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めがね

「ゆるせよ」

 江戸深川蛤町に一軒の飯屋がある。『大瓢箪』という屋号だ。二階建ての建物の下半分が客を入れ込む店で、その奥には狭い小座敷と勝手場。左右の桟敷には申し訳程度の衝立が仕切りを入れている。そして、店の中央には大ぶりの飯台が四つ並んでいた。

 入り口の暖簾を掻き分けてにゅっと突き出てきた二本差し。紺色の紐が巻かれた柄は、ところどころが手垢で鈍い照り返しを放っていた。淡い水色の着流しに、網代編みの笠を提げている。

「おいでなさいまし」

 ちょうど今帰った客の後始末をしながら、女は振りむきもせずに威勢の良い声を上げた。

「これは忙しいところに来てしもうたな、お君」

 笑いを含んだ声だった。

「あら、高山様。とんだご無礼をしてしまいました。おいでなさいまし」

 入り口に背を向けていた女が振り返り、両手に盆を持ったまま照れ笑いをうかべ、いっそう威勢のよい声を上げた。

「健吾でなによりだ。庄吉を迎えに参ったのだが、まずは水を一杯飲ませてくれ」

 あの日、花嫁御料は柳眉という名が似つかわしい流麗な眉をしていた。それをあっさり剃り落とし、今はのっぺりとした印象を受ける。屈託のない言葉をつむぎだす口がはにかみ、鉄漿をさした歯がこぼれてた。お君は、まだ所帯をもってひと月ほどの初々しい若妻だ。仲人(なからびと)として、お君とともにおツネという耳の悪い娘の祝言を見届けたのが高山で、その時以来の顔合わせだった。

 引き眉や鉄漿さしにも馴染んでしまったのか、それを恥ずかしがる素振りはまったくない。客商売ゆえだろうか、辰砂に染められた木綿の着物で、店の中に桃の花が咲いているようである。色違いの端切れを寄せて作った前掛けが、よけいに華やかさを引き立てていた。

 高山はまぶしそうにお君を見やり、店の中へ目を走らせた。が、待ち合わせの相手はまだ来ていないようだ。

「せっかくの非番なのに、申し訳ありません。庄さんなら裏で薪割りをしていますので、すぐに呼んでまいります」

 一度奥へ引っ込んだお君は、湯呑みになみなみと水を注いでくると、それを飯台に載せてほどなく若い男女を連れてきた。

「庄さん、高山様が来てくだすったよ。ありがたいねぇ」

 盗賊改め方同心、高山新十郎は、非番を利用して庄吉を小石川の養生所へ連れて行く約束をしていた。目を悪くした根付職人、庄吉の非凡な腕を惜しんでのことである。しかし、そこはそれ、神仏のような慈悲心からではなく、人足寄場で仕事を教えさせるためのことである。

「高山様、お心をくだいていただき、申し訳ございません」

 庄吉は、唐桟柄の着物に兵児帯であった。お君の亭主である、幼馴染の源太に借りたのだ。小間物の荷商いをしているだけあって、源太は小ざっぱりした着物を何枚か持っていた。対する庄吉は、着たきり雀の根付職人。見栄えのする服装で仕事ができるわけではないので、それで十分だったし、古着とはいえ、おいそれと手の届かないものだったのだ。せっかく養生所へ行くというのに、着古したなりでは高山様の面目がなかろうと、気を利かせて貸してくれたのだ。そして、足元の覚束ない庄吉を庇うように、おツネが寄り添っていた。

