若者のようだ。それが、誰かと一緒だと急におどおどしてしまう。それが女房であろうが、多少の違いこそあれ気後れするのは同じであった。

 路地を出て表通りを一町ばかり左へ。その角を折れて半町ほどのところに『大瓢箪』がある。庄吉が暖簾をくぐった時、客がひけた合間に中食を摂っているところだった。


「おう、いいとこへ来たな。今日はご馳走だぞ」

 徳市は箸を持ったまま顎をしゃくり、隣に座るよう促した。

「今日はおハツさんが手伝ってくれてよ、ナスの炒め物をこさえてくれたんだ。味噌をまぶすなり、鰹節をふるなり、好きにしな。俺ぁやっぱり、こっちがいいなぁ」

 飯台の上には、大皿にナスの油炒めが盛ってあった。だし汁で延ばした味噌と、薄く削った鰹節が添えられている。徳市は、鰹節をふりかけたナスに醤油を垂らして摘んでいた。

「しかしなんだな、こんな旨いナスも食い納めってのが心残りだな」

 しきりと箸を動かしながら、徳市は大皿のムスビを口に配んでいる。

「何言ってんのさ、これから秋ナスが出回るじゃないか。お父っつぁんモウロクしないでよ」

 そのナスを小皿に移しながら、お君は伝法な物言いで応じた。

「だから言ってんじゃねぇか。お前ぇとおツネちゃんは喰い納めなんでぇ」

 徳市が勝ち誇ったように笑顔になった。

「どうしてさ」

 意味を理解できないお君は、ナスを取り分けた小皿を庄吉によこしながら、チラッと徳市に視線を送った。

「嫁に食わすなって、世間様が言うだろうがよ」

 賑やかな中食である、しかし賑やかなのは徳市とお君の二人だけ。ぼつぼつ食べるおツネの様子に気を配るおハツは、愛想笑いをうかべているだけだ。

「庄さんよぅ、仕事熱心なのはいいけど、ちっとぐれぇ格好構いなよ。着るものじゃねぇよ、頭に木屑がいっぱいついてるぜ。そんなことしてたらお前ぇ、おツネちゃんが笑われんだからな」

 庄吉は照れくさそうに頷いて、二つ目のムスビに手を伸ばした。



 源太は、八つ時までには得意先回りをすませて、十四間堀の土手にいた。昨夜、寝物語でお君に話したことを試してみようと思っているのだ。その材料として、ハランかクマ笹の葉がほしかったのだ。

 御船蔵を右手にスタスタ歩いて万年橋を渡り、霊雫院の前を通って上の橋。中の橋の手前を左に折れると、富田町はもうすぐそこである。突然訪ねて居るという保障はないが、指物師をしている捨松の意見を聞いてみたかったのだ。


「ごめんなさいまし」

 遠慮がちに声をかけると、捻り鉢巻の男が振り返った。

「なんでやす? ああ、お前ぇか。たしか大瓢箪のとこにいる……」

 愛想よく振り向いてみたら、客ではなさそうな若造である。大瓢箪で何度も見てはいるが、名前を思い出せない捨松だった。

「突然に申し訳ありません。『大瓢箪』のお君が手前の女房でして、その縁で親分さんとは顔なじみでございます。小間物の荷商いをしております、源太と申します」

「そうかい、お前ぇが娘の連れ合いか。道理でしょっちゅう顔を見ると思ったぜ。それで? 何の用だい?」

「はい。まことに厚かましいことですが、親分さんのお知恵を拝借できないかと」

「知恵ってもいろいろあっからなぁ、俺で役に立つかはわからねぇぜ。まあいいや、荷を降ろして座りな。とりあえず言ってみな、聞いてやるぜ」

 源太は荷を背負ったままだった。まあ真面目そうな若者だし、『大瓢箪』の娘婿ともあれば、木で鼻を括るようなわけにはいかない。それに、注文の品も組み付けを待つばかりに仕上がったことでもあり、少しくらいの退屈しのぎも良かろうと考えたのだろう。それに、長屋の隅々を巡る小間物屋は、道具箱に商品だけを入れているのではないのだ。井戸端会議から噂話、どこの誰が芸者に入れあげているなどということを仕舞っているのだ。面白くなさそうな顔だとか、景気の悪そうな顔、陰気の辛気臭いのと煙たがれるだけに、捨松にとって心安い小間物屋の知り合いはいない。飛んで火に入るなんとやら、どうにかして源太を味方につけたいという思惑もあった。

「はい。実はね、高山様のお世話で寄場の味噌を売らせていただいているのですが、ただ味噌を売るだけでは芸がないと思いまして、こんなことを考えたのでございますよ。……」

