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ep.10 アートスクール

「ここで間違いなさそうだな。案外、普通の家っぽい感じだけど」

 敦は忙しなく団扇を扇いでいた。ここに来るまでの暑さは相当過酷なものだったので無理もない。


「じゃ、行ってみるか」

「でも——」敷地内に入ろうとした二人を呼び止めた。「車庫に車がないってことは、留守なんじゃないのか」


「まあその可能性もあるけど、ここまで来たんだし訪ねたもん勝ちだろう」

 俺の制止は意に介さず、敦と兼保はずんずんと進んでいった。

 ここから先は絵梨花にとっての思い出の場所かもしれない。絵梨花にとって大事な大事な——俺なんかが足を踏み入れていいのか。


 そんなことを考えて動けずにいると、敦が俺を呼んだ。

「何やってんだ。ノリ、お前が来なくちゃ始まらねえだろう」

 そう言われて、俺ははっとした。いつまでくよくよしているんだ。さっきも思っただろう。前に進まなきゃ何も始まらない。


 心のなかで「絵梨花、行くからな」と念を押し、俺は甲州アートスクールの敷地の中へと入っていった。

 二人に追いつくと、すでにインターホンを押したあとだった。しばらく待つと、中から足音が聞こえてゆっくりと木製の洋風扉がひらいた。


「はい、お待たせしました」

 出てきたのは愛想の良い初老の女性だった。銀色の眼鏡をかけ、首元には真珠のネックレスが光り、上品な印象を受けた。

 俺たち三人へ順番に目を向けると「どちら様……?」と首を傾げた。

 すると兼保に(ノリ、お前が)と背中を叩かれた。


「申し遅れました。僕たち川原絵梨花さんの大学の友人で……」

「まあ、絵梨花の」

 女性は目を見開き驚いたように言った。


 俺の耳元で敦が(よっしゃ! ビンゴだぜぇ)と小声でささやいた。準備の良い兼保は「突然お伺いしてすみません」と前置き、学生証を取り出して見せた。


 女性は眼鏡を外してそれを確認すると「あら、確かに絵梨花の通ってる大学ね」と微笑んだ。

「でも、絵梨花の大学のお友達がどうしてこんなところまで?」

「それは……」

 話すことを考えていなかった俺は言い淀んでしまった。正直に言うのも気が引ける。


 すると咄嗟に敦が割って入った。

「僕たち、絵梨花とすごく親しくしてたんですよ。もちろん大宮の葬儀にも行きました。それで……残された僕たちに何かできないかと思いまして、絵梨花のゆかりの地である山梨を巡っているんです。それでここにたどり着きました」

「あら、そういうことなんですね」

 女性は警戒心が解けたのか、軽やかに破顔した。


 さすが敦。よくもまあ瞬間的にそこまでぺらぺらと口から出てくるものだ。敦のおかげで女性の表情が緩んだので、俺は切り出した。


「突然お伺いして大変不躾なお願いなんですが……もしよければお話を聞かせてくれませんか」

「ええ、いいですよ。暑かったでしょう? 中へ入ってください」

 そう言うと女性は俺たち三人を招き入れた。


 家の中はクーラーがよく利いていてひんやりとしていた。蒸し風呂のような猛暑の中を歩いてきた俺たちは、入るやいなや「涼しい」と言葉を漏らしてしまった。女性は、そんな俺たちの様子を見てくすくすと笑っていた。


「ちょうど夕方から生徒が来るんですよ。冷房つけておいて良かったわ」

「お忙しい時にすみません」

「いいのいいの。今冷たい飲み物を持っていきますから、教室の中にいてください」

 女性はそう言い残すと奥の階段をのぼっていった。


 一階は教室用のスペースなのか、玄関から続く広々とした廊下がすべて土間のようになっていた。そして、奥にある二階へと続く階段の下にたたきのような場所があり、家の人のものと思われる靴が並べられていた。


