第十九章 衝突と、入口
高村修平が奈緒の自宅に招かれるのは、これが三度目だった。
初めて訪れた日から、まだ一週間と少ししか経っていない。しかしこの日、そこに駿の姿はなかった。
テーブルの上には奈緒が淹れたコーヒーが湯気を立てている。奈緒はそれに口をつけることもなく、どこか沈んだ声で切り出した。
「……修平さん」
「はい」
「駿、最近ずっと変で」
奈緒は、伏し目がちだった。
「変、とは」
「怒っているわけじゃないんです。むしろ、いい子にしてる。手伝いもするし、返事もちゃんとする。でも……私の前でだけ、少し心が離れているような」
修平は、コーヒーカップに伸ばしかけた手を止めた。
「話してくれないから、どうしたらいいかわからなくて」
奈緒の顔に滲んでいるのは、母親としての焦りと、それよりもっと深い場所にある不安だった。
「たぶん、高架下にいると思います。最近、あそこで壁当てをしているみたいで」
修平は、彼女を真っ直ぐに見た。
「俺が見てこようか」
奈緒は修平の目を少しだけ見つめ返し、それから小さく頷いた。
「修平さん、お願い、できますか?」
「ああ。俺に行かせてくれ」
修平の声は低く、揺るぎがなかった。
「ありがとうございます。私が行くと、たぶん『何でもない』って言うだけだと思うの」
「……俺が行っても、話すとは限らないが」
「うん。でも、修平さんになら、本音をぶつけてくれるかもしれない」
奈緒は場所を伝え、深く頭を下げた。修平は立ち上がり、静かにドアを開けた。
日が落ちかけた町は、夕闇と街灯の光が混ざり合って輪郭が曖昧になり始めていた。
修平が指定された高架下に近づくと、車の走行音がコンクリートに反響する低い轟きに混じって、鋭く乾いた破裂音が規則的に聞こえてきた。硬球が壁に激突する音だ。
その音が近づくにつれ、修平の意識は、救助現場に向かうときのそれに近い集中状態へ入っていった。
高架下の薄暗い空間で、駿は一人、壁に向かって球を投げ続けていた。
修平は離れた位置からしばらくその姿を見た。
フォーム自体は整っている。下半身が主導し、腕が振られ、体重移動もスムーズだ。しかし、手元から放たれる球は、ことごとく本来の軌道から外れ、壁のあちこちに散らばって激突していた。
制球力がないのではない。行き場のない怒りなのか、恐怖なのか、あるいはその両方なのか。
そしてもう一つ、修平の目は重要な事実を捉えていた。駿の右足首の着地が、まだわずかに不自然だった。治ったのではない。痛みに慣れただけの動き。
駿が壁から跳ね返った球を捕球し、再び振りかぶろうとしたとき、修平の姿に気づいて動きを止めた。
「……なんで来るんだよ」
駿の声は、頭上を車が通り過ぎる轟音の中でも、はっきりと修平の耳に届いた。
「その足で投げ込みを続けるのは、勧められない」
修平が静かに歩み寄る。
「またそれですか」
「悪化すれば、大会に響く」
「説教しに来たんですか」
「違う」
駿は、ボールを強く握りしめた。
「……じゃあ、受けてくださいよ」
挑戦的な目が修平に向けられる。
「え?」
「母さんと結婚したいなら、俺の球くらい受けられるでしょ」
無茶な要求だった。
だが、修平はわずかな躊躇も見せずに頷いた。
「……分かった。受けよう」
修平はジャケットを脱ぎ、近くのブロックに置いた。シャツの袖を捲り上げ、駿の正面、数メートル離れた位置に静かに立つ。
駿は自分の足元にあった予備のグローブを、無言で修平に向かって放った。
修平はそれを左手で受け取り、手を入れようとした。
入らなかった。分厚く節ばった指が、高校生用サイズのグローブの奥まで届かない。
「……少々、規格が合わないようだ」
修平が大真面目に言うと、駿は呆れたように顔をしかめた。
「手、でかすぎなんだよ」
「善処する」
「グローブに善処とかないから」
駿のツッコミが、一瞬だけ場の緊張を緩めた。しかし、すぐにまた元の重い空気が戻る。
「いくぞ」
駿が振りかぶり、第一球を投じた。
パンッ。
乾いた音が高架下に響く。修平はかろうじてウェブの先端で球を捕らえた。衝撃が左手から肩へと抜ける。
