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第五章 ラップとガムテープ

 鏡の中の自分に向け、高村修平は短く息を吐いた。

 ネクタイの結び目を直しながら、数日前の相川沙織の言葉を、脳内で訓示のように再生する。


「高村さん。次は、喋ってください。何を話せばいいか迷ったら、相手にとって有益な情報を共有するんです。ただし、会話は押しつけるものではなく、相手が受け取れる形で渡すものなんですよ」


 渡すもの。修平はその言葉を点呼するように心に刻んだ。


 二回目のお見合い会場は、新宿の超高層ホテルにあるティーラウンジだった。地上二百メートル。天空を切り取るような巨大なガラス窓から、午後の柔らかな陽光が惜しみなく降り注いでいる。

 修平は前回を上回る周到さで現着げんちゃくし、まず周囲の状況を掌握した。

 非常口までの距離。スプリンクラーの配置。そして、この広大な窓ガラスが破損した際の飛散予測。


 準備は整った。


「サキと申します。今日はよろしくお願いします」


 現れた女性は、三十代後半の、知的で穏やかな雰囲気を持つ早希さきという女性だった。清潔感のあるアンサンブルが、その柔和な印象を際立たせている。

 着席し、注文を終えると、早希が窓の外に目を向けて小さく声を漏らした。


「あら……ここ、見晴らしが良くて素敵な場所ですね。窓も大きくて」


 会話の入りだ。修平の脳内で、改善案が即座に起動する。


「ええ、素晴らしい視界です」


 努めて滑らかに、しかし重厚な声で言葉を紡ぎ始めた。


「ただ、確認ですが、サキさんは万一の場合に備えて避難経路は把握されていますか?」

「えっ? ……避難経路、ですか?」


 早希の瞳が戸惑いに揺れた。修平はその瞬きを、真剣に聞き入る姿勢だと判断した。


「はい。念のため共有しておきますと、我々の着席位置からの一次退避ルートは、あちらの非常口になります。この建物は免震構造なので倒壊の危険は極めて低い。しかし、先ほどおっしゃったこの大きな窓。これは地震の激しい揺れで破損した場合、鋭利な破片となって降り注ぐ可能性があります。有事の際は、決して窓側には近づかないでください」


 早希は、差し出されたケーキフォークを握ったまま、一瞬だけ動きを止めた。


「あ……はい。気をつけます……」


 困惑の色が一瞬よぎったが、彼女はすぐに礼儀正しく微笑みを戻し、話題を繋いでくれた。


「シュウヘイさんは、お休みの日はどんなことをされていることが多いんですか?」

「主に、体力維持のためのトレーニングと、備蓄品の点検です」


 修平は、今度はこちらから問いかける番だと判断し、事前に練っていた質問を繰り出した。


「サキさんは、休日はどのように過ごされることが多いんですか」

「私ですか? 私は、登山や軽いハイキングに行くのが好きなんです。自然の中を歩くと、リフレッシュできるので」


 登山。

 修平の胸に、かつてない高揚が走った。


「登山。それは素晴らしい。標高はどの程度を想定されていますか」

「ええと、高尾山とか、その周辺の低山が中心ですけど……」

「低山であっても、気象の急変は命取りになります」


 修平の声に、現場指揮官としての峻厳さが宿った。


「でも、景色がきれいだとつい写真ばかり撮ってしまって。曇りや雨でも晴れとはまた違った美しさがあって……」


 早希は、そこで少しだけ楽しそうに目を細めた。


 修平はうなずいた。

 うなずきながら、その言葉の中から「登山」「天候」「装備」という要素だけを拾い上げていた。


「なるほど」


 修平は厳粛に言った。


「サキさんはザックの中に、『ラップ』と『ガムテープ』は常備されていますか?」

「え? ラップ……? いえ、キッチンにはありますけど」

「それは危険です」


 修平は身を乗り出した。


「ラップは止血帯の代わりになり、骨折時の添え木を固定するのにも使えます。さらに体に巻けば強力な防寒具にもなる。ガムテープも同様に汎用性が高い。生存確率を数パーセントでも上げるために、登山時には必ず携行されることを強く推奨します。もし滑落事故が発生した場合、発見までの『黄金の時間』を生き延びるためには……」


