5
車で向かった先は、リーラの事務所だった。
時間は既に深夜といってもいい時間だが、事務所には明かりが点っていた。ドアの鍵も開いたままだ。
連れ立って中に入ると、エントランスには開業祝いの花々が未だ並べられていた。
その中で一つ──前にここに来たときにはまだつぼみだった牡丹の花が、今は大輪の花を開かせていた。その中心には、黄色の花粉をつけた花芯が見えている。
白い花びらにほんのり朱が差した、リーラ自身を思わせる美しい花であるが、もう旬を過ぎたのか枯れ始めている。
奥へと進むと、オフィスの自身の机に彼女は座っていた。両肘をついて、うなだれているようにも見える。近づく足音に彼女は顔を上げた。
「ジゼル……ローレンスも」
二人を見てリーラは立ち上がった。一月会わなかっただけなのに、ひどくやつれて見える。
「クレイグは? 彼はどうなったの?」
「大丈夫、生きてる」
そう答えると、彼女は緊張の糸が切れたのか、崩れるように椅子に座り込んだ。
「そう……」
嘆息するリーラに、ジゼルは内ポケットから一枚の紙を取り出して見せた。
「アベル・シートン殺害の容疑で、リーラ・ウェルシュ──あなたを逮捕します」
逮捕状を見せても、彼女はなんら驚きを見せなかった。むしろ安心したように微笑んでいる。
「クレイグがアベルに脅迫されていたことを、君は知っていたんだな」
ローレンスの言葉に、リーラはうなずいた。
「様子がおかしくなって、最初は浮気でもしてるのかと思ったわ。でも……違った。彼がアベルと電話しているのを聞いて、脅されてると気付いたの」
リーラは自分の罪を認めるつもりのようだ。ジゼルに電話したときから、きっと覚悟を決めていたのだろう。
「クレイグの苦しみを少しでも和らげてあげたかった。だからあの日、私は公衆電話からアベルに電話した。都合が悪くなったクレイグに代わって、私が金の受け渡しをするといって、バーデ橋に呼び出したの」
アンティック通りの監視カメラの映像に、彼女が電話ボックスに入る姿がしっかりと映っていたことは、既に確認済みである。
「最初から殺すつもりだったのか?」
「いえ……ナイフはあくまで護身用だったのよ。あいつが黙って金を受け取って消えてくれれば取り出すこともなかったのに……あいつ、金を渡した後、さらに私と関係を持つよう迫ってきたのよ」
アベルがそんなことを……ジゼルは口惜しくなって顔を背けた。
「高校時代に私があいつをフッたこと、根に持ってたみたい。ふざけんなって……一生私たちを脅して生きてくつもりなんだって……そう思ったら、あいつの背中にナイフ刺してた」
リーラは凄絶な笑みを浮かべていた。クレイグを一途に愛するが故の狂気だったのだろう。
「ところでジゼル、物証はちゃんとあるの? 自白だけでは万が一、私が裁判で否認したときに不利になるわよ」
この期に及んで、弁護士らしい心配をしてくれる。ジゼルは答えた。
「アベルのコートから牡丹の花粉が検出された。マドリガルでは珍しい品種だって……ここのエントランスにある牡丹と、DNA鑑定すれば同じ花だってわかるだろ。牡丹の開花期間は約十日」
「事件が十日前。そうね、あの日事務所を出る前に、ちょうど咲いたあの花の鉢を動かしたわ」
花粉はアベルのコートの背中側から検出されたそうだ。おそらくはリーラのコートに付着した花粉が、アベルを刺した瞬間に彼のコートにも付着してしまったのだろう。
「あの花ね、クレイグがくれたものなの。牡丹は私の誕生花なんだって。珍しい品種をわざわざ外国から取り寄せてくれたのよ。優しくて、カッコよくて……私の自慢の恋人だった」
リーラが殺人現場から逃げ出したのは、自分のためではなくクレイグのためだったのだろう。だが彼を救いたい一心で犯行に及んだことが、結果的に彼を追い詰めることになってしまった。
