人足寄場
庄吉とおツネが『大瓢箪』へ顔を出したのは、翌朝になってからだった。いつも朝夕の食事は店で食べさせてもらっているのに、昨夜はとうとう顔を出せなかった。あんなに怒鳴られたのだから、とても呑気に飯にありつくなんてできるものではなかった。
「……親父さん、昨日は……」
目ヤニをこびり付けたまま、庄吉はやっとそれだけを言ったのだが、後が続かず、もじもじと俯いていた。
「親方、うちの人が間違っていました。それで、できるだけのことをしようって、夜っぴて砥ぎ上げました。何本か砥げなかったけど、どうか堪忍してください」
しばらく待っても先へ話を続けないのを気にして、おツネはしきりと庄吉の袖を引いていたのだが、口を閉じたしじみのように、庄吉の口は黙ったままだ。いてもたってもいられなくなったおツネは、本来なら庄吉が言うべきことを口にした。
「夜っぴて砥いだぁ? よし、見せてみろ」
「はい、ここに……」
おツネに促されて庄吉が袋から取り出したものを並べると、ギトギト砥ぎ上がったノミがずらりと並んだ。砥ぎきれずに錆が浮いたものが十本ほどと、鈍い光を放つ細工用の彫刻刀も並んでいる。
「ようし、ここまで精一杯ぇやったんだな? こぃでいいんだ、やればできんじゃねぇか」
庄吉は知らなかった。夜が更けて、こっそり徳市が様子を窺いに来たことを。夜が明けたにもかかわらず、ぽおっと燭台を点したまま懸命に砥いでいるのも見られていたのだ。
徳市の物言いは荒っぽい。だが、懸命にやりさえすればグズグズ言わない。今だって雷が落ちるのを覚悟していたのに、褒められた気がした。ありがたいことだと思う。が、そう思いながらも、怒鳴られた恐怖をぬぐえていなかった。
「とにかく顔を洗ってこい。そんな酷ぇ顔を人様に見せんじゃねぇ。いいか、飯を食ったら富田町へ行ってよく謝っとけ。それから寄場へ行って丁寧にお詫びすんだ」
子供を使いに出すように、徳市は次にすべきことをやつぎばやに指図した。
わかってらい、ガキじゃないやい。咽元までこみ上げるのをのみこんで、庄吉は砥ぎ上げたノミを丁寧に包んでいた。
捨松への詫びを後回しにした庄吉とおツネは、寄場への船着場でひと悶着おこしていた。夫婦して高山に詫びたいと願っても、女の来るところではないと渡船を認めてくれないのだ。
「どうかお願いします。一言お詫びをしたらすぐに戻りますので」
ここでも口ごもった庄吉に代わり、おツネが訴えている。しかし、耳の悪いことを知らない役人は配慮をせずに話すものだから要領を得ない。おツネは、耳が聞こえにくいことを仕草で示さねばならなかった。
「高山殿にはすべて伝えておく。何度も申すように、ここは人足ばかりなのだ。そのようなところへ女子を行かせるわけにはまいらん」
役人は困りはてていた。詫びにきた者を邪険に扱うことは気が咎めるのだ。そして、相手は耳が悪いようで、穏やかに話したのでは伝わらない。聞こえるように話すと、声高になって行き交う町衆に奇異な眼差しを向けられる。まるで威圧的に応対していると思われてしまうと、苦りきっていた。
「それは何度も伺いました。けれど、人の道を外すようなことをすれば、高山様にも、待っている家の者にも哀しい想いをさせてしまいます。お定めに背くことかもしれませんが、どうかお聞き届けを……」
ちらりと庄吉に視線を走らす役人の目に侮蔑の色が浮かんだ。女房に交渉させておきながら木偶の棒のように突っ立っている庄吉を哀れんでさえいるようだ。
「だがなあ、人足どもに里心がつく。それに、女っ気を無くしてあるのだぞ、このように歳若い女を見せればどうなる。女の肌が恋しくなるではないか。まさか女房が襲われることはあるまいが、浮き足立つことは想像できよう。困る、困るのだ」
こう言えばわかってくれるのではないか。役人は噛んでふくめるように説得を試みた。これで納得しないようなら、高山を呼び寄せるしかないだろうとも考えていた。
「でございましょうが、そこをなにとぞ」