「いい球だ」
修平がボールを投げ返す。その軌道は山なりで、不器用だった。
駿は無言で捕球し、すぐに二球目を投じた。
三球目、四球目。最初はまだ、修平の構えた位置に近いところへ飛んできていた。しかし球数を重ねるごとに、駿の口から抑え込んでいた感情が漏れ出し始める。
「言っただろ!」
ボールが修平の右膝付近をかすめ、壁に激突した。
「母さんのところに、もう来るなって!」
次の一球は、修平の頭上を越えていった。
駿の言葉が荒れるにつれ、球筋は完全に外へ逃げ始めた。修平の左手に収まりきらないグローブが、不格好な音を立てて球を弾く。
それでも、修平は構えを解かなかった。
駿が一段と高く足を上げた。
次の一球が、修平の胸元へ浮いた。
修平の反応が半歩遅れた。硬球はグローブの縁を弾き、修平の左肩口を直撃する。
「ぐっ……」
修平は一瞬だけ目を細め、右手を肩に当てた。鈍い痛みが走る。骨には異常はないだろうが、決して軽い衝撃ではなかった。
駿の動きが止まった。
「何だよ。全然じゃん」
駿の声が、少しだけ震えていた。
「すまん。今のは俺の失投……いや、失捕だ」
修平は肩を軽く回し、痛みを確かめながら言った。退くほどではない。退いていい場面でもない。
「そういうの、いいから」
駿は手元に残っていた最後のボールを強く握りしめ、修平を真っ直ぐに睨みつけた。
「何で、母さんと結婚したいんだよ」
修平はすぐには答えなかった。
駿が一歩、間合いを詰めた。
「いい人ぶっても無駄だから。あんたがちゃんとしてるのは分かってる。母さんが笑ってるのも分かってる。……でも、だから余計に嫌なんだよ」
「……嫌、か」
「当たり前だろ。仲良くなって、またいなくなったらどうすんだよ」
駿の声が、わずかに掠れた。
「父さんが死んだとき、母さん、ずっと変だった。笑ってても、全然笑ってなかった。俺、見てたから」
駿の目は、今ここではない場所を見ていた。
「だから俺が守るって決めたんだよ。母さんのこと。あんたみたいな危ない仕事してる人に、任せられるわけないだろ」
修平は、黙って聞いていた。
「……君の言う通りだ」
修平は、ゆっくりと頷いた。
駿の眉がひそまる。
「俺は仕事を辞めない。現場にも出る。そして、現場に出る以上、必ず無事に帰ると約束することもできない」
「だったら!」
「君のお父さんの代わりにもなれない」
「だったら何で引かないんだよ!」
駿の叫びが、コンクリートの壁に反響した。
「引けない」
「何で!」
風が、高架下を通り抜けていった。
修平は、グローブをはめた手をゆっくりと下ろした。
「……怖いからだ」
「は?」
駿が、予想外の言葉に目を瞬かせた。
「今まで、命を粗末にしてきたつもりはない。現場で"死にたくない"と考えたことはなかった。だが、今は違う」
修平は駿の目を見たまま、声を落とした。
「君たちを残して死ぬことを考えると、怖くてたまらないんだ」
駿の顔から、怒りが少しだけずれた。
代わりに、何かが頭をよぎったように、駿の手がわずかに震えた。
「……何だよ、それ」
「はは、情けない話だ」
「レスキュー隊長が、そんなこと言うのかよ」
「ああ。笑いたければ笑ってくれて構わん」
「笑わねえよ」
駿は、顔を背けた。
「……引くわ」
「そうか」
「でも、それで母さんを任せろってなるわけじゃないからな」
「当然だ」
「……なんだよ、調子狂うんだよ。もっとこう、俺が全部正しいみたいな顔で来ると思ってたのに」
「そのつもりはなかったが、結果としてそう見えたなら、俺の落ち度だ」
「そういうとこなんだよ」
駿は、手の中のボールを弄りながら、ぽつりと言った。
「俺、ずっと思ってたんだ」
「……ああ」
「母さんを守るのは、俺しかいないって。父さんはいないし、母さんは大丈夫そうな顔するし。だから俺がしっかりしなきゃって」
「立派だ」
「うるさい」
「だが、十七の君が一人で背負うには、重い」
修平は、駿から視線を逸らさなかった。
「俺は君から、その役目を取り上げたいわけじゃない。ただ、一人で持たせたくない」
