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第二十章 よし

 この日、二人きりの夕食を終えたあと、俺は奈緒を海沿いの公園へ誘った。

 街の喧騒から少し離れたその場所は、対岸の夜景だけが海面に光を落としている。潮の匂いが混じる夜風が、ベンチの間を抜けていく。

 並んで座り、俺はひとつ、深く息を吸い込んだ。

 立ち上がった。奈緒の正面に回った。

 無意識だった。背筋が垂直に伸び、両足は肩幅に開き、両手は体の横で固く結ばれている。現場で指揮を執るときの姿勢が、そのまま出ていた。

 奈緒が、俺の唐突な動きに少し驚いた顔をする。それから、何かを察したように、ゆっくりと立ち上がった。

 夜風が、彼女の髪を小さく揺らす。

 俺は、喉の奥に張りついた緊張を飲み込むようにして、声を出した。


「俺は、奈緒さんと、駿君と、三人で家族になりたい」


 夜風の音に負けないよう、腹圧をかけた声だった。


「守るだけではなく、一緒に暮らして、一緒に笑って、一緒に帰る場所を作りたい」


 奈緒の瞳が、少しだけ見開かれる。

 よし。ここまでは予定通りだ。あとは、一番重要な言葉を伝えるだけだ。


「だから、どうか……俺と、け、けぞく……いや、結婚してください」


 沈黙。


 寄せては返す波の音だけが、やけに鮮明に聞こえた。

 俺は、己の人生において最も重要で、絶対にミスが許されない現場において、致命的な噛み方をした。

 奈緒は目を見開いたまま固まっていたが、やがて両手で口元を押さえ、肩を震わせ始めた。笑いをこらえているのは明らかだった。そして、全くこらえきれていない。


「……っ、ふふ、……」


 顔面から火が噴いた。


「……通信に乱れが生じた。訂正する。……君たちを、一生守らせてほしい。俺と結婚してください」


 真っ赤な顔で言い直す俺を見て、奈緒はとうとう声を立てて笑い出した。


「もう……本当にあなたって人は」


 目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、奈緒が俺を真っ直ぐに見上げる。


「修平さん。私、今でも怖くないわけじゃないの」


 海風が、一拍だけ止んだ気がした。


「でも、怖いって言った時に、あなたは逃げなかった。駿のことも、無理に奪おうとしなかった」

「怖いままでも、あなたとなら考えていける気がしてる」

「……」


 その瞳には、初めて会った時のような緊張も、俺の仕事への恐怖の影もなかった。ただ、怖さを知ったうえで、ここに立っている人の目だった。


「だから、はい。……私と息子を、よろしくお願いします」


 俺は、ようやく大きく息を吐き出した。直立不動の姿勢が、少しだけ崩れる。

 ベンチの後ろに隠すように置いていた紙袋から、花束を取り出した。


「えっ、これ……」

「婚約の贈り物です」


 奈緒は、俺から指輪は受け取らないと言っていた。その分を、三人の生活や、いざという時の備えに回したいと。だから俺は、指輪の代わりに、彼女が以前「好きだ」と言っていた花を選んだ。