それくらいで諦めないおツネだった。普段はおとなしい女房が、これほど頑固なことを庄吉は初めて知った。自分なら一度目で諦めているだろうに、おツネは相手が嫌がるのを無視して島渡りを願い続けている。舌をまく我慢強さだと思っていた。
長い押し問答の末に、他出していた同心に付き添うかたちで島渡りが許された。
「そうであったか。そうまで律儀にすることはなかったに、まあまあ徳市ならそれくらいのことを申すであろう」
船着場から詰め所まで役人に囲まれての移動であった。戸口でもたもたすることを許されず、中に入ったとたんに戸がぴしゃりと閉じられた。何事かと気色ばむ役人にあらためて来意を告げ、取り次いでもらったのである。高山は、用件を知るとそう言って二人をねぎらったが、わずかに顔を曇らせた。
「だがな、ここは女の来るところではない。なにせ、男ばかりで何年も閉じこめておるのでな、女に飢えておる。いや、危害をどうのというのではなくてな、……わかるであろう、ここがモヤモヤしてまいるのよ」
高山が苦笑まじりに指したのは、股間だ。
「ただお詫びすることばかり考えておりまして、そういうことには気が回りませんでした。大変申し訳ないことをしました」
もじもじと煮え切らない庄吉に代わり、おツネはそう言うとただひたすら頭を下げ続けた。
「おツネ、そう硬うなるな。其の方の気持ち、十分に受け取った。ところで庄吉、女房殿に断りを言わせておいて、俯くばかりではいかん。あまりに不甲斐ないのではないか?」
「は、……はい」
土間にぺったり座り込んだ庄吉は、膝頭を押し付けるように突っ張ったまま、頭を上げられずにいる。上がり框すら見ることができなかった。
「それ、そのように下を向いておっては話になるまい。まず背筋を伸ばせ、良くても悪くても己の思うたところを申せ。そうでのうては話も適うまいし、相手の言いなりになるばかりだ」
話す合間にため息をついた。徳市は怒鳴ることで目を覚ましてくれようとしたのだろう。捨松は、萎縮した庄吉を安心させようとしてくれた。そう分析する力が庄吉には備わっている。たえずわが身を風下におくことで、相手の言い分を聞くことに慣れていたからだ。そして今、高山の言葉を聞いていると、背中をさすられているような気持ちになった。
「は、……はい」
「またか……。まあ、よいわ。なるほど精一杯のことをしてくれたこと、よーぅわかった。ではな、其の方には五日毎に来てもらおう。疲れたであろう、帰って体を休めるがよい」
「は、……はい」
庄吉は、上がり框に並べたノミを布で巻いて、袋にしまった。そして再び深く頭を下げると戸口へ向かおうとした。
「ご無礼します」
一つ頭を下げたおツネが戸口をふさぐようにして庄吉の正面に回り込んだ。
「意気地なし!」
叱声とともに、庄吉の頬をおツネの手が襲った。
パンッという乾いた音に、書き物をしていた皆が振り返る。それほど大きな音だった。
「おまえ、火事のときもそうだった。昨日もそうだ、ここぞって時に逃げようとする。今だってそうじゃないか。悔しくないのかい、情けなくないのかい。人様の前で女の私に打たれて、く、くそって……思わないのかい」
激しい言葉をおツネが発した。叩かれた拍子にずれてしまった眼鏡の中に、目を怒らせているおツネがゆがんで見えていた。一語いちご、引き攣った舌が言葉にするたびに、見開いた眼に大粒の涙が盛り上がった。そして最後のほうは、当て布だらけの前掛けで顔を覆って肩を震わせている。
「おツネ、其の方の気持ちは痛いほどわかる。よう背中を押してやった、徳市に似て一本気なようだの。が、人前だからな、それくらいにしておけ。ともあれ、今日は帰るがよい」
顔を覆ってしゃくりあげるおツネを見やる高山は、その行為を責めはしない。むしろ慈父のようにいたわっていた。ジーンとした痺れを感じながら、庄吉はそれでも正面を見ることができず、俯き加減で黙っていた。
「さっ、早う帰ってくれぬと迷惑なのだ。いつまでも戸を閉めておくわけにもゆかぬでな」
高山は、立ち上がって帰宅を促した。が、庄吉に向き合っているおツネはもちろん、庄吉も動こうとしない。
