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ブライス校に入学してすぐのガイダンスが終わり、教室を出ようとしたクレイグは前の学生がペンを落としたことに気付いた。
「ペン、落としたよ」
床に落ちたシャープペンを拾い上げて渡そうとすると、思いがけず非難めいた視線が返ってきて、クレイグは思わず辟易してしまった。
持ち主であろうその女子生徒は、美しい顔立ちながらどこか垢抜けなく、このブライス校に入ってきた他の女子とは一線を画す雰囲気を持っている。
凛としていながら、威嚇するような刺々しさを持ってこちらを見つめる彼女の立ち姿は、一輪のバラの花を思わせた。
「……ありがと」
ペンを渡すと、彼女はぶっきらぼうに言った。敵じゃないとわかったからか、剣呑な視線は和らぎ、ホッとした表情を浮かべていた。張り詰めていたものが一瞬切れ、彼女本来の優しさみたいなものが垣間見える表情だ。
先を急ごうとする彼女を引き止めるように、クレイグは声をかけた。
「あ、あの……僕はクレイグ・セヴァリー。君は?」
「……ジゼル。ジゼル・ワイアット」
彼女は黒髪を翻して立ち去ってしまった。その身のこなしはまるで妖精のように軽やかで、クレイグはボーっとその背中を見つめていた。
それからしばらく、ジゼルと話す機会は訪れなかった。
明らかに異質で周囲から浮いている彼女に、単身で近づけばそれだけで好奇の的にされそうで、それを振り切るだけの勇気がもてなかったのだ。
彼女も相変わらず刺々しく、周り全部が敵みたいな目で人を見るのでなおさらだった。
クレイグが悶々とした日々を送るうち、あの事件が起きた。ジゼルが窃盗犯の汚名を着せられそうになった、あの事件だ。
彼女の家が貧しいということはクレイグも知っていた。だが彼女がそんなことをするとはとても思えない。
ジゼルを助けたいが、証拠も手立てもない。彼女たちの口論を拳を強く握り締めて見つめるだけのクレイグに代わり声を上げたのが、あのローレンスだった。
ローレンスはジゼルとは逆の意味で異質だった。
王子であり、天才である彼に対する周囲の反応は大きく二分、取り巻きになるか、扱いに困って近づけないか、そのどちらかであった。
クレイグは前者になりたい後者だった。
だがローレンスは取り巻きたちと仲良くしているようにも見えなかった。取り巻きを引き連れながらも彼らと話すことはなく、常に無表情で冷酷にすら見えたローレンスに、クレイグは変わり者という以上に不気味なものを感じていた。
だからこそ、ローレンスがジゼルを助けるような発言をしたとき、クレイグは心底驚いた。
他人には全く興味がなさそうだった彼が、よりによってあのジゼルを助けたのだから。
そしてジゼルとローレンスは、それをきっかけに仲良くなっていた。
仲がいいどころか、ジゼルがローレンスを怒鳴りつけている姿を見て仰天したのは、クレイグだけに限ったことではないだろう。
だがその様子は、完璧人間だと思っていたローレンスも敵意の塊みたいだったジゼルも、二人とも自分たちと同い年の少年少女なのだということを周囲に強く知らしめたようだ。
クレイグは臆病だった自分を恥じ、意を決して二人に近づいた。
身構えていたのがバカらしくなるほど、二人ともごくごく自然にクレイグを受け入れ、まるで長年の友人であったかのように振舞ってくれた。
そのうちにリーラがやってきて、彼女はジゼルの親友となった。
貧しいが故に周りにバカにされないようにと気を張っていたジゼルも、リーラという親友を得て、その頃にはずい分と笑えるようになっていた。
ローレンスと一緒にいるときのジゼルは、悪態をつきながらも本当に楽しそうだった。
ジゼル自身は、ローレンスに対して恋愛感情など一切持っていないと断言していたが──クレイグはそれはジゼルのウソなのだと直感している。ローレンスを想うが故に、彼の立場に配慮したウソなのだと。
だからこそ、ローレンスにはジゼルを大事にしてほしかった。
王子という重要な立場にあっても、彼女のけなげな想いには応えてあげてほしかった。
たとえそれが無理だとしても、彼女が高校生活をかけてローレンスにしてやったことを思えば、彼女の将来を保障するぐらいのことはできるはずだ。
それなのに。
卒業式まであと数ヶ月となり、皆に大学合格の報がちらほらと舞い込み始めた頃。
「ジゼル!」
クレイグは息せき切ってジゼルを呼び止めた。
「大学行くのやめたって……本当か?」
「ホントだよ。もう首都警察の採用試験に合格してるんだ」
彼女は何の気なしに笑って言った。
さっき小耳に挟んだときには、とても信じられなかったが……クレイグは驚くよりも、とにかくその理由をただしたかった。