「ガーベラ。……嬉しい、覚えていてくれたのね」


 花束を胸に抱いて、奈緒が顔をほころばせる。夜の暗がりでも分かるほどだった。


「……君がベランダで花を育てていると言っていたから。いつか、新居の広い庭で、一緒に育ててほしい」


 自分で言いながら、また顔が熱くなる。気の利いた台詞など俺には言えない。それでも、精一杯の本音だった。


「そうしたら私、季節のお花を飾って明るい家にしたいな」


 奈緒は、黄色いガーベラの花弁にそっと触れた。


「修平さんが疲れて帰った時に、ほっと安らげるような」


「……ありがとう、俺も嬉しいよ」


 奈緒の隣に再び腰を下ろした。海風は少し冷たかったが、俺の内側には、四十六年の人生で感じたことのない、静かで確かな熱が灯っていた。




 数日後、俺は奈緒を伴って、リリーブライダル銀座の応接室を訪れた。

 成婚退会せいこんたいかいの挨拶である。


「本当におめでとうございます。お二人とも、とても良い顔をされていますね」


 相川さんは、いつもの冷静な表情の奥に、確かな喜びを滲ませていた。


「相川さんの厳しい指導のおかげです。……俺は結局、最後まで立派なスマートさは身につけられませんでしたが」


 少し自嘲気味に言うと、相川さんはふっと笑った。


「ええ。今の高村さんは、隙だらけで、全然立派じゃありません」


 一拍、間を置いて。


「……でも、最高の旦那様で、最高のお父様になると思いますよ」


 俺は、すぐに返す言葉を見つけられなかった。

 隣に座る奈緒が、俺の腕に軽く触れた。

 相川さんは、最初に会った時と同じように、少しだけ厳しく、そして温かく俺を見ていた。

 俺は深く頭を下げた。


「ここから先は、三人で決めていくことです」


 面談室を出たあとも、その声は俺の耳に残っていた。




 季節が秋から冬へ向かう頃。

 俺が運転する車の助手席には奈緒が、後部座席には駿が乗っていた。

 行き先は、吉川よしかわあきらさんが眠る墓地である。

 駐車場に車を停め、緩やかな坂道を上り始めた。俺の両手には花束と水の入った手桶。枯れ葉が、足元で乾いた音を立てる。

 少し前を歩いていた駿が、ふと立ち止まって振り返った。


「あ、バケツ、俺が持つよ。親、じっ……」


 俺の足が、止まった。

 駿は、自分が口走った言葉にハッとしたのか、一瞬で耳まで赤くなった。


「あー、いや、高村さん、重そうだから」


 視線を泳がせながら、頭を掻く。

 隣を歩いていた奈緒が、嬉しそうに肩を小さく揺らした。

 俺は手桶の取っ手を強く握った。胸の奥が熱く詰まって、言葉がうまく出てこない。どうにか喉を震わせて、短い声だけを絞り出した。


「……助かる」


 駿が手桶を受け取り、また足早に前を歩き始める。その背中が、少しだけ広くなったように見えた。

 墓前に着くと、奈緒と駿が水を取り替え、花を供えた。

 俺は少し後ろに下がって、奈緒が墓石を優しく撫でるのを見ていた。

 しばらく墓石を見つめていた奈緒が、やがて小さく微笑む。


「……もう、心配しないでね。私たち、ちゃんと笑ってるから」


 奈緒が下がり、次に駿が墓の前に立った。

 ジャージのポケットに手を突っ込んだまま、少し気まずそうに、しかし真っ直ぐに墓石を見据える。


「父さん。俺、野球、調子いい。次の大会もたぶん行ける」


 いつもの、少しぶっきらぼうなトーン。


「あと、後ろのゴリラ。見た目はあれだけど、悪い人じゃない」

「……まあ、母さんのこと、任せてもいいかなって思ってる」


 少しだけ俺の方を振り返り、またすぐに墓石に向き直った。


「だから、その……親父って呼ぶことにした。でも父さんは、父さんだけどな。……じゃ、また来る」


 最後に、俺が墓の前に進み出た。

 背筋を伸ばす。最敬礼さいけいれいに近い角度で、深く、長く頭を下げた。

 秋の冷たい風が、墓地の木々を静かに揺らしている。


「はじめまして、高村修平と申します。私は……あなたのようには、うまくできないかもしれません」


 声に出した瞬間、背中が、わずかに震え始めるのを感じた。


「それでも、あの二人が笑っていられるよう、私は私のやり方で、全身全霊で守り抜きます」


「その場所に、私も立たせてください」


 後ろから、奈緒と駿の小さな息遣いが聞こえた。

 顔を上げると、頬を、大粒の涙がとめどなく伝い落ちていた。

 止めようとしても、止まらなかった。

 しばらく、後ろの二人は何も言えずにいたようだった。


「ええっ!? ちょ、……親父、泣いてんの!?」


 沈黙を破ったのは、駿の素っ頓狂な声だった。目を丸くして、俺の顔を覗き込むように身を乗り出してくる。

 俺は慌てて、太い腕で乱暴に涙を拭った。


「な、泣いてなどいないっ! これは……線香の煙が、少し目に沁みただけだ!」


 自分でも分かるほど裏返った声だった。


「屋外だぞ」


 駿が、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑った。

 奈緒が俺の隣に並び、そっと腕に触れる。

 三人の笑い声が、高く澄んだ秋の空に吸い込まれていった。




 半年後。

 三人の通勤と通学の折り合いがつく街に、俺たちは新しい住まいを見つけた。

 築年数はそれなりだが、小さな庭がついている。奈緒が真っ先にそこを気に入った。

 天気のよい、休日の昼下がり。

 俺は新居のダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた。隣のキッチンでは、奈緒が昼食の片付けをしている。窓の外には、奈緒が植えたばかりのガーベラの苗が、まだ心もとない葉を広げていた。


「最近ね、駿の先生に言われたの。駿君、よく笑うようになりましたねって」


 奈緒が、皿を拭きながら言った。


「いいことだ」

「私も、園の子どもたちに『先生、最近楽しそう』って言われたわ」

「……そうか」

「あなたが来てからよ」


 奈緒が振り返り、俺を見て微笑んだ。

 俺はコーヒーカップを静かにテーブルに置いた。


「違う。俺が来たんじゃない。入れてもらったんだ」


 それは、俺の偽らざる本音だった。

 奈緒は少し目を細め、それから小さく笑った。


「私もね、修平さんに入ってきてもらったんじゃなくて、助けてもらったと思っているのよ」

「……俺がか」

「ええ。駿も、私も。たぶん、あなたが思っているよりずっと」


 奈緒は窓の外の、植えたばかりのガーベラへ視線を向けた。


「私たち……同じこと考えていたのかもね」


 俺は、小さく頷いた。


 その時、二階からバタバタと階段を駆け下りてくる足音が響いた。

 俺は天井を見上げて、少しだけ目元を緩めた。最近のいつものやつだ。


「まったく、受験生なのにいいのかしら」


 奈緒が、少し呆れたように溜息をつく。


「たまには息抜きだって必要じゃないか?」


 リビングの扉が勢いよく開いて、ジャージ姿の駿が顔を出した。その手には、使い込まれたグローブと硬球が握られている。


「親父! キャッチボールやろうぜ!」


 その声に呼ばれて、俺は椅子から立ち上がった。

 玄関の靴箱の横には、俺のグローブが置いてある。ここに越してきた日に、駿が「そこでいいだろ」と場所を決めた。


 ただそれだけのことが、かつての俺には想像もできなかった。


 誰かを救うためではなく。

 誰かのいる場所へ帰り、そこからまた、共に歩き出すために。


 俺は玄関へ向かった。


「よし!」



                       高村修平の物語 帰灯 - 完 -

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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