「何度も言わすな。早う去ね!」
ついに高山が大声を上げた。庄吉はもとより、おツネも高山が大声を上げるのを初めて見たのだ。その声にびくっとした庄吉が三和土に座り込んだ。
「申し訳ありません。全部私が悪いのです。煮え切らない私のせいです。ただ、こわくって……」
庄吉は三和土に這いつくばって震えていた。ついた左手を支えるように擦り続けている。
「何が怖いと申すのだ。其の方を怖がらすようなことは何もしておらぬはずだ」
声が荒い。しかし、怖いという本音が意外だったのか、当惑気味でもあった。
「は……いえ、そうじゃなくて、人様に仕事を教えるなんてしたことがないから、どうすれば良いのかわからないのでございます」
本音だ。いつも人の背に隠れるように生きてきた庄吉には、他人に誇れるものがひとつもなかったのだ。対峙すれば自分から目を逸らしてしまう。言い合いになればスゴスゴ引き下がる。無体な要求でさえ、諾々と従ってきたのだ。そのかわり、危害を加えられることはなくてすんだ。穏やかに生きるには、自分を殺すことがなにより近道だという考えに治まってしまっているのだ。ところが、教えるということはその静穏を乱すことでもあると庄吉は考えたのだった。しかも相手は寄場人足である。口が荒いであろう、気も荒いであろう。自分のような者の言うことを素直に受け入れるとは思えないのだ。それに、何から教えれば良いかすら庄吉にはわからなかったのだ。しかし、おツネが本気で叱ってくれたのでハッとした。高山の一喝も効いた。
「どうすれば……。其の方の修行を思い出せば良いではないか。最初はどうであった?」
高山の声が穏やかになった。まるで背中をさすられているように諄々と染み入ってくる。
「……最初は、仕事場の掃除でございました。そのうち材料を用意させられ、おおまかな形を彫ることを許され、次第に自分一人で最初から最後まで作ることが許されました」
努めて思い出すまでもない、ノミを握ることを許されるまでの下働きが長かったこと。その間、先輩たちの手先を見つめ、知らぬ間に仕事の流れを覚えたこと。問われるまでもなく、スラスラ答えることができた。
「ならば、ここでもそうするが良い」
「その合間は絵を描く稽古でございました」
「それは良いではないか」
「ノミを砥がされました」
「それもやれ。思いついたことは全部やれ」
高山は、庄吉の言うことに一々頷いてみせた。
「しかし、仕事を教えるということは、生きる術を教えることでございます。その人の一生に責任をもつということでございます」
「そこまで気負うことはない。一通りのことを教えたなら、その先は自分で修行するしかあるまい」
「そういうことでよろしいのですか?」
「庄吉、其の方は神でも仏でもないのだぞ、生身の人だ。気負ったところで、できることなどしれておる。弟子……あぁいや、子供に教えるようにすれば良い。ただし、出し惜しみせずに、なっ」
「それで良いのなら……、今から始めさせていただきます」
ふっきれたような気がした。不安なことを全部さらけ出し、自分ができることを並べてみたら、そのすべてを高山は受け入れてくれた。いや、それを好しとして励ましてくれた。そういうことなら、たとえ僅かでも今から始めよう。
「ほんとうかい? 今言ったのは本当かい? よく言ってくれたよ、おまえ」
またしてもおツネが顔を覆った。こんどはうれし泣きだ。
「いや、今日は帰って体を休めるのだ」
ところが、高山はすかさず帰るよう勧めた。
「いいえ、今から始めさせていただきます」
咄嗟に庄吉も言い返した。なにも余計なことを考えず、気持ちのままにふるまったのだ。
「そうだよ、行っといで。私、ここで待ってるから。皆様にお願いします。お茶汲みでも掃除でもしますから」
前掛けでゴシゴシと涙を拭ったおツネが、もれ出た鼻水を啜り上げながら小屋の役人たちに頭を下げた。そして、皆が唖然とする間に襷をかけると、茶の支度を始めたのだった。
寄場からの帰りがけ、人に訊ねながら探し当てた捨松の住まいでは、捻り鉢巻をした捨松が、障子の仕上げに精出していた。
