独白─瞼の地獄3─
『キーロと一緒に屋敷を出る』という目的の変更を決めてから、私は計画実行の下準備のために奔走する羽目になった。上手く事を運ぶには、まず人間関係での余計な摩擦を取り除かなくてはならない。今のままでは、何を為すにも不都合が多すぎる。なにせ、父親から恐れられるがあまりイゼドに行動を監視され、この家の人間としての権限も制限されている状況だ。
他者との衝突を極力防ぐために、円滑なコミュニケーションを練習した。どんなに下らない話にも、何らかの返答をするようにした。キーロに軽々と抱き上げられてばかりいるのが不服だったので、体を鍛え始めた。年相応よりも少し大人びている程度の立ち振る舞いを演じた。キーロの表情を観察して、同じように笑えるよう努力した(鏡に向かって表情を作る練習していたらキーロに爆笑された)。何度やっても彼のような魅力的な笑顔は作れなかったが、月日を重ねるごとに周囲の反応は明らかに変わっていった。
以前は廊下で鉢合わせしただけで顔を引きつらせ、場合によっては逃げるように迂回していた使用人たちが、私を避けなくなった。私の一挙手一投足に嫌味を浴びせかけていた同級生たちが、生産性のある討論を持ちかけてくるようになった。私を恐れ、忌避していた父親が、私を自室に呼び出して仕事の話をしてくるようになった。
それらは別に嬉しいことでも何でもなく、キーロと魔術薬の調合以外に裂く時間が増えてしまったことは大変遺憾だったが、計画に使えるカードを増やすため、これも必要な準備だと割り切る。治まりつつあった頭痛が再発しても、過剰服薬一歩手前の鎮痛剤で誤魔化した。
全ては目的を遂行するためであり、こうして屋敷の人間が寝静まった夜半に継母の呼び出しに応じるのも、計画を早急に進めるにあたって仕方がないことなのだ。
約二年前に改築された継母の部屋は、私の自室とそう変わらない広さだった。父が亡き実母フィオーレの部屋を何もかも生前のまま保存したがったため、継母には昔兄が使っていた部屋を割り当てたせいだ。
猫足のソファーに腰掛けた年若い夫人は、華奢な扇子に溜息を隠す。
「あの人、結婚以来ずっと私を放っておいて仕事ばかり。歳も離れているし、忙しくて仕方のない部分はあるのかもしれないけれど、誕生日にも顔を合わせてくれないなんて酷いと思わない?」
側に控えるのは、彼女が実家からたった一人連れてきた口の固いメイドだけ。サイドテーブルに並ぶのは、このまま大人しく眠るには不都合な、濃い紅茶と甘い甘いチョコレート菓子。あまりに判り易い小道具に浮かびかけた冷笑を堪え、共感の相槌を打っておく。
父は継母に対して、妻としての役割を求めなかった。父が欲しかったのは、あくまでも不良息子を更生させてくれる『良き母』であったためだ。喪って十七年の時が流れても、父の心は実母に囚われたままらしい。
画策は再婚初日に──私のせいで──失敗し、両家の体面のため離婚することもできない父は、ともすれば親子ほどの年が離れた女を持て余すこととなった。一応負い目は感じているらしく、父は継母が欲しがるものは何でも与えた。ドレスも、宝石も、時には遊び相手も……よほど一族の品位を貶めるような要求でない限りは、彼女の好きにさせていた。
元より名家の育ちで、欲しいものなど手に入れ尽くした彼女が何故今更それらを要求するのか、彼女が本当に求めているのが何なのか、知ろうともせずに。
おかげで私は、継母が抱える孤独に付け入ることが出来る。キーロの権利書の買取を渋る父親に、求めたものが何でも与えられるその特権でちょっとした手助けしてもらうことなど簡単なことだ。
「こんなんじゃ毎日退屈だわ。私も貴方みたいに、愛玩動物でも飼ってみようかしら。楽しい?」
