ep.09 ぶどうの丘
時刻は午後一時過ぎ。俺たちは平日の人で溢れかえる新宿駅へと来ていた。
山梨を目指す『特急かいじ』が来るホームは九番線。利用者が少ないのか、そこだけは閑散としていた。
「このホームでいいんだよなぁ?」
敦が後ろから気だるそうな声をだした。
「にしても、ここだけ異様に人がいないんだな」
「このホームは山梨方面に向かう特急しか来ないからなぁ。平日のこんな時間に乗る人もいないんだろ」
周りに目を向けてみると、向かいのホームは学生やらサラリーマンでごった返していた。やはりこの九番線だけはまったく人がいない。今からものすごく遠くへ行くような——言葉にし難い感情が俺を襲った。
「山梨は暑いって聞くぞ。タオルとか持ったか」
「おう、ばっちりだ。途中で水とかも買おうぜ」
敦と兼保がそんな他愛ない話をしている最中も、俺はこれから起こることに思いを馳せていた。
「本当に行くんだな、山梨」
俺が不安げに言うと、敦に「あたりまえだろ」と返された。
そうだ、行くんだ。山梨に。
絵梨花の故郷である山梨——ぶどうの丘に。
そうこうしているうちに、見慣れない電車がホームに流れ込んできた。真っ白な車体に、紫、ピンク、緑、黄色のカラーアクセントが施されたかわいらしい電車だった。
「おお、これがかいじか」
「なんだか特急列車って感じだね。遠出するって気がしてきたわ」
初めて見る車両に敦と兼保ははしゃぎ、我先にと中へ乗りこんでいった。その様子を見て苦笑いしつつも、俺も逸る気持ちでいっぱいだった。
「全然人乗ってないじゃん! 快適だ!」
敦はそう言いながら、自由席車両の一番後ろの席を陣取った。俺と兼保は、敦と通路を挟んだ横の席に並んで腰掛けた。
発車すると、車窓からの眺めは目まぐるしく変わっていった。
中野、三鷹、八王子、列車が進むにつれて都心からは離れて、風景も穏やかなものへと変化していく。その光景は、どこか絵梨花のルーツを辿っていくような気がして、俺は目を離さずにずっと眺めていた。
高尾を越えたあたりからわかりやすく建物が減り、山ばかりの景色に変わった。そして大月を越えて、長いトンネルを抜けた先に見えた風景は——
「ぶどうの丘だ」
列車はちょうど山の斜面を走っていて、甲府盆地が一望できた。山の麓には山梨の街が広がっている。さらにその街の向こうには、いわゆる南アルプス山脈だろうか。青空の中にくっきりと稜線を浮き立たせて山々が連なっていた。
そして、列車のすぐ下には——青々としたぶどう畑がいくつも広がっていた。
世界が変わった、そんな気がした。
ここは間違いなく——絵梨花の故郷であるぶどうの丘。
「こりゃ絶景だねぇ」
敦がほう、と息を漏らして呟いた。
来たんだな。山梨に。
勝沼ぶどう郷駅で降りると、じっとりと体に張り付くような熱気に包まれた。
あっという間に、全身から汗が噴き出した。鼻から数回息を吸い込み、すぐに気づいた。
空気が東京のそれとは全然違う。草木の鼻をつく匂いと、土っぽい野性的な匂いと、なにか焦げたような匂い。
それはどこか懐かしさにも似た——そんな空気だった。
駅舎から出ると、至るところから蝉の鳴く喧しい声がした。
「新宿から一時間半くらいで来れるんだな」
そんなことを言いながら、俺たちはとりあえず歩みを進めた。
駅の前には広い道路があったが、車が通る気配はまったくなかった。路傍には軽トラックが停車していて、近くで地元の人と思われる初老の女性が立ち話をしていた。
その道からの見晴らしも良く、遠く麓の街が一望できた。そして真下には、一面ぶどう畑と思われる緑が鮮やかに広がっていた。
駅舎の方を振り返ると、山の斜面側にも同じように、一面青々としたぶどう畑が広がっていた。