「そんな……だって、君レイクシャー大学に合格してたじゃないか」
「父さんが倒れたんだ」
ジゼルの言葉に、クレイグは息を呑んだ。
「今までは家で何とかなってたけど、今度ばかりは入院しなきゃなんだ」
ジゼルの父親が病弱で、自宅で療養しているというのは知っていた。その病状が急激に悪化し、自宅での療養はもはや限界ということなのだろう。
「でも、奨学金だってあるし、学費に困ることはないだろ?」
「学費だけの問題じゃないんだ。これからは生活費のほかに入院費も稼がなきゃだし、アルバイトだけじゃ賄いきれないんだよ」
「でも……」
「いいんだよ。警察官になれば、警察病院に優先的に入れるしさ、そのほうが都合がいいんだ」
そう言って笑うジゼルがどこか痛々しく見えて、クレイグは胸がつぶれる思いがした。
彼女ほど学ぶ意欲にあふれた生徒は他にはいない。
誰よりも働き、誰よりも勉強している彼女のような人間こそ大学に行くべきなのだ。それが叶わないこの世の不条理に、クレイグは人知れず悔しさを滲ませた。
「ローレンスはなんて言ってた?」
クレイグが聞くと、ジゼルは途端に不機嫌になった。
「なんでそこであいつの名前が出てくるわけ? 別に何も。『そうか』って」
「それだけ?」
「それだけ。あいつはあいつ、あたしはあたし。関係ないよ」
クレイグはそれ以上何も言えなかった。
卒業式の一週間前に行われるプロム。
高校生活最大のイベントともいえるこの生徒主催のダンスパーティーにも、ジゼルは参加できなくなった。
参加費や華やかなドレスを買うために貯金していたお金でさえも、父親の入院費に充てなければならなくなったのだ。
それでもローレンスは何も言わなかった。
プロムは男女がペアを組んで参加する。ガラスの靴を持ってシンデレラを迎えに行った王子様のような劇的な展開をクレイグもリーラも期待したのだが、現実の王子様はひどく冷淡なものだった。
「ローレンスがあそこまで薄情だとは思わなかったわ」
リーラは吐き出すようにつぶやいた。
「とっとと他の女をパートナーに決めちゃって……完全にジゼルのことは無視するつもりね」
遠目にローレンスを睨みつけるリーラの横で、ジゼルは苦笑いを浮かべるのみだ。
業を煮やしたのか、リーラはジゼルの両肩をつかんで揺さぶった。
「ねえジゼル、私のパパに頼んでお金出してもらうから、一緒にプロム出ましょうよ」
「僕も手伝うよ」
クレイグも追随した。二人でお金を出し合えば、参加費もドレスも揃えられるはずだ。だがジゼルは笑顔のまま首を横に振った。
「遠慮しとくよ。友達に恵んでもらうほど落ちぶれちゃいないさ」
「そんなこといって……プロムよ? これに出ないで、何のために高校に通ってたのよ?」
多少大げさだが、女子にとってプロムはそのくらいの価値があるものらしい。
「いいんだ。自分が決めたことだからさ」
「……やっぱりローレンスに文句言ってくる!」
腹の虫が収まらないのか、リーラは背を向けた。だがその肩をジゼルはつかんで引き止めた。
「あいつからの援助だけは絶対に受けたくないんだ。あいつだってきっとわかってる」
ジゼルの真剣な瞳に、クレイグは心臓をつかまれたような気がした。
実は──ジゼルがプロムに出られなくなったと知ってすぐに、クレイグは密かにローレンスに直談判しに行ったのだ。
『ジゼルを助けてやってくれ』
進学の道を断たれ、高校最後のイベントでさえも断念せざるを得なくなったジゼルが不憫でならなかった。
こんなときこそ、ローレンスがその力をもって彼女に手を差し伸べるときなのだと、クレイグは考えたのだ。
だがローレンスの答えはNOだった。彼はすました顔で言い放った。
『もちろん、プロムの参加費用もドレスも、彼女が大学へ通うための学費も、父親の入院費でさえも、僕個人の資産から出すことはできる。だが──たとえ僕が全てを用意して彼女に差し出したとしても、彼女は絶対に受け取らないだろうな。すべては彼女自身が納得して決めたことだ。それをどうして僕が口を出すことがある?』
『けどそれはジゼルが言い出しにくいだけで、本当は……』
クレイグが言いかけると、ローレンスの鋭い視線が突き刺さった。
『──君に彼女の何がわかるというんだ』
落ち着きながらも、感情の滲んだ低い声。
同時にそれは、ローレンスの自信の裏返しのようにクレイグには聞こえた。自分にはジゼルの気持ちがわかる、と。
ジゼルとローレンス──何もかもが正反対の二人は、友情と信頼という強い絆で結ばれている。いがみ合い、ケンカしながらも、二人は言葉で表す以上にお互いを深く理解しているのだ。
遠くローレンスを見つめるジゼルの横顔は、境遇とは裏腹に強さに満ちている。何故そこまでローレンスを信じ、理解できるのだろうか。
