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最終話 メイドは聖女のナナメ後ろにいる

 長い沈黙が、春の陽だまりの中に落ちていた。


 私は深く頭を下げたまま、テーブルに置かれた『観察ノート』を見つめる聖女様の反応を待っていた。

 教会の教義を根底から覆す、地動説の完全な証明。

 教会の頂点に立つ「聖女」として、彼女がこれをどう受け止めるのか。


 ペラッ、ペラッ。


 聖女様が、ノートのページをめくる音がする。

 私の書いた複雑な計算式や幾何学的な図形を、彼女はゆっくりと目で追っているようだった。


「……ノエル」


 ぽつりと、聖女様が口を開いた。


「はい」

「ワタシ、計算とか難しいお話は、全然わかんないんだけど」


 彼女はノートから顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳は、いつものように澄み切っていて、何の恐れも、怒りも、拒絶も浮かんでいなかった。


「つまり、ノエルが言いたいのはこういうこと?」


 聖女様は、両手を大きく広げて見せた。


「ワタシとノエルは、このおっきな大地っていう丸い船に乗って、お日様の周りをぐるーって回りながら空を飛んでるってこと?」

「……はい。比喩としては、極めて正確です」


 聖女様は、目を輝かせた。


「それって、すっごく楽しいね!」

「えっ……」


 私の声が上ずった。


「だってそうだよ!カミサマが作った動かない地面の上にじっと座ってるより、星たちと一緒に宇宙をぐるぐるお散歩してる方が絶対楽しいよ!だからお空はあんなにキラキラしてて見てて飽きないんだね!」


 聖女様は、何の躊躇いもなく私が恐る恐る差し出した「悪魔の証明」を肯定した。

 異端の学説だとか、教義への反逆だとか、そんな大人の理屈は彼女には関係なかった。

 彼女の純度100パーセントの直感は、宇宙の真理を「楽しい」「美しい」という感覚だけで、あっさりと受け入れてしまったのだ。


「聖女様……。これを肯定すれば、あなたも異端になってしまいます。教会の教えを否定することになるのですよ?」

「いいよ、別に」


 聖女様は、私の手をぎゅっと握った。


「ワタシはノエルの書いたノートの方が好き。だって、このノートはノエルがワタシのナナメ後ろで、ずっとワタシのことを見守りながら書いてくれた、優しい世界の記録でしょ?」

「……っ」


 視界が、急に滲んだ。

 分厚い石壁の向こうに隠されていた私の心を、彼女の直感はいとも簡単に回折して、一番深い場所へ届いてしまった。


 誰も理解してくれなかった。誰も肯定してくれなかった。

 星詠みの異端者として追放された私の真理を、この世界でただ一人、私が一番守りたかった人が、笑って受け入れてくれた。


「……はい。そうです。これは、あなたと私の世界の記録です」


 私は、滲む視界を必死に瞬きで誤魔化しながら、聖女様の手を握り返した。


 ***


 夜。『観察ノート』の最後のページを開く。

 暖炉の前で並んで座り、それぞれにペンを持つ。


 聖女様が、いつもよりさらに大きく元気な文字で書き始める。


【今日、ノエルが世界の本当の形を教えてくれた!ワタシたちはみんなで、お日様の周りを回ってるんだって!すごく楽しくて、素敵な世界だと思った。この一年間、ノエルと一緒にいろんなものを観察して、ノートを書いて、ワタシはすっごく幸せだった!ノエル、ずっとワタシのナナメ後ろにいてね!】


 私はその横のページに、ペンを置いた。

 右側のページには、もう書くべき証明は何もない。

 宇宙の真理は、全て前のページまでに書き尽くした。


 私は、左側の彼女が書いた文章の下に、一行だけ言葉を添えた。


『観測結果は全て真実であった。そして、私の真理は一人の女性によって完全に救済された』


 そこでペンを止め、少しだけ躊躇う。

 私はこの一年間、彼女のことをただ「聖女様」という役割でしか呼んでこなかった。

 名前を呼べば、いつか訪れるかもしれない喪失に耐えられなくなるから。

 だが、もうその防壁は必要ない。

 彼女は役割ではなく、彼女自身の直感で私を肯定してくれたのだから。


 私ははっきりと、その名前をノートに刻み込んだ。


『アストライア。あなたのナナメ後ろこそが、私の世界の中心です』


 ペンを置く。

 ノートを閉じると、二人の一年間の軌跡が、小さな音を立てて完結した。


 ***


 翌朝。

 私はいつものように、時間きっちりに扉をノックする。

 返事がないことを確認し、静かに部屋へ入る。


「朝です。起きてください」


 ベッドで丸まっている毛布の塊を剥ぎ取ると、寝癖で髪を爆発させた女性が「うー……」と唸りながら起き上がってくる。


 私はカーテンを大きく開け、春の柔らかな光を部屋いっぱいに取り込む。

 彼女を鏡台の前に座らせ、クシで丁寧に髪を梳いていく。

 さらさらとした金糸のような髪をまとめ、うなじの高い位置で赤いリボンを使ってしっかりと結ぶ。


 完璧なポニーテールだ。結び目の少し上で、髪がふわりと跳ねている。

 その見事な跳ね具合を、私はそっと指先で愛でた。


「ノエル、今日のお茶のお菓子はなに?」

「春摘みのイチゴを使ったタルトを用意しております」

「やったあ!」


 鏡の中で、アストライアが満面の笑みを浮かべる。

 私はその背後で、静かに一礼した。


 私の仕事は、聖女のナナメ後ろに立つことである。

 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。


 彼女の無防備な背中を守り、完璧なポニーテールを特等席で眺め、そして世界で一番美しい真理と共に、彼女と同じ未来の軌道を回り続けるためだ。


聖女様に関して、名前だけですが出せました。

世界における役割、二人の出会いなど細かな部分が残されていますが、ひとまず区切りをつけることとなりました。

これからも徐々に、ゆっくりと周囲を巻き込みながら、二人の世界は広がっていくことでしょう。


短編版から続いて聖女様とメイドの雰囲気を楽しんでいただけたら幸いです。

評価など反応をいただけると、執筆の参考とさせていだたきます。

是非ともよろしくお願い致します。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

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