 この若夫婦の祝言を取り持ったのも高山である。というより、源太とお君、庄吉とおツネの二組は、高山の高砂に導かれて同じ日に祝言を挙げたのだった。

「なんの、儂とて下心あってのことだ、気にすることはない」

 下心からだとはっきり言ってのけるあたり、高山は嫌味のない男だ。飲み干した湯呑みをお君に示し、もう一杯催促するように扇であおぎ続けていた。

「待ってくれな、もう一杯飲まねば暑くてかなわん」

 あまりに暑そうなので、ポタポタ滴を垂らす柄杓をお君が持ってくると、中身をキュキューっと飲み干して大きく息をついた。

「いやぁ、旨いなぁ。やっぱり暑いときは水に限る。湯が良いなんて気取る奴の気がしれんて」

 さも満足したように笑ってみせた。

「あいにく冷や水がないので」

 お君がすまなそうな顔をした。冷や水売りのように錫の器でもあれば少しは冷たい水を飲んでもらえるのだが、そんな高価なものを買う余裕など『大瓢箪』にはない。

「かまわん、これが一番だ」

 ひょいと柄杓を掲げてみせ、お君にそれを返して立ち上がった。

「では参ろうか」

 高山が笠を手にすると、おツネが庄吉の先に立った。

「そのようなことをせずとも、儂が世話をするぞ」

「いえ、この上ご迷惑をおかけするなど、とんでもないことでございます」

 庄吉は、おツネの肘をたよりに足を踏み出した。


 養生所は、町医者にかかれない貧しい者で込み合っていた。怪我をした者、病の者など、患者の容態にあわせて診察する窓口が分かれていた。目を患って救いを求める者が少ないのが幸いし、念入りな診察を受けることができた。

「目が悪くなる前に、頭を打ったということはないか?」

 少壮、三十代半ばの落ち着きがある医師だった。帳面をめくっては何が書かれているか答えさせ、どの程度目に力が残っているか確かめながら問いかけをする。

「いえ、そのようなことはございません」

「では、高熱を発したということは?」

「それもございません」

「そうか。ではな、……」

 蝋燭の灯りをかざしたり指をかざしたりしてそれは丁寧に診察をしてくれ、そこではっきり、病からきたものではないと診断された。黒目の周囲が白く濁ることも、ソコヒの兆候もないと太鼓判を押された。要は、薄暗いところで細かなものを見続けたせいで弱ったのだろうということだ。そして、それならば道具で補うことができるということだった。しかし、その道具は異国からの渡来品で、高価だと付け加えた。

「ちと訊ねるが、その道具は今日持ち帰ることができようか?」

 医師には、高山の身分を伝えてあった。しかし、どういう理由で庄吉に肩入れするのかがわからず、医師は怪訝な表情をしている。

「高価なものですから、そう易々と求める者はおりませぬが、大丈夫ですかな?」

 養生所は元来、貧しい者の救済を目的として作られた医療施設である。生半可な金子では購えないようなものを立て替えたとして、はたして回収できるのかと用心を促しているのだ。

「御重役から内々に伝わっておると思うが、役儀上どうしても入り用でござる。持ち帰ることができようか?」

 代価については一切触れず、高山はあっさりと支払う意志を示した。

「左様ならばご用意いたしましょう」

「それがあれば己で歩け、仕事もできるのでござるな?」

「仕事、と申されると」

「この者、根付職人にござれば、細かいものが見えねば困る。また、己で出歩けぬようでも困る」

「それは無理ですな。どちらかを諦めてもらわねば」

「いや、それでは困る。どちらも諦めることはできぬ」

「……では、細かいものを見るためのもの、さらに、遠くを見るためのもの。その両方お持ちになるしかありませんが……」

 一つだけでも高価なものだからと、言い渋る医師に、高山はあっさりと肯いてみせた。



 辰の下刻には出かけたというのに、九つが過ぎ、八つになった。そろそろ申の刻、七つの鐘が鳴る時分だというのに、ねっから三人が帰らないことに、お君は心配でたまらなかった。何か重い病がみつかって帰れないのではないだろうかと、ありもしない取り越し苦労をする。チラチラと通りを窺う回数が増え、しだいに手が止まって父親から雷がおちる。その繰り返しだった。