 源太は、昨夜思いついたことを事細かく捨松に話してみた。


「おいおい、なにもわざわざ艶話を持ち出さなくてもいいだろうに。要は、見た目を整えようってんだな? だけどお前ぇ、箱だろうが壷だろうが相手は味噌だぞ、どこに入れたってくっつくだろうがよ」

「ですからね、箱の中にハランを敷きまして、その上に紙を敷きます。そこに味噌を。蓋があれば見た目も良いと思います」

 荷の引き出しを引き抜いてハランを中に敷き、その上に半紙を敷いてみせた。

「あっ、そういうことか。紙を引き上げたら全部使えるって寸法だな?」

「はい」

「そりゃあ良い勘考だ、そう思うよ。けどよぅ、いずれ汁が滲みこんで汚くなっちまう」

 半紙は湿気を素通しするのと同じだ。しみ出た汁が枡に紙を貼り付けてしまう。それが容易に想像できるので、捨松は顎をポリポリ掻きながら渋い顔をしていた。

「そこなんですよ、親分さん。そりゃあ漆でも塗っておきゃいいでしょうが、手前は長屋の衆にお世話になっているのです。なんとかお足をかけずにすませたいのが本音でして……、といって知恵なんぞなくて」

 何か名案がありませんかと水を向けた。そりゃあ、いくつか候補はあるのだが、こういうときは相手に花を持たせるに限るということを源太はよく弁えている。

「そいじゃあどうだい、紅殻を塗っちゃあ。あれならお前ぇ、汁が滲みて出たって目立つもんじゃねぇぞ。そいで、俺にこさえろって言うんだろ?」

 紅殻のことは源太も知っている。剥がれ難くて水にも強い、格好の塗料である。それに、自分から口にせずとも作ることを捨松が言い出したのだ。

「いやぁ、こりゃ先手を打たれてしまいました。そうお願いできればなによりなのですが、生憎なことに貧乏なものでして。味噌で……お支払いするということでは……すみません」

 源太は、立ち上がるなり深々と頭を下げた。

「味噌? 銭じゃなくてか。……出してみな。ほれ、味見してからだ」

 呆れたように源太を見やった捨松だが、しぶしぶといった按配で味見を言い出した。こうなりゃしめたもの。もうほとんど源太の筋書き通りである。

「味はもう、先々で評判いただいてますし、親分さんもご存知のはず」

 言いながら一番下の引き出しを引いた。油紙で厳重にくるんであるにもかかわらず、プーンと味噌の匂いが漂ってきた。

「知ってる? 俺がか?」

 怪訝そうに指で味噌を舐めた捨松は、目玉を上にしてしきりと味を確かめていた。

「おい、こいつぁなんだろ、『大瓢箪』で使ってるやつだろ? そうかぃ、あの野郎、他所と違う味出しやがると思ったら、……なるほどなぁ、寄場の味噌を使ってやがったか。よし、引き受けた。そのかわり、二升だぜ」

 引き受けている仕事が片付くのは三日後。そうしたらすぐにでも届けてやるとの約束をとりつけて、富田町を後にしたのであった。



 中食をすませた庄吉は、長屋へ戻ってノミを揮い続けていた。

 朝から始めた彫刻は、やはり狐である。丸まって、太い尾を枕にうたた寝をしている様子で、もう少しで出来上がりだ。一寸五分ほどの大きさの中に、どれだけ細かい細工ができるかを試しているのだ。どれだけ思い切りよく荒削りできるか、どれだけ生き物の丸みを表現できるか。そして、素人が気付かない部分にどれだけの細工を施せるか、丸一日かけた成果が出ようとしている。

 細い線を波打つように刻んだあとの毛羽立ちを抑えるために、カンナ作業を始めていた。筋彫りの面白さは、線の重なりにあると庄吉は考えている。線は必ず重なるもので、下になる線は途切れてなければおかしい。しかし、線が絡み合うとき、その上下が複雑になって職人泣かせなのだが、それも彫りの面白さ、腕の見せ所なのだ。つまらないことかもしれないが、その一本を増やすことがどれほど難しいか。庄吉は、頑なに信じている。その線を活かす作業がカンナ仕上げだ。庄吉が手にしたのは槍カンナを小型にしたもので、片手で握って使える大きさである。槍という名がついているだけあって切っ先が鋭く、よく指先を切ったりするのだが、どんなに曲がった面でも手加減ひとつで削ることができるし、木肌に喰いこむことがないので便利なのだ。

 削り節のような薄いクズの下から、木目が鮮やかに浮き上がってきた。満足そうに頷いた庄吉は、台から取り外したものを布切れで十分にこすった。細かい粉が全部取れてしまうと、竹筒から油を一滴布切れにしみこまる。亜麻仁油だ。庄吉は栗やら桜、楓などの色の濃い木を好んで使う。朴や一位の木は、どうにも苦手だ。というのも、指先の血で汚してしまうからのようだ。

