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第四章 真空のお見合い

 初めてのお見合い当日の朝、高村修平は洗面台の鏡の前に立っていた。丁寧に剃り上げた顎のラインを指先でなぞる。四十六年の歳月が刻んだ皺と、救助現場で負った左頬の小さな傷跡。それだけの顔だった。


 会場は、日比谷の老舗ホテルにあるティーラウンジ。

 高い天井からシャンデリアが下がり、磨かれた大理石の床に淡い光の輪を落としている。修平は約束の三十分前に到着した。職業的な習慣であり、もはや生理的なものでもある。

 指定された席の近くに腰を据え、まず「現場」を把握することに努めた。非常口の位置、人の流れ、給仕の動線。それらを確認してようやく、呼吸がひとつ落ち着く。背筋を垂直に保ち、瞬きを最小限に抑えて正面を見据えた。周囲の軽やかな談笑は、ほとんど耳に届いていない。対面に現れるはずの人物の到着を、修平は静寂の中で待った。


「……シュウヘイさんでしょうか?」


 不意に届いた声に、修平の肩がわずかに跳ねた。

 そこに立っていたのは、写真で見た通りの、穏やかな佇まいの女性だった。玲子れいこ。四十一歳。歯科受付。

 相談所の配慮で、この場では姓も連絡先も伏せられている。互いを呼ぶのは、カタカナに置き換えられた下の名前だけだ。


 彼女は、修平の放つあまりにも鋭い眼光に一瞬だけ怯んだように見えたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。