「ありがとうございましたぁ」

 客がめくった暖簾のむこうに、笠を被った三人連れが橋にさしかかるのが見えた。一人は侍で、残る二人は藍染めと花色の着物。送り出したときの恰好だ。橋の頂点にきたとき、侍が男を前に押しやった。ついていこうとする女を引き止めると、まっすぐこちらを指差して、男の背中をドンと衝いた。一瞬立ち止まった男は、笠を押えるように肯き、お君の方へ歩いてくる。スタスタと確かな足取りである。

「お父っつぁん、庄さん帰ってきたよ」

 お君は客がいるのもかまわず、大声を張り上げていた。

「そうかぃ、長くかかったが、てぇしたことがねぇんなら結構なこった」

 調理場の中から呑気に応える声がした。

「なに呑気なこと言ってるのよ。庄さん、スタスタ歩いてるよ、見てごらんよ」

「スタスタだとぉ? どこだ、おい」

「ほら……」

 親方が出てきたときには、庄吉はもう店の間近にまで来ていた。


 通りをはさんだ向こう側で立ち止まった庄吉は、その場で深く頭を下げてみせた。そこから二人のことが見えているということが、それで伝わると思ったのだ。

「庄さん、俺のことが見えてんのかぃ? じゃあよ、俺を指差してみな。ずっとそうしてるんだぜ」

 親方が左に動けば左に、右に移動すれば右に、庄吉は親方をじっと指していた。

「見えてんだな? えっ、見えてんだな。庄さん、よかったなぁ……」

 あっちこっち移動しながら、いつも指先が自分を指しているのを確かめて、親方が声を震わせている。

「徳よ、すまぬが飯をたのむ。庄吉の奴、すっかり見えるようになったので()きってしもうて、いくら休もうと勧めても休まぬのだ。そのせいで中食を食いそこねてな、腹がへってかなわん。飯と汁だけでよい。あぁ、暑いから冷ゃ汁にしてくれ」

 その間に追いついた高山が苦笑まじりに言った。

「ええぃ、かしこまりやした。ですが高山様、生憎汁は出きっちめぇやしたので、急いで作りやす。ちぃとだけ待ってくだせぇやしよ」

 親指の付け根でしきりと洟を拭っていた親方が、精一杯の笑顔で答えた。

「徳よ、この暑いに、熱い汁は願い下げだ。残り物でよいのだが、ないのであれば

 待つしかないが、冷ますことはできぬか」

「でしたら、そうしやすが、余計に待っていただかねぇと」

「そうか……。ならば、捨松を訪ねてくる。じきに戻るでな、よく冷ましておいてくれよ」

 解きかけた笠紐を結び直すと、高山は来た道を戻っていった。


「じゃまするぜ」

 富田町界隈を取り仕切る御用聞きの捨松だ。小ざっぱりしたなりをしてはいるのだが、陰気くさい印象を与える男である。『大瓢箪』の亭主徳市が、濡れ衣を着せられて以来の付き合いだ。その濡れ衣を晴らしたのが高山で、目論みが失敗した腹いせに付け火をした男を捕らえたのが徳市だ。そして、欲得なく懸命に火を消そうとした徳市を目の当たりにし、焼け出された者にムスビを振舞っているのも捨松は自分の目でしっかりと見た。その男気、気風の良さに惚れて義兄弟のよしみを結んだのである。その捨松が、板を一枚抱えている。

「おう、すまなかったな」

 桟敷に上がりこんで遅い中食をとっていた高山が、軽く手招きをした。

「大瓢箪のぅ、俺にも飯と汁をくれねぇか」

 衝立で仕切られた隣に座を占めた捨松が、よく通る声で注文した。

「捨松、そんなところにおらず、こっちへ参れ」

「滅相もない。畏れ多くてそんなことできやせんや」

 真顔で大きく手を振って、捨松は頑なに座を移そうとはしない。

「富田町の、高山様はなぁ、真っ当にさえやってりゃ細かいことなど気になさらねぇんだ。そこいらのお町の旦那とはわけが違うんだい。さっ、遠慮しねぇでこっちへ来ねぇ」

 徳市は、山盛りにしたどんぶりと汁椀を勝手に高山のいる飯台に置いた。

「そうだぞ、捨松。其の方、徳市と義兄弟となったそうではないか、ならば遠慮は無用にせい。ときに徳市、筆と墨を貸してくれぬか。それと、そば粉でもかまわぬ、粉を一つまみたのむ」