 廊下の右手に木製の扉が二つあり、手前の扉に「甲州アートスクール」と印字された薄紫の金属板が取り付けられていた。敦が何を言うでもなくその扉をあけ中に入っていくので、俺もそれに続いた。


 教室の中は、思ったよりも小さくまとまっていた。

 入るとすぐ、ほのかにバラの花のような甘い香りがした。美術室特有のこもったような匂いはしなかった。

 中央に学校で使うような机が四つまとめて置かれていて、入って右側に黒板があり、左側には水道が設置されていた。デッサン用に使うのだろうか、窓際の棚には彫りの深い顔をした石膏像がいくつも並んでいる。

 部屋の片隅には丸椅子が山のように積み重ねられ、イーゼルが無数に立てかけてあった。

 学校の美術室をそのまま小さくした、そんな印象を受けた。北向きの部屋なのか昼間だというのに部屋全体が薄暗かった。


 振り返って廊下側の壁に目を向けると、生徒の作品とおぼしきデッサン画が無数に貼りだされていた。もしかしたらこの中に絵梨花の作品もあったりするのだろうか。


「ふう、この中も涼しいな。とりあえず座って待ってようぜ」

 敦は部屋の隅にあった丸椅子を勝手に三つ出して座り始めた。


「あのおばさんが先生なのかね」

 しげしげと部屋のなかを見渡しながら敦がぽつりと言った。

 それは俺も気になっていた。もしあの品の良い女性が先生だったとするなら、絵梨花の好きな人がここの先生だという線は消える。


「それも聞いてみたらいいんじゃないか。気さくな人だったし色々聞かせてくれそうじゃないか」

 兼保は鞄からタオルを取り出し、額の汗を拭っていた。

「ともかくだ。ここが絵梨花の通っていた画塾ってことは間違いない。一歩前進だ」

 兼保は満足そうに口角を上げ、俺と敦の方を見た。そんなことを話していると、奥の扉からあの女性が入ってきた。


「お待たせしました」と言いながら中央の机にお盆をおくと、氷がごろごろ入った麦茶のグラスを直接手渡してくれた。カランカラン、と氷のぶつかる夏っぽい音が響いた。


 なぜだか胸の鼓動が高鳴ってきた。

 高校時代、絵梨花もここでこうして過ごしていたんだろうか。その時絵梨花はどんなことを思っていただろうか。まさかこんなことになるなんて、きっと思いもしていなかっただろうな。


 女性はおもむろに部屋の隅から丸いすを持ってくると、中央の机を挟み俺たち三人の向かいに腰掛けた。

「さて、どうしましょう」

 女性は少し戸惑っているようだったので、まず俺は自己紹介をすることにした。


「申し遅れましたが……自分は絵梨花の友人で○×大学の伊坂憲明といいます」

 俺が名乗ると、敦と兼保も同じように簡単に自己紹介を行った。


「大学のお友達がこんなところまで来るなんて驚いたわ。遠かったでしょう?」

「いや、全然そうでもないですよ。新宿からすぐでしたもん」

 敦が人懐こい口調で言うと、女性は笑みをこぼした。


「そうね。実際来てみると、思ったよりもずっと近いのよね」

 そして女性は「ふふふ」と笑った。

 年齢の割にお茶目で可愛らしい人だなと思った。良い歳のとり方をすると、こういう大らかな雰囲気を身にまとえるのかもしれない。


「一つ聞きたいんですが、この教室の先生というのは……」

 俺が訊ねると、女性は「あら、そうだったわ」と口走った。

「こちらも言ってなくてごめんなさいね。この教室で講師をしてる保坂といいます」

「なるほど。先生は保坂さんがお一人で?」

 保坂さんは訊ねた兼保の方を見て「ええ、そうですね」と頷いた。


 瞬間、可能性が一つ消えた——と思った。いくら保坂さんが優しく素敵な人だったとしても、絵梨花のいう「好きな人」ではないはずだ。どちらかといえば、恩師とか敬愛とか、そういう類の存在だろう。

