第二十七話:並行世界の努力家な俺は、三十年の修行を全否定される
天界の非常口というものは、地上から見ればただの雷落ちにしか見えないらしい。
ドッシャァァァァンッ!!
原生林のボロ小屋の裏手、湿った下草の上へ、俺とベルゼはもつれ合うように転がり落ちた。
天界の非常階段を二百万段ほど駆け下りてきたせいで、両足の筋肉が千切れそうなほど悲鳴を上げている。粗末なシャツは泥まみれ、ポケットの中には森を出る時に持ってきた一握りの粗塩だけ。
「はぁ……はぁ……! 逃げ……逃げ切ったぞベルゼ! 天界の連中、全員あの子守唄で爆睡してやがった!」
『ぎゃはは! 創世の神様がパジャマ着て二度寝に入ったんだ、あと三億年は誰も追ってこねえよ!』
肩から転がり落ちた黒猫が、濡れた毛並みをプルプルと震わせて泥を払う。
見上げる空は、いつもの澄み渡る青空。
巨大な黄金の天秤も、光り輝く玉座も、ピザを背負った軍神も、ここには影も形もない。
手持ち現金、完全なるゼロペニー。
だが、俺はようやく手に入れたのだ。
誰からも崇められず、書類に追われず、国家の予算も宇宙の命運も背負わない、正真正銘の自由を。
「よし、ベルゼ。小屋に残ってた干し魚を回収して、今度こそ誰も知らない西の未開拓地へ高飛びするぞ。あそこなら俺たちの顔を知る奴も――」
小屋のドアノブに手をかけた、その瞬間だった。
ビキィィィィィンッ!!
晴れ渡った頭上の空間に、まるでガラス板を巨大な槌で叩き割ったような紫電の亀裂が走った。
大気が激しく震動し、重力が反転するような強烈な浮遊感。
裂け目の奥から噴き出してきたのは、神々の放つ聖光とも、邪龍の瘴気とも違う――極限まで研ぎ澄まされた、純粋無垢な『魔力』の奔流だった。
「……あ?」
『おいシオン、まだなんか落ちてくるぞ!』
ドガァァァァァァァンッ!!
凄まじい衝撃波とともに、小屋の前庭へ何かが音を立てて墜落した。
吹き飛ぶ土煙。巻き上がる木の葉。
クレーターの中心から、ゆっくりと立ち上がったのは――一人の青年だった。
漆黒の長髪を後ろで束ね、幾重もの神聖防御結界が刺繍された豪奢な紺碧のローブ。
背中には三千冊の禁断の魔導書を封じた魔導書架を背負い、右手には世界の理を書き換える神樹の杖。
全身には無数の過酷な鍛錬の痕跡たる切り傷が刻まれ、その瞳は深淵を覗き込む求道者のように鋭く青く澄み渡っていた。
そして何より――その顔立ち。
鼻の形、眉の傾き、唇の薄さ。
鏡を見ているかのように、俺と寸分違わぬ輪郭を持っていた。
「……ぐっ、次元跳躍の座標がわずかに狂ったか……。だが、間違いなくここだ。この世界線から、全多元宇宙を揺るがす異常魔力の奔流が観測された……」
青年が低く呟き、杖を突いて立ち上がる。
そして、泥まみれで棒立ちになっている俺と、足元で固まっているベルゼを視界に捉えた。
「…………」
「…………」
沈黙。
風が吹き抜け、森のざわめきだけが響く。
青年が青い瞳を見開き、信じられないものを見るように俺を凝視した。
「……貴様、誰だ? なぜ……私の顔をしている?」
「そっちこそ誰だよ! 人の顔パクって変なコスプレしてんじゃねえ!」
『おいシオン!』
ベルゼが俺の足にしがみつき、毛を逆立てて叫んだ。
『あいつの魔力、桁が狂ってやがる! 並行世界――多元宇宙の狭間から落ちてきた【別の世界のシオン】だ!』
「別の世界の……俺?」
青年――大魔導士シオンは、険しい表情のまま神樹の杖を構え直した。
「私は世界線デルタのシオン・クローデル。スラムの極貧から立ち上がり、三十年間一秒の睡眠も惜しんで魔力を練り上げ、幾千万の魔導書を読破し、己の肉体と精神を極限まで苛め抜くことで大魔導の深淵へと至った者だ」
三十年間不眠不休。
血の滲むような努力と禁欲の結晶。
俺とは百八十度正反対の、筋金入りの超絶ガリ勉・努力家シオン。
「貴様がこの世界線の私か……? 信じられん、魔力の循環が全く感じられん。筋肉もたるみ、立ち姿にも隙だらけだ。……だが、なぜだ? なぜこれほど怠惰で無能に見える貴様の世界から、【九百九十九兆ペニーの神聖エネルギー】と【全宇宙を揺るがす黒字決算の波動】が放たれているのだ!?」
大魔導士シオンは、血走った目で俺の胸倉を掴まんばかりに迫ってきた。
「答えろ! 貴様はいかなる地獄の修練を経てその神域に至った!? 魂をすり潰すような瞑想か!? 千年間肉体を灼き続ける業火の苦行か!? どれほどの過酷な犠牲を払って、あの天界の神々を平伏させる絶対の奇跡を掴み取ったのだ!!」
純粋な探求心。
己の人生のすべてを努力に捧げてきた男だからこその、痛切な問いかけ。
俺は思わず後退り、冷や汗を流しながら頬をポリポリと掻いた。