目に映るすべてのものが鮮やかで、生きる力に溢れている。時折吹きぬける風の熱気でさえ、どこか心地の良いものに感じられた。
「あっついなー、山梨ってこんなに暑いのか」
「暑いけどさ、すごく良い景色だ」
敦と兼保は、鉄製のガードレールに寄りかかり、遠くを眺めて噛みしめるように言った。
「一緒だ」
俺がぽつりと呟くと、兼保が「なにが?」と返事をした。
「絵梨花の描いてた絵と——同じ景色なんだよ」
「当たり前だろ。ここが絵梨花の地元なんだから」
敦はどこに忍ばせていたのか、眉根を寄せて団扇を扇いでいた。
「わかってる。わかってるけどさ——」
気づくと、俺の目には涙が溜まっていた。
「本当に、本当にあったんだなって」
「ノリ……」
兼保は心配そうな表情で俺を見つめていた。
「絵梨花も……絵梨花も一緒に来たかったなぁ……」
そう言うと、目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
いつも四人で一緒にいた。この景色だって、本当なら四人で見れたはず。けれど、ここに絵梨花はいない。
わかっていたことだが、その事実が確固たるものだと突きつけられた気がした。
ふと、顔に生温い風が当たるのを感じた。敦が仏頂面で俺に向けて団扇を扇いでいた。
「絵梨花の想いを叶えに来たっていうのに、お前が泣いてちゃ絵梨花だって悲しむぞ」
「敦……」
敦はにかっと溌剌に笑った。
「それに絵梨花はいつだって一緒にいるさ。俺たちがこうして覚えてるんだからな」
そう言うと、団扇でぽんと俺の頭を叩いた。
続けざまに、背中を叩かれた。振り返ると、涙目で笑っている兼保がいた。
「さ、行こうぜ。ここから少し歩けば、甲州アートスクールだ」
そうだ。俺は行かなくてはいけない。
絵梨花がいなくなってしまった悲しみ、絵梨花への後悔、それらを晴らすために俺はここまで来た。敦と兼保だっている。俺は前を向くんだ。
駅前の道を右に進んで歩くと、しばらくは線路と並走するような景色が続いた。
途中で小道に入ると、道の両側に桜の木が植えられていて、木漏れ日のトンネルのようになっていた。風で木々の葉が揺れ、そのたびに木漏れ日もちらちらと瞬いていた。夏の強い日光で、その木漏れ日の明滅はくっきりと道に浮かび上がっていた。
川を流れる水の煌きのように、揺れて、消えて、浮かんで、を繰り返していた。その中を歩くと、自分の体にも木漏れ日がさらさらと通りぬけ、不思議な気分になった。
木漏れ日のトンネルを抜けると、また容赦なく太陽が俺たちに照りつけた。四方から聞こえる、止むことのない蝉しぐれも蒸し暑さに拍車をかけた。
次第に暑さで頭がぼーっとしてきて、歩いている自分の足が自分のものでないような気がしてきた。
持参したタオルで顔の汗を拭うと、俺は兼保に「まだかぁ」と弱音を吐いた。
兼保はしかめ面でスマホとにらめっこした。
「この踏切を渡った先にあるはずだ」
そう言って、兼保は前方を指差した。しかし、踏切の向こうに見えるのはぶどう畑ばかりで、それらしきものはなかった。
「本当かよぉ」
不平を鳴らす俺と敦はよそに、兼保は一歩前を進んで「いいから来い」と手招きした。元々敦が調べて見つけた場所なのに、いつの間にか兼保が案内役のようになっていた。
踏切を越えてしばらく歩くと、兼保は民家らしき家の前で立ち止まった。
「ここだ」
その家は、ごく普通の三階建てほどの一軒屋で、車庫の横にぶどう畑が隣接していた。庭は広く一面芝生で手入れが行き届いている。玄関まで続く道には色とりどりの花が植えられていた。
大きい家ではあるけど、普通の家じゃないか——と思うとマリーゴールドの植えられた庭先に「甲州アートスクール」と書かれた看板が立っていた。