 丹念に油を拭い取った庄吉は、満足がいったように大きく息をついた。


 六畳一間の長屋では、仕事をするのも寝るのも同じ場所。道具を片付けて散らかった木屑をきれいに集める。そうしないと日が落ちてからでは灯りをつけねばならなくなる。それはそれで物入りなことだ。所帯をもって以来、ろくに仕事をしていないのにやってこられたのは、『大瓢箪』で食べさせてもらえるのと、おツネが貰う手間賃のおかげだ。だが、こうして仕事ができるようになったのだから、おツネを安心させてやらねばいけない。できあがった根付を手拭いに包み、夕餉にむかう庄吉の足取りは軽い。



「おっ、庄さん。すまねぇが、今日は客がひけてからにしてくれや。ちょうどいいから、湯に行ってきな」

 目敏く庄吉を見つけた徳市が、店中に聞こえるように言った。そういう日は早仕舞いと決まっているので、だらだらと酒を飲むわけにはいかない。ごねてみたところでギロッと睨まれて終わりだ。

「悪ぃなみんな、今日は大事な用があんだ。早仕舞いさせてもらうからな」

 はっきり宣言して、早くも洗い物を始めるしまつだ。見たところ源太の姿もないので、庄吉は勧められたとおり、湯を浴びに夕暮れの町へ出て行った。


「実はな、新子のハゼを貰ったもんだ。新モノだから客に食わせるのは勿体ぇねぇ。まずは身内でいただこうって思ってよ」

 皆を集めて何事かと思ったら、徳市が子ハゼの煮付けをこさえたそうだ。暑い盛りが過ぎて秋の虫が少しづつ勢いをみせている。海の中でも季節が移り変わっているようだ。

「ちょいと工夫した、特製の煮付けだ」

 小鉢に五匹ほどの真っ黒に煮込まれたハゼが入っている。魚の周囲は、これまた真っ黒な煮汁が流してあった。

「断っとくが、けっこう辛ぇぞ。茶漬けにいいかもしれん」

 そう言ったくせに、徳市はそのまま口に放り込んでムシャムシャやり始めた。

「あれっ、お父っつぁん、甘いくらいだけど……」

 色の悪さに気後れして、恐るおそる食べてみたお君が騙されたという顔をした。

「それが甘ぇ? お君、お前ぇの舌はおかしいんじゃねぇか?」

 明らかにからかっているのが丸わかりの笑顔で徳市が答えた。おっかしいなとでも言いたげに首を捻ってもう一匹口に配び、しかめっ面をしてみせる。

「親父さん、甘いですよ」

「なんでぇ、夫婦だからって女房に遠慮しなくていいんだぞ、えぇ、源太」

「いや、本当に甘いですよ」

「そうか、甘ぇか。庄さんはどう思う?」

「じゅうぶん甘いと思います。ここまで甘くしなくたって」

「なんでぇ、庄さんも舌がおかしい口かぃ。弱ったね、こりゃ。じゃあよ、おツネちゃんならどうだぃ?」

「少し醤油が多すぎるような。ほんの少しですよ。ただ、味醂のほかに何か使ったのですか?」

「ええっ? まっ、種明かしは喰ってからだ。ところでよ、今日は庄さんが嬉しそうに見えるんだが、何かいいことでもあったのかぃ?」

 庄吉はハッとした。普段通りにふるまっているつもりなのに、どうしてそんなことを徳市が言うのだろう。急にドギマギして自分を指差し、慌てて違うと振ってみせる。

「んなこたぁねぇはずだ。でぇいち、背筋が伸びてんじゃねぇか。何があったか言ってみねぇ」

 そんなに自分は背を屈めているのだろうかと庄吉は思った。誰にも今日のことは話していないのだからはわかるわけがないのに、徳市にそれを言い当てられている。隠し事のできる相手ではないなと感心しながら、庄吉は懐から手拭いを出した。

「なんだい? 何かいい物を拝ませてくれんのかぃ?」

 興味津々で覗き込む徳市に、手拭いを渡した。

「おっ、やったじゃねぇか。今日こさえたのか? へぇーえ、てぇしたもんだぜ、えぇ、庄さ……、いや、跳狐の庄吉ぃ」

 手拭いを源太に回した徳市は、バシンと庄吉の背中を叩いた。

「庄吉ぃ、こりゃあまた、たいした細工を仕上げたなぁ……。これだけの細工ができれば心配ないや。あのメガネとやらを使うと、ここまで見えるのかい?」

 見えるようになった。とても見えるようになったと庄吉が喜んではみても、どれだけ見えるのやら源太には想像できないのだ。試しに借してみたのだが、靄がかかったようにしか見えないと言っていた。新しくこさえた根付の精緻なことは、源太の予想を遥かに超えたとみえる。じゅうぶん高値で売れるものに仕上がっているのだろう。