「な、なるほど。ラップとガムテープ……」


 早希は、完全に冷めきったダージリンティーのカップを見つめたまま、微かに引きつった声で相槌を打った。

 しかし、修平の視界には、熱心に耳を傾ける良き聴衆の姿しか映っていなかった。


 ——よし。彼女は深く頷いている。共通の趣味から入り、有益な情報提供を行う。見事なキャッチボールが成立している。


 早希は、冷めた紅茶を一口飲み、気を取り直すように問いかけた。


「あの……お仕事、大変ですよね。火事の現場とかにも行かれるんですか?」

「ええ。人命救助が我々の本分ですから」


 修平は誇らしげに胸を張った。


「ですので、もし今ここで火災が発生した場合についてお伝えしておくと、煙は一秒間に三メートルから五メートルの速さで上方へ移動します。我々は姿勢を低くし、ハンカチで口を覆いながら壁伝いに、先ほど確認したルートで……」


 彼女の瞳から、穏やかな光が静かに引いていった。

 もはや修平の顔を見ていない。運ばれてきたモンブランの頂を、遭難者のような虚ろな目で見つめている。


 ——素晴らしい集中力だ。彼女は私の説明に深く感銘を受け、防災意識をアップデートしているに違いない。



 お見合いが終わった後、修平はホテルのロビーで、確かな手応えとともにスマートフォンのアプリを開いた。

 指先が、流れるような速さで画面を叩く。入力された「報告」は、もはや婚活の感想文ではなく、上官へ提出する現場活動報告書そのものだった。


『対象者との接触、予定通り完了。

滞在時間四十五分。会話は概ね良好。

先方に対し、火災時の避難動線および着席位置からの退避ルートを参考共有。

さらに、趣味の登山におけるラップおよびガムテープの有効性について指導。

先方は熱心に傾聴しており、安全意識の向上が認められた。

当方判断としては再接触可能と認定。交際希望。状況ヨシ。』


 送信ボタンを押し、修平は満足げにロビーを後にした。

 沈黙という悪癖を克服し、有益な情報を供与した。これ以上の完璧な対応があるだろうか。



 しかし、その満足感は、帰路の途中で静かに崩れることになる。


 電車を降り、自宅近くの街路樹が並ぶ歩道を歩いていた時だった。スマートフォンが鳴った。相川沙織からだった。

 修平は胸の奥に小さな異変を覚えながら、通話ボタンを押した。


「……高村です」


『高村さん、お疲れさまでした。今、お時間よろしいですか』


 相川の声は落ち着いていた。その静けさが、かえって不穏だった。


「はい。問題ありません」

『では率直にお伝えします。先方から、お見送りの連絡が入りました』


 修平の足が、ぴたりと止まった。

 街路樹の影が、足元に細く伸びている。


「……そうですか」


『理由はまだ簡単な共有だけですが、「防災意識が高くて頼もしい方だった一方で、会話というより避難訓練の指導を受けている印象だった」とのことです』


「……」


 修平は何も言えなかった。

 理解が追いつかない。今日の自分は、前回の失敗を踏まえ、沈黙を排し、誠実に情報を提供したはずだった。


「……しかし、会話は成立していたと思っていました。彼女は何度も頷いていた。登山の話にも、しっかり耳を傾けてくださっていたはずです」

『はい。高村さんが、そう受け取られたことも分かります』


 相川はそこで一度区切った。


『それと、高村さんの報告文を拝見して、私にも少し見えてきたことがあります。たぶん、会話が崩れた地点は……』


「……崩れた地点、ですか」


『高村さん。確認ですが、サキさんが趣味のお話をしてくださった場面、ありましたか?』

「……ありました。登山と、軽いハイキングが趣味だと」


『その時、サキさんは「景色の写真ばかり撮ってしまって」というようなことは仰っていませんでしたか』


 修平は、歩道の真ん中で小さく息を呑んだ。


「……仰っていました」


『やはり』

「それが、何か」

『そこが、おそらく会話の入口だったんです』


 相川の声に、責める響きはなかった。ただ事実を指し示す時の、細く鋭い確かさがあった。


『「登山が趣味」という情報だけではなく、「どういう時に楽しいと感じるか」を、サキさんはご自身の言葉で出してくださったんです。たぶん高村さんに、ご自分の好きなものを少し渡してくださったんですよ』