「さぁ、どうでしょう。試してみますか?」
言外の意味を滲ませる、というのも慣れたもので。ちょうど彼女が指先で摘んだチョコレートを上目遣いで咥えると、熱っぽく揺れる瞳と視線が合った。
実母の生き写しでありながら、不思議とこの容姿は女性の好感を得やすいらしい。そこにキーロを観察して学んだ仕草を混ぜ込めば、直接的な言葉を使わずとも彼女達の行動を操ることが出来た。非常に便利だ。あのとき顔の皮を剥がなくて正解だったとつくづく思う。
むこうから伸ばされた手を捕らえてしまえば、意図した成果は約束されたも同然だった。
「お継母様。このお遊びの褒美に一つ、私の我が儘を聞いて頂けませんか?」
目的を達成するためなら、なんだってやると決めた。多少の精神的苦痛など、構ってはいられない。
とうに日付を跨いだ廊下は、冷たい月明かりに蒼く照らされていた。気怠い身体を引き摺るようにして歩きながら、重い息を吐く。こめかみがズキズキと激しく痛むが、座り込むわけにはいかない。こんな夜更けに出歩いているところを使用人に目撃されたら、最悪その人間を抹消しなくてはならなくなる。
鎮痛剤のストックはまだあっただろうか、と静かに自室の扉を開くと、予想していなかった明るさが目を刺した。
「おー、おかえり……って、どうした⁉︎ 顔真っ青だぞ」
カウチに寝ぞべっていたキーロが飛び起きる。彼の手元には妖精図鑑が広げられ、暖炉には柔火が灯っていた。
「……先に休んでいて構わないと言ったはずだが」
動揺のあまり「ただいま」も言い忘れ、自分でも驚くほど冷たい声が出た。
キーロは金の猫目を丸くしたが、すぐに拗ねたような表情を浮かべ「部屋の主人より先に寝られるわけねぇだろ」と言い返してくる。
「大学が遅くなるときはいつも遠慮なく寝ているだろう」
「それはそれ、これはこれ。……大学より、家にいるときのお前の方が心配だからな」
身長が伸びるにつれて、キーロがあからさまに私を子供扱いすることは減っていった。ようやく私との歳の差が一歳しかないことに気が付いたのか、以前より遠慮のない物言いもする。それは喜ばしいことであるはずなのに、時折今のように保護者じみた言葉を吐く彼も嫌いではないのが困りものだ。
黙っている私をどう思ったのか、具合悪いなら早く寝ろ、とキーロが眉根を寄せる。本当は今すぐ布団に沈みたいほど疲れていたが、このまま眠るのは耐えがたいほどに不快だ。
「……風呂に入ってから寝る」
「分かった、待ってる」
「何故待つ。寝ていろ」
「馬鹿。風呂で溺れねぇか心配してやってんの」
三日前の前科があるため何も言い返せない。計画実行の期日が迫り、最近は寝る間も惜しんで準備を進めているせいか、少し気を抜くと瞼が重くなってしまうのだ。
キーロは大きなため息を吐くと、掌の上に熱を宿した金の矢を編み上げ、浴室目掛けて放り投げた。
タオルと着替えを持って浴室に入り、閉めた扉伝いに蹲み込む。浴槽の蛇口を捻って水を注ぎ、キーロの魔術で沸かされた熱湯に混ぜる。水嵩の増していく浴槽をぼんやりと眺めながら、先程のキーロに対する自分の態度が不自然でなかったかを反芻する。
キーロには朝のうちに、父と話があるので遅くなると伝えていた。きっと彼の中の私は、また父親と上手くやれずに癇癪を起こした事になっているのだろう。大丈夫、大丈夫だ。脱いだ服を洗濯籠ではなくゴミ箱に突っ込み、冷たい水を頭から被った。実際にはもう無いはずの他人の温度を取り除くように、タオルに石鹸をつけ、無心で皮膚を擦る。
はっと我に返ったときには、冷水と摩擦で手足が真っ赤になっていた。まだ感覚が残っている気がして不快だったが、寝ずに待っているキーロをあまり待たせるわけにはいかない。もう一度だけ手を洗うと、すっかり温くなってしまった湯で泡を流す。ひとまず納得がいくまで水を浴びて浴室を出ると、キーロはまだソファに座って図鑑を開いていた。