「ああ、よっく見える。見えるのだけど、指が追いつかないよ。それが精一杯かもしれない。もう一本なら線を入れられるかもしれないけど、そうすると欠けてしまいそうだしね」

 細かく刻んだ線をもう一本なら増やせると庄吉は言った。ただ、線を増やすということよりも、線の始めと終わりを同じにできないことが残念なのだ。それを素人に言ったところで解ってはもらえないので、口を噤んでいるだけなのだ。

 手拭いはお君の手に回り、おハツに渡った。そして最後におツネに。おツネにはその良さはわからない。小さな木彫りの狐としか感じない。しかし、目をくっつけるようにしなければ見えなかった亭主が、徳市や源太を唸らせるものを作ったのだ。それは嬉しい出来事だ。おツネは手拭いを正面に置き、じっと手を合わせて拝んだ。


「みろぃ、手前ぇの仕事が上手くいくと自信がつくってもんだ。グズグズいう庄さんがなぁ……。いや、てぇしたもんだ。ところで、今日はおハツさんから何か話があるそうだ」

 口直しの新香をポリッと噛み、飯をかきこむ。若い頃の早飯癖がどうしても直らない徳市。夕餉は始まったばかりなのだ。

「実は、ツネの具合が治らないというのを聞いて、今日は一日様子を見ていたのだけど……。今日はご飯を食べられたかい?」

 徳市とは向かい合わせに座を占めたおハツは、すぐ左にいる娘のほうに向き直った。

「昨日よりは」

 突然何を言い出すのだろうと、おツネは怪訝そうに答えた。

「ご飯の湯気を嗅ぐと戻すそうだけど、今日は?」

「三回」

 指を折りながら思い出して、おツネは答えた。

「そう、辛いねぇ。じゃあ、もうひとつ。……月のものはきちんとあるかい?」

 おツネはハッとした。おツネは定期的に生理があらわれる体質ではなかった。早まったり遅れたり。だから今だって、単に遅れているだけだろうと思っていたのだ。

「じゃあ、先月はどうだった?」

 おツネはふるふると首をふった。

「やっぱり……。ツネ、丈夫な子を産むんだよ」

 おハツは、いたわるように娘の手をさすってやっている。

「おっ母さん、ほ、本当ですか?」

 庄吉は耳を疑った。食べたものを吐いたのは、二人いっしょだったではないか。あのときの無理がたたって腹具合がおかしくなっているのではないのか。まさか、自分が人の親になるのだろうか。そんなこと、ほんの半年前には想像だにしなかったことだ。

「おハツさん、それって、腹をこわしているだけじゃないのですか?」

 源太は咄嗟に訊ねてみた。だが、おハツはそうじゃないというように首をふって娘の手を擦っている。

「庄吉、どうやら本物のようだ。先を越されたねぇ、いつも泣きながら後をついてきた奴が父親かぁ。お君、冷やでいいから一本つけておくれ」

 勝った負けたの問題ではないが、源太はいくらか羨ましそうな表情をみせた。が、それはそれ、友が親になることを祝うだけのゆとりを失ってはいない。

 お君が立ち上がるのと同時に、おツネの呟きが洩れてきた。

「だけど、いいんだろうか。子供を産んでいいんだろうか。ねえ、どう思う? もし私に似た子が生まれたら、耳が悪くないだろうか。聞こえないって辛いことだよ」

 降って湧いたような祝い気分が、急に重苦しくなる。なるほど、おツネの心配するようなことがおこらないと誰が保障できるだろう。その辛さは、体験した者でなければわからないことなのだ。

「な、なあ、おツネちゃん。子は天からの授かりものって言うじゃねぇか。心配ぇなのはよっくわかるけどよ、天の神様がそんな惨い仕打ちをなさるわけねえよ。と、取り越し苦労はしねぇこった。お君、何ぼおっと突っ立ってやがんでぇ。祝いの酒を持ってこねぇか」

 徳市の美徳、それは空元気である。重い場面、暗い場面で、徳市の空元気が何度周囲の気持ちをほぐしただろう。

「だってそうだろう。今日は庄さんがどえらいものこさえやがった。おまけに、おツネちゃんのおめでただ。神様が仕組んだとしか考えられねぇじゃねぇか」

 そう言って自分で猪口を持ってきて、一人ひとりに配ってまわった。

「う、うん。だけど、何がなにやら、実感が湧かないよ」

 庄吉は、周りが勝手に盛り上がっているだけのような、疎外感を感じている。

「当たり前さ。女は自分のお腹に子を宿すんだよ、種付けしっぱなしの男とは訳が違うんだから」

 庄吉に酒を注ぐとき、お君がさらりと言ってのけた。

「お君! 種付けたぁなんて言い草だ。もっと上品にしやがれ」

 雷なのか冗談なのか、徳市の一言が笑いを生んだ。


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