 それに絵梨花は「片想いかもしれない」とも言っていた。彼女の想いが恋愛感情であったことは確かだ。


 ならば、残るは当時ここへ一緒に通っていた生徒ということになる——


「もちろん、絵梨花も教えていたのよ」

 保坂さんは俺たちに笑いかけ「懐かしい」とひとりごとのように口にした。その笑顔には我が子を想う母のような優しさが溢れていた。


「絵梨花は今までで一番親しくなった子だったかもしれないわ。あの子……とても素直でいい子だったのよ」

 俺は保坂さんと絵梨花が話すところを思い浮かべてみた。

 楽しそうに笑って打ち解けている姿が容易に想像できた。きっと二人は、師弟という関係に収まらず本当の親子のように親しかったんだろう。

 絵梨花の不幸を知った時、保坂さんもさぞ深い悲しみに包まれたに違いない。にもかかわらず、こうして今俺たちに気丈に思い出を語ってくれる姿には、胸を打たれる。


「だから、あの子が大宮に引っ越したときは寂しかったわ」

「引っ越した? 誰がですか?」

 俺が訊ねると、保坂さんは意外そうな顔つきでこちらを見た。


「あら、知らなかったのね。絵梨花は高校三年生の九月に埼玉の大宮へ引っ越したのよ」

「そうだったんですか……」

 絵梨花が大宮に引っ越していたという事実は初めて知った。

 葬儀が大宮のセレモニーホールで行われたのもそういう理由だったのか。しかし絵梨花から一度も大宮の話を聞かなかったといことは、あまり思い入れがなかったんだろうか。

 そんな事を考えてタイミングを伺いながら、俺は本命の質問をぶつけることにした。


「その……絵梨花がここに来ていた時、ほかにも生徒さんはいたんですか?」

 恐る恐る訊ねてみると、保坂さんの表情が曇った。

「それがねぇ……。可哀想に、絵梨花の代は生徒がひとりきりだったのよ」

「え? そうなんですか?」

 俺は思わず聞き返してしまった。


「私も趣味でやってるようなものだから、毎年そこまで生徒さんも多くはないんだけど……それでもひとりだったっていうのは珍しかったわ」

 戸惑いを隠しきれず、俺は敦と兼保の顔を見た。二人もまた信じられないといった様子で表情が強張っていた。


「だから、私と二人きりで話す時間がすごく多かったの。絵梨花は特別な存在だったわね」

「なるほど……そうだったんですね」

 ショックで上手く口がまわらず、締まりのない返事をしてしまった。

 せっかく思い出を聞かせてくれているというのに、我ながらとても失礼だなと思った。

 とはいえ……これではっきりとわかってしまった。絵梨花はこの甲州アートスクールにひとりで通っていた。


 ここに絵梨花の好きだった人はいない。


 となると状況は芳しくないどころか、すべて振り出しから考え直しだ。一番可能性のあった線が消えてしまったのだから。

 高校三年生の時に引っ越した大宮という線も考えなくてはならないか——しかしそちらに至ってはヒントは皆無だ。もし大宮だというのなら、探しだすのは不可能だろう。


 敦も兼保も同じことを考えているようで、その表情は冴えない。ここまで来たというのに、絵梨花の好きな人の手がかりは何も掴めなかった……

 俺たち三人が俯き黙ってしまったので、保坂さんも落ち着かない様子だ。


「絵梨花の描いた絵があるんですが……よかったら見てみます?」

「そんなものが残っているんですね。是非見てみたいです」

 きっとその絵を見ても何のヒントにもならないだろう。とはいえ、絵梨花の生きた痕跡を少しでも目に焼き付けておこうと思った。


 保坂さんは立ち上がると、戸棚に差さっている三十ほどのファイルの中から一つを取り出してきた。

「私は絵梨花のお母さんと親しくてね。絵梨花が一人暮らしをしていたアパートに残されていた絵を預けてくれたのよ」

「じゃあ、絵梨花が最近までずっと持っていたものってことですか」

「ええ、そうね。きっとあの子にとって大切な絵だったんじゃないかしら」


 文具店などで見かけるような赤いファイルが手渡された。プラスチックの表紙には「川原絵梨花」と名前シールが貼られている。ゆっくりひらくと敦と兼保も両側から顔を覗きこんだ。