「お待たせして申し訳ありません。レイコです。本日はよろしくお願いいたします」


 修平は即座に立ち上がった。その動作があまりに鋭敏で無駄がなかったため、隣のテーブルのカップが微かに触れ合う音を立てた。


「シュウヘイです。こちらこそ、貴重なお時間をいただき感謝いたします。どうぞ、お掛けください」


 修平の声は、火事場の怒号に慣れすぎているせいか、自分では抑えているつもりでも低く、重く響いた。


 注文を済ませると、テーブルの上に沈黙が降りた。

 修平の脳内では、相川から授かった「会話の心得」が緊急指令のように点滅している。


 ——共通点を探して、話題を広げてください。


 歯科受付。フェルトニードル。紅茶。読書。


 修平の日常にあるのは、放水訓練、倒壊家屋の補強、後輩への指導。

 接点が、見当たらない。


「……あの、シュウヘイさんは、消防のお仕事をされているんですよね」


 沈黙に耐えかねたのか、玲子が先に手を差し伸べた。


「はい。東京消防庁の第六消防方面本部、消防救助しょうぼうきゅうじょ機動部隊きどうぶたいに所属しております」

「ハイパーレスキュー、というお名前はテレビで拝見したことがあります。とても大変なお仕事なのでしょうね」


「任務ですから」


 短く答えた。嘘ではない。だが、あまりに素っ気ない。

 修平は焦った。何か足さなければならない。しかし、不確実な言葉は口にできなかった。


「……レイコさんは、歯科にお勤めだとか。口腔内の健康は、全身の健康に直結すると聞き及んでいます。非常に重要な職務ですね」


 玲子が目を瞬かせた。


「ええ、まあ……そう言っていただけると嬉しいです。私は受付なので、直接治療をするわけではないのですが」

「受付は、現場の第一線です。トリアージと同じく、その判断が治療の成否を分けることもあるはずです」

「トリア……何でしょうか?」

「失礼。識別、選別のことです」


「……あ、ああ〜、どこかで聞いたことあるかもしれません。私も患者さんが緊張しないよう、丁寧に声をかけるようにしているんですよ」


 会話が、どこか噛み合わない。

 玲子は困ったように微笑み、話題を変えようとした。


「趣味の欄に、フェルトニードルのことを書いたのですが、ご存知ですか? 羊毛を専用の針でチクチク刺して、動物のマスコットとかを作るんです」


 修平は想像した。鋭利な針。それを何度も突き刺す作業。


「……指を、負傷することはありませんか」

「えっ?」

「針は細く、貫通力が高い。作業中の集中力が切れた際、不慮の事故が起きる可能性があるのではないかと」


 玲子の表情から、わずかに明るさが引いていくのを修平は見逃さなかった。


「あ……はい、たまにチクッとはしますけど、絆創膏を貼れば大丈夫ですよ。そんなに危ないものではないんです。無心になれるのが楽しくて」

「なるほど。安全管理を徹底した上での精神修養、ということですね。素晴らしいと思います」


 素晴らしい。心からそう思った。しかし、彼の表情は不動明王のように険しいままだった。

 心臓が、現場で要救助者ようきゅうじょしゃを背負っている時よりも激しく鳴っている。喉の奥が乾き、言葉が肺に張り付いて出てこない。

 だから、修平は選んでしまった。

 これ以上の失点を防ぐための、最悪の安全策を。


 沈黙。


 ラウンジの喧騒の中で、そこだけが真空地帯になったかのような静寂だった。

 玲子は何度か視線を泳がせ、修平の様子を伺っている。制服を脱いだ彼は、剥き出しの神経で戦場に立つ兵士のようだった。

 喉が詰まる。背中のシャツが、嫌な汗で張り付く。


 何か言わなければ。


 天気が良いですね。

 その服の色がよくお似合いですね。


 頭の中には候補が浮かぶ。だが、それらはどれも「根拠のない発言」に思えた。天気が良いから何だというのか。服の色が似合っているなどと、初対面の男に言われて警戒しないだろうか。


 口を開きかけて、閉じる。

 玲子が、小さく息をつく音が聞こえた。


「……シュウヘイさんは、あまりお話しされるのがお好きではないんですか?」


 声に、怯えに似た戸惑いが混じっていた。

 修平は弾かれたように顔を上げた。


「いえ。そのようなことは。ただ、失礼があってはならないと……」

「失礼、ですか?」

「言葉というものは、一度発すれば取り返しがつきません。私は、軽率な発言で場を壊すことを恐れています」


 正直な告白だった。だが、それはお見合いのテーブルに置くにはあまりに重すぎた。

 玲子は、引きつったような笑みを浮かべる。


「……そんなに、緊張なさっているんですね」

「はい」


 即答だった。


「ですが、黙っていらっしゃると、私、何か怒らせてしまったのかなって、少し怖くなってしまって」


 怖がらせた。

 その言葉が、修平の胸を鋭く抉った。


 人を守るために生きてきた。誰かを恐怖から救い出すために、命を懸けてきた。それなのに今、目の前の女性を、自分という存在が怖がらせている。

 謝罪しようとした。しかし喉が石のように固まり、言葉が出てこなかった。



 三時間後。

 修平は自宅の質素なリビングで、スマートフォンの画面を見つめていた。

 相談所の専用アプリに届いた通知は、無慈悲なほど簡潔だった。


『レイコ様より、お見送りの連絡が入りました』


 分かっていた。当然の結果だ。

 しかし胸の奥に広がる鈍い痛みは、消火活動で吸い込んだ煙のように、いつまでも肺の底に残った。

 そこへ、相川沙織から電話が入った。


「高村さん、お疲れ様でした。……結果は、残念でしたね」


 相川の声は、いつになく静かだった。


「……私の力不足です。彼女を怖がらせてしまいました」

「レイコさん、仰っていましたよ。『とても立派な方だということは分かりました。でも、ずっと取り調べを受けているような気分で……息苦しかった』と」


「息苦しい……」


「高村さん。あなたは現場ではヒーローかもしれませんが、お見合いの席にその重たい鎧は必要ありません。黙っていると、怒っているのか、嫌なのか、相手には分からなくて不安になるんです」


 修平は返す言葉を失った。


「……分かりました。私が間違っていました。次は、沈黙しません」

「ええ。次はもう少し、肩の力を抜いて……」

「次は、必ず話します。沈黙という事故が起きないよう、万全の準備をして臨みます」


 相川は、数秒だけ黙った。


「……はい、良いご報告を、お待ちしております」


 電話を切った後、修平は暗い部屋の中で一人、立ち尽くしていた。

 窓の外に東京の夜景が広がっている。どこかでサイレンの音が聞こえた。あの音の向こう側には、自分の居場所がある。明確なルールがあり、なすべきことが決まっている世界だ。

 けれど、ここには何もない。


 修平は自分の掌を見つめた。

 何人もの命を引き上げてきた、分厚く、硬い手。この手は、誰かを守ることはできても、誰かの心にそっと触れることはできないのだろうか。


 重い足取りで書斎スペースへ向かう。ノートを開いた。

 次は、黙っていてはいけない。もっと積極的に。もっと雄弁に。


 修平は、次の失敗を避けるための準備を始めた。




【高村修平の独白】


 怖がらせた。

 それだけは、駄目だ。


 俺は、黙っていれば傷つけずに済むと思っていた。

 なのに結果は逆だった。


 ……次は喋る。言葉を出す。


 とりあえず、書店へ行こう。

 「雑談」という災害への対策本が、どこかにあるはずだ。


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