「……」


『でも高村さんは、そのボールを受け取る前に、ラップとガムテープの必要性へ話を進めてしまった』


 修平は、無意識にスマートフォンを握り込んだ。

 たしかにそうだった。景色。写真。楽しさ。そうした柔らかなものは、彼の頭の中では「登山時のリスク管理」に置き換わっていた。


『報告文にもありますよね。"趣味の登山におけるラップおよびガムテープの有効性について指導"と』


「……はい」


『高村さんは、相手の趣味に寄り添おうとして、有益な知識を渡した。でも、お相手には"話を聞いてもらえた"ではなく、"指導された"と映ってしまったんだと思います』


「指導……」


『それから冒頭の避難経路の共有も同じです。役に立つ情報を先回りして渡したつもりでも、会話ではなく説明が先に立つと、相手は"この人は私と一緒に時間を過ごしているというより、私を安全に管理しようとしている"と感じます』


 修平の喉が、ひどく乾いた。


「……私は、そんなつもりでは」

『分かっています』


 相川の返答は即座だった。


『高村さんが誠実なのは、もう分かっています。問題は誠実さじゃないんです。相手が差し出してくれた話を、会話として受け取る前に、正解で処理してしまうことなんです』


 街の向こうで、救急車のサイレンが短く鳴って消えた。

 修平はその音を聞きながら、自分の報告文を思い返していた。


 対象者との接触。

 参考共有。

 有効性について指導。

 安全意識の向上が認められた。


 どこにも、サキという一人の女性の気持ちは書かれていなかった。


「……業者、というのは」


『はい』


「そういう意味ですか」

『そういう意味です。消防の方であって、業者ではありません。でも、お見合いの席では業者味が強すぎたんです』


 修平は、力なく視線を落とした。

 歩道の端に落ちた小さな枯葉が、靴先に触れて転がった。


『ですから次回の禁止事項は、三つです』

「……三つ」


『相手が楽しそうに話している時ほど、"役に立つことを言わなければ"を一度止めてください』

『相手の話題を、自分の専門知識で制圧しないよう心掛けてください』

『あと、会話を報告書にしないことです』


 修平は、黙って聞いていた。


『……ただし』


 相川はそこで、ほんの少しだけ声の温度を変えた。


『"ヨシ"という掛け声は禁止です。あれだけは本当にやめてください』


 修平は、わずかに目を閉じた。


「……了解、いたしました」


『高村さん』

「はい」


『今日は、喋れたこと自体は前進です。間違えた方向に全力で進んだだけで、立ち止まっていたわけではありません』


 その言葉だけが、暗い帰路にかすかな灯りのように残った。


「……ありがとうございます」


 通話を終えた後も、修平はしばらくその場に立っていた。



 失敗した。

 それは分かる。

 分かるからこそ、腹の底がじわじわと熱い。


 やがて、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。


 次は、役に立つことを言いすぎない。

 次は、説明しすぎない。

 次は――ただ、相手の話を聞く。


 そう決めたはずなのに、修平にはその「ただ聞く」という行為の輪郭が、最後まで掴めなかった。




【高村修平の独白】


 沈黙は罪だが、有益な情報提供もまた、罪になるらしい。


 俺はただ、彼女に無事でいてほしかった。

 それを、相手が受け取れる形で渡せていると思っていた。


 ……どうやら、初対面の女性はサバイバル術を渡されても喜ばないようだ。


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