「これは……どういうことだろう」

 中には四枚の淡い色合いの水彩画がおさめられていた。

 そのモチーフは、全て同じ洋風のレンガ造りの建物の入り口で、そのうち二枚には建物と一緒にスーツ姿の若い男性が描かれていた。


「全部一緒の建物だ。これは一体どこなんだろう」

 疑問に思ってそう言うと、左にいた兼保に「待て、よく見てみろ」と肩を叩かれた。


「甲信ゼミ?」

 お洒落なレンガ調の建物に、「甲信ゼミナール」と金文字で書かれた深緑の看板が掲げられていた。

「甲信ゼミナールだってさ。なんだろうなこれ」

 敦がぽつりとそう言うと、保坂さんが口をひらいた。


「それはきっと絵梨花が通っていた学習塾でしょうね」

「塾? ここ以外にも塾に行ってたんですか」

「ええ。絵梨花は教育学部の美術科志望でしたから、一般的な受験勉強も熱心にしてたんですよ」


 もう一度四枚の絵に目を通してみる。幸せな絵だな、と思った。

 これを描いた時の絵梨花の心模様がそうだったのか、すべてが明るいパステルカラー調でまとめられており、描かれている男性は満面の笑顔だった。

 一枚はその男性をメインに描かれていたが、黒縁の眼鏡と太い眉毛が特徴の優しそうな人だった。


 見ているこちらまで胸が温かくなってくるような、幸せに満ちた絵だ。

 きっとこれは絵梨花が見ていた世界——

 絵梨花にとってここに描かれている塾と男性は、特別な存在だったのではないだろうか。


「絵梨花が通っていたこの塾って、どこにあったんでしょう」

「絵梨花は甲府の高校に通っていたから——多分甲府の駅前の校舎だと思うわ」

 段々と胸の鼓動がはやくなっていくのがわかった。絵梨花の好きだった人に近づいているような気がした。


「四枚も同じ題材で描いてるなんて、よっぽど思い入れがあったんじゃないのか」

「どうなんだろうな。他にもたくさん描いていただろうし、たたの気まぐれって可能性もある」

 敦と兼保はそんな風に議論していたが、俺にはうっすらとした自信があった。


 絵梨花は大切なものしか絵に描かない。

 これは紛れもなく本人が言っていたことだ。そしてあの絵梨花のこと、この信条はきっと昔から貫いていたはず——


「保坂さん、一つききたいのですが」

 俺はファイルから顔を上げ、保坂さんの瞳を見た。


「はい。なにかしら」

「この絵に描かれている男性は、どなたかご存知ですか」

 そう訊ねると保坂さんは「いえ」と苦い表情になった。

「そこまでは覚えてないですね。ただ絵梨花はよく塾の話を楽しそうにしていました。この方も先生だと思うんですが、色々と相談にのってもらっていたみたいで」


 それを聞いて俺は落ち込んだ。たとえこの男性があやしかったしても、結局誰かわからなければ探すのは難しい。


「そうですか。これだけ絵に描くくらいなら、相当な思い入れがあったはずですよね」

「ええ、そうだと思います——」

 俺が保坂さんと話していると敦に「なあ」と小声で横槍を入れられた。


「ノリはこの絵がアヤシイと思ってるのか? 何か確信があるのか」

「わからないけど……この絵にヒントがあると思うんだ」

 敦は何も言わなかったが、こちらを見つめる瞳には揺らぎがなかった。きっと俺のことを信じてくれているんだろう。とはいえ、やはり誰かわからない人を探すのは無理だ。


 甲信ゼミナールの甲府校舎に直接行くしかないか……そう考えた時。

「手にとって見てみたいんですけど、ファイルから絵を出してもいいですか」

 兼保が出し抜けに保坂さんに尋ねた。

「いいですよ」と快諾されたので、俺はファイルから絵を取り出した。


 そしてなんとなく裏面を見てみると——


-甲信ゼミと吉田先生-

一緒にコンクールに行ってくれてありがとう。