 椀の底に残った汁を残らず飲み干した高山は、捨松から板を受け取った。

「いったい何をなさるんで?」

 徳市には何のための板なのか見当がつかなかった。高山はそれには答えず、板に明けられた穴に箸を通して持ち上げてみた。いくらかの傾きはあるが、遠目にはわからないほど板はまっすぐに立った。満足げにそれを確かめた高山は、飯台に置いた板に粉を摺りこみ始めた。

「ねえ高山様ぁ、いったい何をなさるおつもりなんです?」

「……まあ、見ておれ」

 丹念に粉を摺りこんだ板を手拭いで軽く拭うと、筆にたっぷりと墨を含ませた。

 太い文字が板を踊る。

「ねつけ」

 読み上げた徳市をチラッと窺った高山は、さっきより小さな文字を書いた。

「はね、きつね、どう……。何のこってす?」

「跳ねると書いて、チョウと読む。狐はコとも読む。だからこの場合、チョウコドウと読むのだ」

 一文字づつ筆で示しながら、高山が読み方を教える。

「ちょうこどう……」

 最後に高山は、庄吉と名を書いた。

『ねつけ、跳狐堂、庄吉』

 長屋の軒先を飾るには十分すぎる表札であった。

「庄吉、これを軒先に吊るしておけ」

 筆を置いた高山は、丹念に息を吹きかけて墨を乾かすと顔の正面に掲げて出来栄えをたしかめ、首だけ捻じ曲げて庄吉に見せた。

「……目を見えるように骨折ってくださったばかりか、そんな晴れがましいものまで……」

 庄吉が喜んだのはいうまでない。何を言えば良いのか思いつかず、ただ頭を下げるばかりだった。

「莫迦者。せっかく頂いた二つ名だ、胸を張らぬか」

 それっと庄吉の手に板を与える高山は、大真面目である。

「し、しかし……、もしその名を汚すことになったら……」

 しかし、喜んでばかりはいられない。自分なりに精一杯努めたつもりであっても、もし力足らずと判断されたらどうしよう。不安なことがふつふつと湧き上がってくる。

「案ずるな、そのときは刀の錆にしてくれるわ」

 ギロッと一睨みしてみせた高山が、愉快そうに声を上げて笑った。もちろん冗談だろう。が、庄吉は戯言として笑うどころか、ますます身を硬くして下を向くばかりだった。


「なあ、大瓢箪の……」

 捨松が小声で徳市の袖を引く。

「おい、前から気んなってたんだけどよぅ、俺にはニゴロってぇ……」

 なんだよとでも言いたげに徳市が顔をしかめた。何か言うたびに大瓢箪と冠されることが鬱陶しい様子である。すでに素ッ堅気のはずなのに、徳市は昔の名前をまだ引き摺っているのだろう、その名を口にしかけたとき、ピシリと捨松に先を塞がれた。

「知ってるよ、それっくらい。陰気臭いか知らねぇがよぅ、トーシローじゃねぇんだぜ。捨てちまえ、そんなもの。お前ぇは、大瓢箪の徳市でいいじゃねぇか。そうだろ?」

 顔つきとはまったく違う、思いやりのこもった声音だ。

「知ってたのか?」

「馬鹿野郎、明きメクラじゃねぇんだぞ。んなことより、あいつ根付職人なのかい?」

 ずっと立ったままの庄吉に顎をしゃくる。

「富田町の。お前ぇなぁ、ジーンとくることを言うときくれぇ、眉の間にたて筋入れんのやめろよ。目尻のひとつも下げてみな、陰気くせぇのがちっとでも……。まぁいいか、言うだけ無駄ってもんだな。お前ぇ、高山様のお腰見たことねぇか? 印籠に付けてなさる根付をこさえたのが庄さんでぇ」