昨日のとりなしに礼を言い、朝から寄場へ行っていたことを告げると顔を綻ばせてくれた。
「そうかい、行ってきたんだな。それでいい、そぃでこそお前ぇ、人の道ってもんだ。大瓢箪が怒鳴ったのも、間違いじゃねぇ。けどよ、商売ぇが違うからわからねぇんだ。ところでお前ぇ、道具ってのをいくつか見せちゃあくれねぇか。俺も似たような稼業だからよ、どんな道具を使うのか勉強させてくれ」
仕事をしている捨松には、陰気臭さなどまったく感じられない。むしろ思慮深くさえ感じさせた。それに、意外と気さくだ。物を作ることで糧を得ている者は、理屈をこねたがる反面、快活でもある。物事にこだわらないという点では徳市によく似ている。
「これが彫り師のノミかい。まいったなぁ、おい。こらぁお前ぇ、ノミってより剃刀じゃねぇか」
さすがにそれは誇張しすぎだが、捨松が使っているものを並べると、違いは一目瞭然だ。
捨松のノミで手先を切るのは、よほどヘマをしたときだけだろう。ところが、庄吉のノミは、ちょっと当たったくらいでも簡単に切れてしまう。
いいかいと言ってそれを取った捨松は、仕上げ途中の桟に刃を当ててみた。
スルッと動かせば、紙より薄いクズがヒゲゼンマイのように丸まって出てくる。しかし、それは当たり前なのだ。障子の桟なら杉かヒノキのはずで、栗やツゲのように硬くはないのだ。
「そりゃあお前ぇ、こんなに砥ぐなら一晩じゃ無理だ。いや、無茶だぜ。よくやったなぁ、おい。見上げたもんだ」
自分のノミと取替えては切れ味を確かめていた捨松が、首をふりながらため息を洩らした末に、慰めるように言った。
「いいか、胸張って大瓢箪へ帰ぇんな。何か言いやがったら俺を呼ぶんだぜ、きっちり意見してやっからよ」
いつでも寄れよと通りまで送られた二人は、気をよくして帰ったのだった。
二人が『大瓢箪』に帰ってきたのは、そろそろ七つになろうかという頃である。夜明かしをしたまま働きづめだったので、さすがに足がもつれていた。あったことを事細かに報告し、あらためて詫びたのだ。
「そうかぃ。うんうん、よくやった、さすが庄さんだ。高山様も、さぞお喜びなすったろう。それでいいんだぜ、庄さん」
徳市は手放しで喜んだ。
「ところで、寄場の飯はどうだった? 旨くなかったろう?」
「それが……、せっかく出してくださったのですが、二人とも腹がむかむかして食べられなかったのです」
「そいじゃあ何かぃ、飯はまだなのかぃ? 朝も申し訳程度しか喰ってねぇし、そんなことしてたら体こわしちまうぜ。さいわい冷や汁があっからよ、汁かけ飯を喰いな」
茶碗一杯分ほどの飯にたっぷり汁をかけてもってきてくれた。しかも、小さな貝殻から身を外して飯の上にまぶしてあった。せっかくの心づくしを口にする二人。しかし、旨いと感じたのはズズッと啜った汁だけで、たっぷり汁を吸った飯粒は受け付けなかった。親方に悪いと思えばこそ、いかにも旨そうに啜ってみせたのだが、半分ほど食べた頃には持て余していた。
「親方、悪いんだけど、腹に入らないんですよ。残してしまってすいません」
庄吉は、かろうじて半分ほどを腹におさめたのだが、おツネはほんの少し手をつけただけだ。施しを受けにくる者がいるというのに、食べ物を残すことに後ろめたさがあった。
「いいや、くたびれたんだろう。腹がへりすぎると、飯が喰えなくなることもあんだ。構わねぇからよ、ちぃと寝てきな」
昨日とは手の平を反したように、物分りの良い徳市に戻っている。ほっと胸を撫で下ろした庄吉は、長屋へ帰ろうと腰を上げた。そのとたん、胃の腑が絞り上げるような違和感を感じた。
「どうしたぃ、二人とも。真っ青じゃねぇか。ただの汗……」
最後まで聞く余裕はなかった。口元を押えて裏口へ駆け出した庄吉は、吐き気をこらえてドブ板を捲った。そこへ頭をつっこむ暇もなく、ゲーッと全部戻してしまった。わずかに遅れておツネも全部吐き出して、それでも足りないのか黄色い水を吐いていた。
「塩水だよ、うがいをなさいな」