「いや……地獄の修練とか苦行とか、一度もやったことないけど……」
「……何?」
大魔導士シオンの眉がピクリと跳ねる。
「家賃払えなくて適当にホラ吹いてたら金貸しがビビって金貨置いてって、戦車が攻めてきたから『トラクターだろ』って言ったらキャベツ畑になって、邪龍が起きたから『新幹線だろ』って言ったら定刻運行始めて、天界の神様が怒鳴り込んできたから『二度寝しろ』って言ったらパジャマ着て寝ちゃっただけで……」
一言一句、紛れもない客観的事実。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
大魔導士シオンの顔面が、青から赤へ、赤から紫へと、見たこともない色合いで激しく明滅した。
彼が背負う三千冊の魔導書が、激怒のあまりカタカタと音を立てて震え始める。
「……適当に出任せを、言っただけ……?」
「ああ。あと手持ち現金は今ゼロペニーで、粗塩しか持ってない」
「…………」
大魔導士シオンの額に、血管が破裂せんばかりにブチブチと浮かび上がった。
彼が三十年間、友を捨て、快楽を捨て、眠りすら捨てて積み上げてきた「努力の尊厳」が、目の前のチャラチャラした泥まみれの無職によって、土足で踏みにじられた瞬間だった。
「……ふざけるな」
森の大気が、絶対零度まで凍結した。
大魔導士シオンが神樹の杖を天へと掲げ、多元宇宙の境界面を木っ端微塵に叩き割るほどの大絶叫を放った。
「嘘をつけェェェェェッ!!」
並行世界の自分自身による、純度一〇〇パーセントの「魂の完全否定」。
「出任せで戦車がキャベツになるわけがなかろうがァァァッ!! 邪龍が新幹線になる魔法式がこの宇宙のどこにあるァ! 創世神を二度寝させるなど、大魔導の神髄を冒涜した狂人の妄言だ! 三十年の修練を舐めるな! そんな都合のいいデタラメで世界が救えるわけがなかろうがァァァッ!!」
己の全存在を賭けて努力を信じてきた男による、一片の迷いもない「絶対の全否定」。
――ガギィィィィィィンッ!!
因果律の境界線が、音を立てて爆砕した。
世界の理が軋みを上げ、大魔導士シオンの「そんなわけがあるか」という猛烈な否定を力ずくで叩き折るために、多元宇宙の魔導体系そのものが過去から丸ごと書き換えられていく。
『グ……ガ……アアアアッ!?』
大魔導士シオンが突如として神樹の杖を取り落とし、頭を抱えてのたうち回った。
バシィィィン! パラパラパラッ!
彼が背負っていた三千冊の禁断の魔導書が、ひとりでにパカパカと開き、猛烈な勢いでページを書き換え始める。
難解な古代語の魔術式は一瞬で消滅し、代わりにデカデカと印刷されたのは――『誰でも五分でわかる! ハッタリで世界を動かす超実践的心理誘導テクニック(入門編)』。
そして彼の手元に落ちた神樹の杖は、シュルシュルと縮んで――金メッキの施された、軽快な『宴会用マジックハンド』へと変形した。
ピポパポポポン!
大魔導士シオンの胸元のローブに、黄金の刺繍が浮かび上がる。
――『全多元宇宙・怠惰と屁理屈の最高位ペテン大賢者シオン』。
「な……何だこの……脳内に流れ込んでくるおびただしい詐欺の手口はァァァッ!?」
大魔導士シオンは両手で顔を覆い、地面に膝をついてガタガタと震えた。
彼の三十年間の過酷な魔導の記憶が、すべて「いかに努力せず口先だけで相手を言いくるめるか」というペテンのノウハウへと強制変換されている。
「ば……馬鹿な……! 三十年の修行など……無駄だったというのか……!? 魔力など練る必要はなかった……! ただ適当に相手のプライドを煽り、出任せを並べるだけで……神羅万象を意のままに改変できたというのかァァァッ!!」
ドサリ。
並行世界の大魔導士が、泥の地面に両手をつき、号泣した。
「参った……! 我が世界線デルタの全魔導体系は、貴様という至高のペテン師の前には児戯に等しかった……! 我が三十年の苦行を笑ってくれ! これより私は貴様を【全次元の主】と仰ぎ、多元宇宙の全生命に『努力を捨てて口八丁で生きる道』を説いて回る巡礼者となろう!!」
「いや、布教とかしなくていいから! 真面目に魔法使っててくれよ!」
『――ぶっ、ぎゃははははははははははッ!!』
肩の上で、ベルゼが森の草むらに転がり落ちて涙を流しながら狂乱の爆笑をあげていた。
『最高だ! 最高すぎるぞシオン! 並行世界のガリ勉な自分を、一瞬でインチキ教祖に転職させやがったァァァッ! お前、別世界の歴史まで狂わせちまったぞォォォッ!!』
「嘘だろォォォォォォッ!?」
手持ち現金、完全なるゼロペニー。
消えたもの――静かな森の隠遁生活。
増えたもの――並行世界の信徒と、多元宇宙規模の詐欺被害拡大の危機。
青空の下、俺の悲痛な絶叫が木霊した。