「彼があなたのことを好きでもよかったのよ。あなたは絶対に振り向かない、そうわかってたから。彼もそれをわかってたはず。たとえ結婚が本意じゃなくても、いつかきっと、私だけを見てくれる日が来るって信じてた。でも……もう終わりね。私は人を殺してしまった」
リーラにかける言葉がなかなか見つからない。黙りこくるジゼルの代わりに、ローレンスが答えた。
「決して終わりではない。裁きを受け、罪を償えば、君の人生をもう一度やり直すこともできる。君の場合、計画性もないし、情状酌量の余地もある。クレイグも同じだ」
「……そうね。いつも顧客に言ってること、自分が言われると改めて身に沁みるわ。ありがとう、ローレンス」
リーラは恥ずかしそうに笑い、それから立ち上がった。ジゼルの前に立ち、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる。
「さあ、行きましょう」
そう言って彼女は両手を差し出した。手錠をかけろという意味だ。
だがジゼルは動けなかった。どうしても彼女に──大切な友達に手錠をかけることなどできないのだ。高校時代からの彼女との様々な思い出が頭をよぎって、この手が動かない。
見かねたのか、遥か後方で待機していたジャックとユージンがやってきて、ジゼルの代わりにリーラに手錠をかけた。
「ジゼル……あなたは絶対に幸せになってね。私とクレイグの分まで……」
リーラは最後にそう言い残して、ユージンに連行されオフィスを出て行った。
静かな廊下に響く靴音が、徐々に遠ざかっていく──ジゼルは搾り出すようにつぶやいた。
「なんだよ……二人して……あたしの幸せばかり願いやがって……自分たちの幸せはどうでもいいのかよ……」
まぶたがひどく熱い。鼻の奥がつんとしてきて、歯を食いしばってこみ上げてくる何かを必死にこらえた。
「ジゼル」
「な、なんだよ!」
突然ローレンスに呼びかけられて、ジゼルは腹立ち紛れに振り返った。
「高校時代、君に教えてもらえなかったことがあったのを思い出した」
いきなり何を言い出すのか……場違いにも程がある。だがローレンスは至極真面目だ。
「目の前に今にも泣き出しそうな女性がいた場合──僕はどのような言葉をかけるのがベストだろうか」
彼の意図がわかるようなわからないような、何て返せばいいのかまったく答えに困る質問だ。辟易して、ジゼルは顔を背けて投げやりに言った。
「……知るかよ! もう大人なんだから自分で考えろ!」
「……ふむ」
ローレンスは腕組みをして、うつむき加減でしばらく思案に耽った。
どんな言葉をかけてくるのか気になるが、この男のことだ。ロクなことを言うはずがない。聞く価値もないだろう──そう思いながらため息をつくと、ローレンスが顔を上げた。
そしておもむろに、両腕を大きく開く。
「……何?」
いぶかしげに聞くと、ローレンスはこれまた大真面目に答えた。
「いい言葉が思いつかなかった」
「……で?」
「言葉がないのなら、行動で表そうかと」
何をバカなことを……いや、こういう奇妙な動きをすることで慰めてるつもりなのだろうか。
「……へっ?」
急に背中に長い腕が回り、彼の胸に抱き寄せられる。
そこでやっと、ローレンスの意図するところが理解できた。
「お、おいっ! 離せっ!」
焦ってジタバタと暴れてみるが、強固に組まれた彼の腕は簡単には解けなかった。
コート越しでも、彼の胸から伝わる体温があたたかい。
ふと動きを止めた瞬間にそれを感じてしまうと──心の中で堰き止めていたはずの何かが急にあふれ出て、自分の力ではもう止められなくなっていた。
ローレンスは何も言わなかった。言葉が思いつかなかったというのは本当らしい。
でも、この方がよかったのかもしれない。もう……限界だった。
瞳からあふれる涙をローレンスのコートに押し付けて、ジゼルは静かに嗚咽した。