2008.8.10 川原絵梨花


 そこには絵梨花が直接書いたと思われる題名とメッセージが残されていた。

「裏に書いてあった……この人は吉田先生っていう人だ」

 俺はすぐに敦と兼保にも見せた。


 二○○八年といえば絵梨花が高校三年生だった年だ。書かれているメッセージの内容はよくわからないが……

 敦は「他にも何か書いてないか」と残った絵をファイルから出し始めた。


「吉田先生っていう人なのはわかったけど、このメッセージはなんなんだ」

 兼保はそう言ってしげしげと絵梨花の直筆の文章を眺めた。


 二○○八年の八月十日。

 コンクールとは一体なんのことなんだろうか。当時何があってこの絵を描いたのだろうか。


「だめだ。他の絵には特になにも書かれてない」

 敦が落胆してそう言った時——兼保が「もしかして」と閃いたように言葉を発した。

「二○○八年……今からちょうど四年前だろ。コンクールって今年絵梨花が絵を出した紫玉絵画展のことなんじゃないのか」

「そうか……四年に一度のコンクールだって言ってた。だとすると前回開催は……二○○八年の八月になる」


 絵梨花は四年前、きっと吉田先生と一緒にコンクールを見に行ったんだろう。そしてその時にこの絵を描いた。

 だとすれば、絵梨花の約束の人はもうこの吉田先生で確定だと思った。

 前回のコンクールを吉田先生と一緒に見に行ったなら、「コンクールで入選したら再会する」という妙な約束をしていても不思議ではない。


 バラバラになっていたパズルのピースがぴったりと組み上がった気がした。

「間違いない……吉田先生だ。甲信ゼミナールの吉田先生。行こう」

 そう言って立ち上がると、兼保に「ノリ、待て」と制止された。


「保坂さんにお礼を言うのが先だろう」

 目の前を見ると、保坂さんが呆気にとられたようすで俺のほうを眺めていた。

「……失礼しました。突然お邪魔したのに、色々とお話を聞かせてくれてありがとうございました」

 深々と頭を下げると、保坂さんは笑い混じりに「いいのよ」と言った。


「その様子だと——ただここへ来たわけじゃないんでしょう? 何か事情がありそうね」

「それは……」

 俺たちの異様な会話を聞いていたら、誰だって勘付くだろう。しかしその問いには答えられなかった。俺が言い淀んで固まっていると、保坂さんは会話を続けた。


「別に詮索するつもりじゃないのよ。ただ私はなんとなく嬉しかったのよ」

「嬉しかった?」

 保坂さんは「ふふふ」と上品に笑うと、耳元のイヤリングが小刻みに揺れた。身に着けているものもそうだが、この人の所作はなにからなにまでお淑やかだ。


「絵梨花が亡くなってから、私はただ寂しいだけで何もできなかった。絵梨花はもうこの世にいないんだってね。でも貴方たちを見ていたら——そんなことないかもって思えたのよ」

 保坂さんは絵梨花の描いた水彩画を愛おしそうに撫でながら話を続ける。


「どんな事情かは知らないけど、そんなことどうでもいいわ。絵梨花のことを思ってわざわざこんなところまで来てくれたんだもの。今でも絵梨花は貴方たちと深いなにかで結ばれてる……そんな気がしたから」

 俺の目に涙が滲んできた。泣き出すすんでのところで兼保が質問をした。

「嬉しいことですが……なんでそんな風に思ってくれたんですか?」


 保坂さんは笑みを浮かべ、天井を見つめた。見覚えのある仕草だ。


「顔を見れば大体わかるのよ。貴方たちなら絵梨花と仲良くなりそうだから」

「そう、ですか……」

 そのあとは敦も兼保も、何も口にすることはなかった。


 ただ何度も洟をすする音だけが、物悲しく教室内に響いていた。


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