やりきれない気持ちを抱えたまま、クレイグたちの高校生活に終わりを告げる日は無情にもやってきた。
卒業式。
会場となった記念講堂には、卒業生とその家族が集まっていた。いつもの年なら、名門校を無事卒業できたという喜びで和気藹々とした雰囲気なのだが。
この年は卒業生の中にローレンス王子がいたため、彼の卒業式の様子を取材しようとおびただしい数のマスコミが殺到しただけでなく、彼の両親──つまりは国王夫妻が警護を伴って臨席していたものだから、辺りはこれまでにない異様な雰囲気に包まれていた。
そんな中でも式はつつがなく進み、角帽と黒いマントに身を包んだ卒業生は一人ずつ壇上に上がり、校長から卒業証書と記念品の指輪を受け取った。
クレイグが受け取って客席を振り返ると、父は遠目にもわかるニコニコした笑顔でこちらに手を振ってくれた。一代で会社を興した苦労人の父は、クレイグがローレンス王子の友人になれたことが自慢の種らしい。
そして最後、首席であり卒業生総代を務めるローレンスが壇上に上がったときには、客席中からカメラのフラッシュが一斉に焚かれた。
満場の拍手に応えながら、ローレンスはマイクの前に立ち、卒業生を代表しての挨拶を行った。
クレイグは、横にいたリーラの、その向こうにいるジゼルに目をやった。
壇上のローレンスをじっと見つめる彼女の真剣な顔。ローレンスもクレイグもリーラも、プラルトリラ大学に進んでもう少しだけ学生生活を謳歌するのに対し、彼女は警察官として早くも社会に一歩を踏み出す。
毎日のように顔を合わせ、喜怒哀楽を共に感じてきた時間は今日で終わり、明日からは彼女とは別の道を歩むことになるのだ。
式が終わってもローレンスの周りには人だかりができていて、なかなか近づけない状態だった。
ローレンスは相変わらず無愛想ではあるが、それでも記者相手に時折愛想笑いも浮かべるようになった。
ぎこちないながらも王子としてのイメージを崩さない程度に表情を作れるようになったのは、ひとえにジゼルの教育の賜物だろう。
そのジゼルは、ローレンスと言葉も交わさずにさっさと帰ろうとしていた。
「ちょっとジゼル! ローレンスと話さなくていいの?」
「いいよ。別に話す事なんかないよ」
今日で高校生活も最後だというのに、まるで明日以降も続くような物言いだ。実際、彼女はそれを願っていたのかもしれない。
「ジゼル」
その時、人ごみを掻き分けてローレンスがこちらにやってきた。
だがジゼルは彼に背を向けた。彼が足を止めても、顔を見ようともしない。
ローレンスがジゼルに何を言うのか──皆が注目する中、彼が口を開いた、が。
「三年間、一緒に勉強できて楽しかった。腹立つこともたくさんあったけどな、それでも……お前には感謝してる」
それはジゼルの言葉だった。まるでローレンスの言葉を拒否するかのように、さらに彼女は畳み掛けた。
「お前のお守りも今日で終わりだ。これからあたしは警察官になって、このマドリガーレを守る。だからお前は安心して、好きなだけ勉強続けな」
振り返り、背の高いローレンスの顔を見上げ、ジゼルは笑顔を見せる。
「お前は王子なんだからさ。もっともっと勉強して、その知識のたくさん詰まった頭をいっぱい使って、この国を良くしてくれよ。あたしみたいな貧乏人が少しでも減るようにさ」
「……ああ」
搾り出すように返事をしたローレンスに、ジゼルは満足そうにうなずいた。
「よし、わかったらそのムカつくツラ、二度とあたしに見せんな」
周囲が息を呑む中、ジゼルはくるりと背を向けると足早に歩み始めた。
「……サヨナラ」
背中越しの別れ。ジゼルらしい別れ方だった。
決して振り返らず、そして決して追いかけず。二人が別々の道を歩むことを決めたその時から、互いに今日のこの別れを覚悟していたのだろう。
クレイグは自分の直感は正しかったと痛感した。彼女は本当にローレンスのことを愛していたのだ──
何の計算もなく、何の見返りも求めず、最初から最後までローレンスの『一人の友人』であろうとしたジゼル。その潔い姿勢は、自分にはあまりにも眩しすぎた。
クレイグはジゼルの想いがいじらしくて、ひどく痛ましかった。
こんな別れ方しかできなかった彼女の優しさ、そしてひたむきさがこの胸を深く抉るのだ。
あれから八年──ジゼルはどんな想いを抱いてローレンスと再会したのだろう。本当にジゼルに一度も会いに行かなかった彼もまた、どんな想いを抱えていたのだろうか。
若かったあの頃とはもう違う、互いに大人となった二人。
八年の失われた時を取り戻したかのような二人の様子に、クレイグは不思議と安堵する一方で、胸の内に残る小さな棘をもやたらと刺激されるのを感じていた。