「あ、こら。ちゃんと乾かせっていつも言ってるだろ」
彼は私の髪の先から滴る雫を目ざとく見つけると、私をソファに座らせ、自分は背凭れの後ろに回り込んだ。乾いたタオルを頭に被せ、軽く叩くようにして水分を拭き取っていく。
「しかも擦り過ぎで赤くなってるし……」
お前は皮膚が弱いんだから云々と小言をいいながらも、触れる手は優しい。
気がつけば、あの打ち付けるような頭の痛みは引いていて、疲労よりも、心地よさで目蓋が重くなってきた。眠い、寝たい。それなのに、妙に話し足りない気がする。もっとキーロの声を聴いていたい。
キーロの声は不思議だ。高くもなく、低くもなく、よく通るが落ち着く。もしも音を可視化できるとしたら、キーロの声はきっと、暖かくて柔らかい完全な球体の形をしているだろう。
そんな取り留めのないことを考えながらうつらうつらしていたら、「……今日、何かあったのか?」と上から顔を覗き込まれた。どれだけ平静を装おうと、キーロはいつも些細な変化に気付いてしまう。心配そうに顔を歪める彼に、なんでもないと首を振った。
「すこし、つかれただけだ」
安心させようと言った言葉に、彼はさらに眉を寄せた。手早く髪を乾燥させ終えると、ぐいぐい腕を引っ張られる。
「ほら、こっちこい。はやく寝るぞ」
「私の記憶違いでなければ、昨日君から接触禁止令を出されていたはずだが」
「そりゃお前が寝ぼけて噛むからだろ」
「別に寝ぼけていたわけではない」
「なおさら悪質なやつじゃん」
だって美味しそうだったから。
そんなことを言えばキーロの機嫌を損ねることは分かっているので、私は口を噤んだ。また接触禁止を言い渡されたら困る。
おりゃ〜と、気の抜けた掛け声と共にベッドに投げ込まれ、毛布を頭から掛けられる。少しヒリつく背中の爪痕。隣に寝転んだキーロの方を向くと、親指で眉間をぐりぐりと押された。さっさと寝ろと言いたいらしい。
「キーロ」
「だから、何だよさっきから」
シャツからのぞくキーロの鎖骨に、昨日私が噛みついた跡が浮いているのが見えた。滑らかな褐色、柔らかな筋肉。やはり美味しそうだ。煽られそうになる気持ちを鎮めるため、無理に視線を逸らす。
「どこか行ってみたい場所はあるか?国内でも、国外でも」
突然話を振られたキーロは、行ってみたい場所ぉ?と訝しげな声を出した。横寝して頬杖をつき、私の腹の上をぽんぽんと軽く叩く。完全に寝かしつける態勢だ。抗い難い。
「なに?旅行にでも連れてってくれんの」
「そうではないが、参考までに聞きたい」
「ん〜……暖かいトコとか?」
「南の方の国か」
「んや、暑いのは嫌い。冬は適度に暖かくて、夏は適度に涼しいとこがいい。雨季は短め、海の近くだとなお良し」
キーロの挙げた条件は、彼の故郷であるエルム公国の気候と概ね一致していた。本人は故郷のことはよく覚えていないと言っていたが、やはり薄らと懐かしさを感じているのかもしれない。
残念ながら国に帰してやるつもりはないが、晴れて自由の身になれば、似たような場所に連れていってやることくらいは出来る。なんといっても、我々の最終目的地は流浪の空中都市、メザリアなのだから。
「覚えておこう」
「いや、だから何の話だって」
何の話題かと訊かれれば、この屋敷から出た後の話題なのだが、まだキーロには詳しい計画を伝えていなかった。ギリギリまで秘密にして、驚かせてやりたい。そんな子供っぽい企みをして浮かれる程度には、キーロとの人生に夢を見ている。
けれど、もし。
もしも、キーロが私と来ることを拒否したら?