お君の差し出した水で口をゆすいでも酸っぱいような痺れは治まらなかったし、咽がヒリヒリするのも治まらなかった。
「疲れだ、間違ぇねぇ。すぐに帰ぇって寝るこった」
徳市の言うことが半分もわからないほど、庄吉は朦朧としていた。メガネの内側で、カサカサになった目蓋がずり落ちてくる。おツネも似たようなもので、何と言って辞したのかはっきり覚えていない。
ほんのひと時ウトウトしただけだと思ったら、すでに夕闇が迫っている。隣で熟睡しているおツネを揺り起こした庄吉は、頭がはっきりしないまま『大瓢箪』へ行くことにした。
「おツネ、おいおツネ。眠いのはわかるけど、何か食べておかないと体が弱ってしまうよ。豆腐でもいいから食べてこようよ」
昨日から丸一日、ほとんど何も食べていないのだ。このまま眠気に負けたら体が弱ってしまう。
「ほら、おツネ、行くよ」
眠くてしかたなさそうなのを無理矢理起こして、庄吉は『大瓢箪』へ行った。
「おツネちゃん、……まだ気持ち悪い?」
お君の声が聞こえてきた。客ではないのだから、亭主の食べる世話をするために勝手場に入ったおツネは、豆腐を小切りにして膳に載せ、青菜の素茹でを堅く絞って皿に盛り、摺り胡麻をふった。今日は豆腐の味噌汁である。最後にご飯をと釜の蓋を開けた。
ふわーっと炊いて間がない飯の香りが勝手場にあふれた。その匂いを嗅いだとたんに吐き気がこみあげてきたのだった。
「丸一日食べてないんだからね、お腹がびっくりしてんだよ。食べなかったおツネちゃんも良くないよ。いいから、庄さんのご飯なら私がつけてあげるから。おツネちゃんは冷や飯のほうが食べやすそうだね」
話している間に吐き気は治まったようだが、湯気のたつ飯を見ると胸がムカムカするらしい。相当な無理をしたのだろうとお君は気の毒そうにしていた。
二日ほど体を休めた庄吉は、人足寄場へ通うようになった。とはいっても、自分一人で行くことは、見知らぬ者の中に放り出されるような気がしてならない。ましてや、相手は罪人である。前回は高山がついていてくれたから心強かったのだが、今日からは自分ひとりで皆の面倒をみなければならない。それに、何から教えていいかもわからない。言い付けられることに慣れきっている庄吉には、当って砕けろという考え方はない。開き直ることもできない。さりとて、約束した手前嫌でも行かねばならぬし、仮病を使う勇気はない。
細工物を稽古している小屋には、五十人ほどの人足が詰めていた。その中で根付を作ろうとしているのは二十人ほどである。他は、欄間などの木彫りの稽古だったり、塗りや箔押しを稽古していた。
カンカンカンカンとノミで板を彫る音が絶えず響く中、庄吉が座につくと、すぐに人足が集まってきた。なにを教えるより先に、自分の腕前を自慢したいようだ。
庄吉は、何を作りたいのか訊ね、どんな様子を思い描いたのか訊ね、職人の差し出したものに彫刻刀をはしらせた。特徴的な部分を修正してやると木彫りの犬が、亀がイキイキしだすのだ。人足たちは、どこをどうしていいか解らなかったようで、庄吉のノミさばきに驚いたものである。ところが庄吉は、相手から感心されて気持ちよくなるどころか、人足たちの言葉遣いに震え上がっていた。
人足たちの言葉遣いは荒い、それに雑である。各地の訛りが入り混じっているし、抑揚を誇張したりもする。徳市の言葉遣いも乱暴には違いないが、江戸っ子が普段使っている言葉だから気にならなかったのだ。それに、目つきが鋭いのと、ボサボサに伸びた月代も不気味に見えた。なにより、柿色のお仕着せが恐ろしくてたまらなかった。
「おう、何から始めたらいいか、ちょちょっと教えちくれぇ。こちとらボヤボヤしてる暇ねぇんだ。ちっとでも銭にしねぇとお前ぇ、放り出されたら空ッ欠なんだからよぅ」
そうだった。作ったものを売って、放免したときの当座資金として支給するのだと高山が言っていたっけ。人足の手元に入るのは僅かなものだろう。だから懸命になるのだろうか。だったら自分に危害を加えることはないだろうが、それにしても怖い者どもだ。
庄吉は、ビクビクしながら初日の勤めを無事に終えた。