「えっ、あの根付、あいつがこさえたのか? お前ぇんとこに、そんな奴が出入りしてたとはなあ」

 捨松の視線が庄吉に据えられた。おどおどと自信なさげに突っ立つ姿からは想像できないとみえ、しきりと首を捻っていた。

「出入り? けっ、庄さんはなぁ、俺の倅みてぇなもんだ」

「倅みてぇ? どういうこったい」

「いや、まあ、そりゃあな……」

 自慢げに胸を張った徳市だったが、その理由を糺されると急に口が重くなった。

「徳市はな、友の娘を育てあげ、所帯をもたせたばかりだ。同時に、暮らしに窮していた母娘の面倒もみてきてな、その娘にも所帯をもたせた。その相手が庄吉なのだ」

 高山が後を引き継いだ。

「だけど、父親代わりってことならわかりやすが、倅みてぇなものというのがどうも。奥歯にものが引っ掛ったようですぜ」

「その母親とできたのであろう。ずっと独り身を通したのだぞ。そこまでにしてやれ」

 不意に小声になった。当の娘が目の前にいるのだから、明け透けに言うことは憚られる。

「なぁるほど、それ以上詮索すると野暮ってことでやすね。だけどお前ぇ、所帯をもつって考えなかったのかぃ?」

 捨松は忙しく首をくるくる動かした。高山が洩らした一言でおおよそのことを察したのを受け、徳市にも声をひそめたまま訊ねたのだ。

「徳市という男は、それくらい義理堅い男だ」

「へぇーぇ、こいつはたまげたねぇ」

 高山が手放しで徳市を褒める理由を知った捨松は、あちこちから徳市を眺めては首を傾げていたが、やがてニヤッとして徳市に向き直った。

「気に入った。あぁ、気に入ったよ。お前ぇが昔したこたぁ知ってらぁ。けどな、今でも続けていることも知ってる。できるこっちゃねぇぜ、えぇ、大瓢箪の」

「まあ、せいぜい仲良くするがよい。さて、腹もふくれたことだし、そろそろ帰るとしよう」

 ひとわたり用をすませた高山は、これまた律儀に二十文ほどを飯台に並べて土間に立った。



 その高山の姿が見えなくなったとたんに徳市が怒鳴り声をあげた。恐ろしい形相で自分に怒りがぶつけられるのに、庄吉は戸惑っていた。高山が帰るときに庄吉が言った、「三日のうちにまいります」というのが気に入らないのだ。そのどこが気に入らないのかわからないが、徳市の怒りが尋常ではないことくらいの察しはついた。


「やい、庄吉。手前ぇ、あれだけお世話になった高山様になんてこと言いやがるんでぇ。非番をつぶしてだぞ、一生かかっても手に入ぇらねぇもの頂いてだぞ、それであれかぃ。必ず明日参ぇりやすって、どうして言えねぇんだ」