頭をよぎる不安に溜息をつく。キーロは最近、やたらと私に『幸せな家庭』とやらを築くことを勧めてくるのだ。父親と同じように、安定した仕事と妻子を手に入れるべきだと。誰の入れ知恵なのかは解らない(おそらくセシルあたりだろう。彼は念入りに抹消せねば)が、キーロはその世迷言を理想だと思い込んでいるらしい。
誰よりも人の気持ちを推し測るのが上手いくせに、私よりも他人の期待を優先する彼に苛立つ。
どうしたら、どうすれば、君はずっと一緒にいてくれるのだろう。近頃は暇さえあればそんな事を考え、キーロを確実にそばに置くための方策を考えている。
一番最初に思いついたのは、依存性のある魔薬で縛りつける方法。けれどすぐに却下した。私自身に依存してくれなくては意味がない。
次に考えたのは手足の自由を奪ってしまう方法。この案もすぐに捨てた。キーロの四肢は自由に躍動しているときが一番美しい。ホルマリン漬けにして鑑賞するのは味気ないだろう。
思いついては消す思考を何度も繰り返し、先月ついに生き物の性別を変える魔術薬の研究にまで手を出してしまった。そんなに結婚してほしいなら君が私と結婚しろ、という捨て鉢な気持ちで調合したからだろうか。実験はあと一歩のところで失敗し、魔術薬を投与したあと人工授精を施した元雄のモルモットは、腹部が破裂して死んだ。
堂々巡りする思考に、ついには黒髪金眼の子供の悪夢まで見るようになっていた私は、そこでようやく目が覚めた。私はキーロと結婚したいわけでも、子供が欲しいわけでもない。ただ、魔術が普通に使える土地で、キーロと静かに暮らしたいだけなのに。それだけのことが、こんなにも難しい。
「考え事か?眉間にシワ寄ってんぞ」
「君のことを考えていた」
「ふぅん、そりゃ光栄だね」
「今日も明日も明後日も、君が傍にいる保証がほしい」
「おいおいおい、本当に今日どうしちゃったのよ」
情緒不安定か、寂しんぼちゃん。と呆れながらも、私と目が合うと「……仕方ねぇな」と言葉を詰める。約三年の観察で、キーロがこの角度で見上げる私に甘い対応をしがちであることは実証済みだ。
「大丈夫だよ、お前が眠っても、朝になって目が覚めても、俺はお前のそばにいるからな」
だから安心して寝な。と、頭を抱え込むようにして抱き締められた。彼が私を宥めようとするときは、何故かだいたいこの体勢だ。微妙に核心から逸らされた返答だというのに、それも良いかと絆されてしまうのが困る。
くっついた胸から、キーロの心音が聴こえた。肺を侵食していく肌の匂い。この距離感が一番落ち着く。囁くような子守唄が耳に届いて、私は今度こそ瞼を閉じた。
どんな犠牲を払ってでも、キーロの言葉を真実にしよう。彼が他の選択肢を選ばぬように、私以外の全てを彼の視界から取り除こう。
『俺はお前が笑っていれば嬉しいし、悲しんでいればどうにかしてやりたいと思う』
そう言って微笑んだキーロを思い出す。彼がどれだけつまらない世間の目とやらを気にしようが関係ない。私が望みを叶え、煩わしい足枷を取り払えば、きっと彼は喜んでくれる。
だって、私の喜びはキーロの喜びであり、私の悲しみはキーロの悲しみであるのだから。




