第156話『前日の夜』
「眠れないのか?」
出発を明日に控え、体力を全快にしておくことにした夜。セリナは緑の本を読んでいた。
エルンストのいびきが聞こえる中、声をかけてきたのはリオナルドだ。
「個人的に記録に残しておこうと思っただけです」
セリナの座る机の上には、研究で使った四冊の本が広がって置いてある。
そして、セリナが幼少期からずっと使い続けている、セリナにしかわからない言葉で書かれている日記。
「そうか……」
「リオナルド様は? 眠れませんか?」
「いや……セリナがいないことに気づいたから、少し心配で」
「ご心配をおかけしました」
セリナがにこりと笑うと、リオナルドは少し困ったように笑う。
セリナの目の前に座り、ふぅ、と小さく息を吐くと、リオナルドはまっすぐにセリナの瞳を見た。
「聞きたいことがあるんだ」
リオナルドの真剣な目を見て、筆ペンを持つ手を止め、置く。
そして姿勢を正してリオナルドに向き合った。
「なんでしょう?」
「セリナが前に言ったことが気になって……『魔王』は孤独な元人間で、魔物になったため『勇者』一行に倒された、と」
少し目を伏せる。
あぁ、そうだった。あれはノエルが死んだとき、心底この世界が滅んでしまえばいいと思った時に言ってしまったのだった。
「アルネスも知らなそうだった。私も少し調べたが、この世界図書館にもその記述は見当たらなかった。なぜセリナは知っているんだ?」
あの偽管理人はそのことも隠しているのかと、心の中で呆れてしまった。
「セリナ……」
「そうですね。わかりました。お教えします」
昔のセリナだったらごまかしていただろう。だが、リオナルドにその必要はない。
セリナは時空の倉から一つの物を取り出し、机の上に置いた。
黒い装丁だとかろうじてわかるほどボロボロで、ところどころが破れている古い本。それを一ページずつ丁寧に魔法でコーティングして、決してなくならないように加工したもの。
セリナが追放された時に、いや、ずっと持ち歩いていたものだ。
「それは?」
「これはかつて『教育』されていたときに渡されたものです。誰も読むことができない、一見なんの法則もなく並べられた昔の言葉の羅列……私の幼少期を支えてくれた好奇心をくすぐった物」
幼少期から行われていた過酷な『教育』。それが終わりを迎える毎日の夜。一人になった時に解くパズルのような存在だった。『教育係』に次々に詰めこまれる知識が役に立ち、読めた時は嬉しかった。その思いはまるで昨日のことのように蘇る。
「これは……初代『聖女』クラリス・バレインシアの日記です」
「なっ……!」
これくらい読めるようになりなさい、などと『教育係』が渡してきた物。読めないと踏んでいたのか、これの価値を知らなかったのかはわからないが、おかげでセリナは魔力について学ぶこともできた。
セリナだけが使える『血変』も、ここに記されていたものだ。
「初代『聖女』の幼少期から始まり『勇者』一行として旅に出て、『中央国』を作り、その子孫を残した……そこまで書かれています。その子孫が『中央国』の王族として君臨し、その血を絶やさないよう王族内で婚姻を重ねたことも」
「……えっ……!?」
『聖女』は必ず『中央国』で産まれる。だが、それは王族とは限らず、庶民からも生まれることもある。過去の歴史において、王族の血が褒賞として庶民に下賜されたことがあり、その血脈を受け継いだ結果、ただの庶民であるセリナたちの親が『聖女』を生んだ。
そして『聖女』を生んだ褒賞として、親は貴族に取り立てられたのだ。
つまり、『勇者』と『聖女』の血が混ざっていれば『聖女』になれる。ただ、強大な魔力を持っているかどうか、それだけの違いだ。
この理屈で言えば、流れ流れて他の国でも現れそうだと思った。だがそこは腐った『中央国』が長い歴史の中で意図的に阻止していた。
『聖女』システムからわかる通り、容赦など持ち合わせていないのだから。
それをここに来てようやく理解した。
そして、その都合の良い血の調整のせいで、前の『聖女』が死んでからセリナが生まれるまでの間に、あの恐ろしい空白期間が生まれたのだとしたら?