 高山が帰りがけ、たしかに庄吉は三日のうちにという言い方をした。というのも、このところ道具の手入れをしていなかったので、砥ぐのに時間がかかると思ったからだ。

「まあまあ大瓢箪のぅ、そんなに声を荒げなくても。だけど庄吉、大瓢箪の言うことは決して間違っちゃいねぇぜ。どうしてあんなこと言ったんだい?」

 唸り上げる徳市とは対照的に、庄吉は黙って俯いているしかなかった。このままでは庄吉が萎縮してしまうとふんで、捨松が割って入ってくれたのだ。

「じつは……、このところ道具の手入れをしていなかったんで、砥ぎ直しが……」

 蚊の鳴くような声であった。

「砥ぎ直しだとぉ。んなもん、チャッチャとやりゃあじきにすむだろうが」

 つまらない言い訳と決めつけて、徳市がなおも怒鳴る。今は何を言ったところで取り合ってはくれないだろうと思うと、庄吉はいっそう俯くしかできない。

「大瓢箪の、菜切りと出刃さえありゃ仕事になるのとはわけが違うぜ。俺のノミだって十や二十はあるんだ。カンナだって十じゃきかねぇ。砥ぎ直すとなりゃ、手間ぁ喰うんだぞ。お前ぇ、ノミはどれくらい使うんだ?」

 いきり立つ徳市を捨松が宥めた。捨松にしてみれば、指物師である自分はそこいらの大工より念の入った仕事をしているという自負がある。当然ながら大工が持つような荒っぽい道具では仕事にならないのだ。細かい作業をするには、道具の種類も数も、素人にはわからないことも知っていた。

「どうかすれば四十ほど使います。それに、細工用の彫刻刀が二十ほど」

 すさまじい数である。もちろん通常用いるのはそう多くはないだろうが、磨ぎ直すとなれば簡単なことではないだろう。

「そりゃあ大ごとだなぁ、そういうことなら無理ねぇか」

 さすがの捨松もその数には驚いた。手の中に納まるほどの大きさのものを作るのだから、鎚打つような荒っぽい使い方ではないだろう。となれば、すべて手ノミ。恐ろしいほどの切れ味が必要なのだろう。完全に砥ぎ上げるには丸一日以上かかってしまうかもしれない。指物師であるだけに、捨松は唸らざるをえなかった。

「何言ってやがんでぇ。そんならボーッとしてねぇで、早く砥がねぇか。ここまでやりましたが、これで精一杯でしたってんなら筋も通るが、なにが三日のうちにだ。さっさと帰ぇって砥ぎやがれ、莫迦野郎」

 徳市の言い分ももっともだ。善い悪いはともかく、努力したことをはっきり示して、相手の理解を待つべきだろうと捨松も思う。


「すみません、親方。私がきっちり用意させます。だから、どうか勘弁してください」

 じっと俯いていたおツネが、キッとした目で徳市を見据えた。

「おツネちゃんの出る幕じゃねぇや、すっこんでてもらおうか」

 女が相手だからといって徳市の機嫌が治まることはない。頑固親父そのものである。

「このひと、自信のないことには臆病なんです。だけど、明日の朝まで待ってください。きっと用意させますから」

 庄吉は、おツネに追い立てるようにして長屋へ帰ったのだった。


「砥ぐんだよ。夜っぴて砥ぐんだよ」

 鼻水を啜り上げながらは道具の入った袋を持ち出してきた。それを土間に置いて帯を解いた。手早くいつものに着替えたおツネは、庄吉の着物も脱がせる。夏なのだから下帯だけでも風邪をひくことはないだろう。そして、家にある燭台をありったけかき集めてきた。

「さあ、言われっ放しじゃ悔しいからさ、砥いどくれ」

 おツネの気迫に負けて、庄吉は砥ぎにかかった。


 もう何時だろう。木戸番が夜回りする拍子木を聴いたような気もするが、庄吉の意識はしだいに朧になっていた。

 シャリシャリシャリシャリ……

 機巧(からくり)人形のように次々に砥ぐばかり。時折休んでは棒になった腕を休めて、おもいだしたようにシャリシャリシャリシャリ……

 ふと見ればおツネがうたた寝をしていたり、ときには肩をゆすられて居眠りから覚めたりしながら一夜が明けた。まだ手をつけていないものがずいぶんあるのが気懸かりだが、ここまでやったのだと開き直る気持ちも芽生えていた。

 柱に寄りかかってうたた寝をしているおツネを揺り起こし、庄吉は仕上がったノミを見せるのだった。



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