「……何でそこまで言えるんだよ」
駿が、絞り出すように問う。
「家族に、なりたいからだ」
「……」
「君のお父さんの代わりにはなれない。君を悲しませないとも、絶対に言い切れない。それでも、奈緒さんと君のいる場所へ帰りたい。帰るために、生きていたい」
駿はしばらく何も言わなかった。足元の小石を蹴飛ばす。
「……何か、ずるいな」
「すまん」
「謝んなくていい。そういう意味じゃない」
駿はボールを正しく握り直し、修平を見た。
「……次は、ちゃんと捕れよ」
「努力する」
「努力じゃ困る」
「善処する」
「それも微妙」
駿の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「絶対死ぬな、とかは言わない。でも、死にそうになったら意地でも帰ってこい。母さんのために」
駿の声はまだ少し硬かったが、その中に、祈りに似た何かが混じっていた。
「……俺も、また葬式とかもう無理だから」
修平の喉が、わずかに動いた。
「了解した」
「返事が隊員への命令みたいなんだよ」
「すまん」
「だからそういうとこだって」
駿は顔を背けたまま、耳の先だけ赤くしていた。
「……まだ全部認めたわけじゃないからな」
「ああ」
「ちゃんと見てるから。あんたのこと」
「厳しい監督だ」
「当然」
少し間があった。
駿は地面の小石を蹴ってから、ぼそりと言った。
「呼び方は、まだ決めてないからな」
「それでも十分だ」
「調子に乗るなよ」
「心得た」
駿が「構えろ」と短く言った。
「ああ」
修平は、規格の合わないグローブを構え直した。
駿の腕が振られる。今度の球は速いが、先ほどよりもまっすぐ、修平の胸元を目指して飛んできた。
すっかり日が落ちた帰り道。
駿は修平の一歩前を歩いていた。もう、逃げるような早歩きではない。修平は歩幅を駿に合わせ、一定の距離を保って歩いた。
不意に、駿が言った。
「……高村さんって、怖いのに続けてるんですね」
「ああ」
「変な人ですね」
「よく言われる」
「たぶん褒めてないです」
「だろうな」
駿は少しだけ笑った。
「でも、まあ……ちょっとだけ、分かった気はします」
「そうか」
「母さんには言わないでください」
「なぜだ」
「……なんか、負けた感じがするんで」
修平は、わずかに口元を緩めた。
「了解した」
少し歩いてから、駿の視線が修平の左肩をかすめた。さっきの硬球の重さを、投げた本人が忘れているはずがなかった。
「……肩、大丈夫なんですか」
「問題ない」
「……なら、いいです」
途中、駿が一度だけ、足首をかばうような歩き方をした。修平はそれを見ていたが、何も言わなかった。
奈緒のマンションに到着し、ドアを開ける。
「……ただいま」
「もどりました」
玄関には、心配そうに二人の帰りを待つ奈緒の姿があった。
奈緒はすぐに何かを聞こうと口を開きかけたが、並んで立つ二人を見て、言葉を飲み込んだ。
駿の肩は、出て行ったときよりも少しだけ力が抜けているように見えた。修平のシャツの肩口には、土の汚れがついている。
奈緒は何かを察したように、少しだけ笑った。
「……おかえりなさい」
その声は、温かかった。
「お風呂、沸いてます。修平さんからどうぞ。駿はその後ね」
「俺、食後でいい」
駿が即座に言う。
「では、俺もあとで」
修平が真面目な顔で譲る。
「そういうところで張り合わないの」
【高村修平の独白】
肩口が、まだ痛む。
高校生の投げる球を、俺は取り損ねた。
情けない話だ。
だが、その痛みが妙に残っている。
現場で負う痛みとは違う。
訓練の痣とも違う。
帰らなければならない場所から投げられた痛みだった。
俺はこれまで、要救助者を帰すために生きてきた。
部下を帰すために、現場に立ってきた。
だが今は違う。
俺自身が、帰らなければならない。
奈緒さんと、駿君のいる場所へ。
死ねない、では足りない。
生きて帰る。
どれほど格好悪くても、這ってでも。
……まずは、肩を冷やすぞ。
明日、隊員に見つかったら確実に笑われる。