エルンストが親友を失った、絶望の雪山。
あの戦闘狂の老人が狂喜した、血と叫び声に溢れた世界。
アルネスが本当の自分に気づかずにいた、血まみれの戦場。
それら全てが、『中央国』が『聖女』システムを私物化した結果、生み出された悲劇だったのだ。
もし、もしも、どの国でも『聖女』たりうる魔力量を持ち合わせる人間が生まれる世界だったなら……そんな空白の時間など存在しなかった……
それが、セリナの故郷『中央国』だ。
「全て仕組まれていたんです」
そっと日記の表紙をなぞる……
「日記なので、ほとんどは初代『聖女』の気持ちが書かれた他愛のないものですが……」
「それでセリナだけが知っていたのか……」
大きなため息をつくリオナルド。それを見てセリナは落ち着くのを待った。
ここに来て膨大な情報量が入ってきている。飲み込むのにも時間がかかるだろう。
孤独だった『魔王』がなぜ魔物化したのか。
もし当時の人間たちが、いや『魔王』が神力を使っていたのなら、なぜ魔物になるために必要な、瘴気だけを大量に取り込むことになったのか。
それはセリナにもわからない。だから、セリナは進むのだ。
「今の私は……やはり『中央国』を許せそうにありません。魔法陣も『聖女』も、壊せるのならやれることは全てやるつもりです」
そう、セリナの敵は魔法陣内部だ。
『クラリス』が置いていったタバコ。そこからできた液体は瓶一つ分だけ。
この外部に来たら材料はあるが、毎回危険を冒してくるわけにはいかない。内部で代用できるものを探して、威力が低くなろうとも作るほうが良いだろう。だから、先ほど開いていた緑の本で内部でも見つかる、似た成分を持つものを探していた。そして、そのための日記への記録だ。
セリナは瓶に入った緑色の液体を見た。
神力を使いこなして、精霊を集めて……そして……
「頼りにしています。リオナルド様」
「……わかってはいたけど、壮大な旅だな」
苦笑するリオナルドがなんだか面白くて、セリナはクスクスと笑った。
『東国』の騎士として、代表として、旅を続けなければならない。そんな思惑以上に、リオナルドが仲間を大切に思っていることをセリナはもう知っている。
その気持ちを深く考えると、少し泣きそうになるのはなぜ?
「手伝うよ。明日からまた新しい旅だ」
「ありがとうございます」
初代『聖女』の日記をしまったセリナは、再び筆ペンを手に取ったのだった。
『お久しぶりね、天使像』
『なっ……!』
『貴方様は……!』
世界図書館の門番である左右の扉に配置された天使が、目の前に突如現れた『クラリス』を見て驚愕の声をあげる。
タバコを口にくわえたまま煙を吐き出した『クラリス』は、その様子を見てクスクスと笑った。
『本を読みに来られたのですか?』
『いいえ。観察も兼ねた暇つぶしと、タバコの材料を取りに、ね』
くるりと天使に背を向けて、一つの木を見る『クラリス』の瞳には、タバコの材料である葉が映っていた。
『普段から嗜んでおられるのですか?』
『そんな馬鹿な。キャラ作りは大切でしょ? だって、今の私は『クラリス』だから。そっくりでしょ? 作ったレシピ通りに真似ているんだから』
『……はは、そんな。別にその必要はないでしょう?』
『クラリス』が再び天使のほうを向く。
――!?――
黒かった瞳が赤く染まり、闇夜の中怪しく光る。
その存在が天使たちにゆっくりと近づいてきた。タバコを咥えた口は、今宵の月にも負けないくらいの美しいカーブを描いている。
『面白くないことを言うな。存在を消すぞ』
その声は『クラリス』のものではなかった。
男とも女とも子供とも老人とも言える、ひどく耳に引っかかる声。
タバコの先が右の天使の頬に当たり、ジジ……と音が鳴る。天使に痛みはないはずなのに、目を思い切り閉じる姿は恐怖に染まっている証拠だ。
『冗談でも……その言葉はおやめください……! 本当にそれができる貴方様が……!』
左の天使がそう言うと『クラリス』は天使から顔を離し、灰だけがそこに残った。
思い切り吸って吐き出した煙が空気に混ざってなくなった頃には、もう元の黒い瞳に戻っている。
『ははは、安心してよ。この世界は面白いし。じゃなきゃここにいないって』
『クラリス』は回る。まるでダンスを踊っているかのように軽やかに、実に楽しそうに。
『自分たちで狂わせて、自分たちで修復しようとする世界。全然飽きないし、なんならついつい手を貸してしまうんだ。そうしたらどうなるのかな? ってさ』
『……では、しばらく居られるおつもりで?』
『んーん。もう去るよ。いつまでもいたら世界観が崩壊してつまらないものになってしまうからね。そう思うでしょ?』
『クラリス』は歩く。
『ねぇ、聞こえてる? あなたに言っているよ? 今これを見ている、目の前にいるあなた』
『お戯れはおやめください! なにとぞ!』
天使の叫び声に『クラリス』はちぇ、と口を尖らせた。
『じゃあ帰ろうかな。また楽しく見させてもらうとするよ』
『はい……貴方様に幸運があらんことを……』
『ねぇ、ちゃんと呼んでよ。せっかくこの世界の者がつけてくれた名前があるんだからさ』
天使たちは顔を見合わす。
そして、少しずつ消えゆく『クラリス』に向かって、同時に目を伏せ頭を下げた。
『ご多幸をお祈り申し上げます、我らが『精霊王』様』




