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アンデスへの旅路ーギターとケーナの出会いー  作者: 村松希美


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10 石壁の覚醒 3




 夜の(とばり)が、クスコの街を完全に包み込んだ。


 昼間の厳重な監視の目は、夜の闇によって幾分か遮られていたが、代わりに街は、不気味なほどの静寂と冷気に支配されていた。


 トゥパク・アマルの手下であるインディオの隠密(おんみつ)たちの先導により、ワイラ、アトゥック、ブランカの三人は、ついに「アクリャ・ワシ(太陽の乙女の館)」の裏門へとたどり着いた。


 事前に知らされていた通り、本来そこにいるはずのスペイン人衛兵は、トゥパク・アマルの回した「眠り薬入りの酒」によって、詰め所で深い眠りに落ちていた。


「行くぞ……」

 アトゥックが低く呟き、音もなく重厚な石の門を押し開ける。

 中庭へと侵入した彼らを迎えたのは、外部の喧騒から完全に遮断された、異様なほど美しい空間だった。


 四方を精緻なインカの石壁に囲まれた中庭。中央には、かつて太陽神の聖水を湛えていたであろう美しい湧き水の池があり、その周囲には、不釣り合いなほど巨大な、石造りのキリスト教の十字架が、まるで中庭を圧殺するようにそびえ立っていた。

 一歩、また一歩と、奥の礼拝堂へと続く回廊を進もうとした、その時だった。


「――そこまでだ、ネズミども」

 冷徹極まりない、刃物のように鋭い声が、回廊の闇から響いた。

 ワイラたちが息を呑んで足を止める。

 月光が、回廊の影からゆっくりと歩み出てくる一人の青年の姿を、鮮明に照らし出した。

 その青年を見た瞬間、ブランカの口から「あ……」という、短い悲鳴のような音が漏れた。


 青年は、金色の刺繍が施された、スペイン正規軍の高級将校の制服を、寸分の乱れもなく端正に着こなしていた。腰には、細身だが極めて実戦的な、銀色に煌めくレイピア(細身の剣)を帯びている。

 しかし、その制服の異常なまでの不似合いさを際立たせていたのは、彼の「顔立ち」だった。


 長く伸びた漆黒の髪を、後ろで一つに美しく束ね、彫刻のように整った理知的な輪郭。それは――今まさに奥の檻に囚われているはずのサミと、驚くほど生き写しだった。衣服こそ征服者のそれを(まと)っているが、その肌の色、その骨格は、間違いなく純潔なるインカの、それも最高位の王族の血を引く者のそれだった。


 だが、その瞳が決定的に違っていた。

 サミの瞳には、常に周囲を温かく照らすような、太陽の光のような優しさと生命力があった。しかし、目の前に立つ青年の瞳には、感情という名の色彩が完全に欠落しており、まるで万年雪に閉ざされたアンデスの山頂のように、冷たく凍りついていた。


「……サミの、お兄さん……?」

 ブランカが、信じられないものを見る目で、声を震わせる。

 青年――サイリは、その名を耳にしても、眉一つ動かさなかった。


「サイリ」という名は、ケチュア語で「神聖なもの」「天へと祈りを運ぶもの」という意味を持つ。かつて彼らの母親が、インカ王族の正統な末裔として、我が子に歴代のインカ皇帝インカ・ロカやサリ・トゥパックなどの記憶を繋ぐために授けた、高貴な名。

 だが、青年は、自らの名を呼ぶブランカを、まるで汚物を見るかのような冷たい眼差しで見下ろした。


「その、忌まわしい野蛮な名で私を呼ぶな。今の私の名は、ドン・ディエゴ・デ・シルバ。この聖なるキリストの館を、異教徒の汚れから守る番人だ」

 サイリの声には、一片の迷いも、人間らしい揺らぎもなかった。


「私の妹――サミは今、奥の聖壇にて、過去の邪教の記憶と汚れた血の記憶をすべて捨て去り、全能なる神への永遠の奉仕に身を捧げる『魂の浄化』の儀式の最中にある。彼女は間もなく、神の慈悲によって、真の光を得て生まれ変わるのだ。……部外者は立ち去れ。さもなくば、この聖なる剣で、お前たちの罪深い血を流し、この石畳を清めることになる」


「ふざけんじゃねえッ!!」

 アトゥックの怒りが、ついに爆発した。

「何が神だ! 何が浄化だ! サミはなぁ、お前に会いたい一心で、このクスコを目指して旅をしてきたんだ! あいつは、お前の名前を呼ぶ時だけは、本当に幸せそうな顔をしてたんだぞ! なのに、お前はそのスペインの薄汚い服を着て、妹を檻に閉じ込めて、何が番人だ! ただの裏切り者が!!」


 アトゥックは、腰のナイフを抜き払い、獣のような咆哮とともにサイリへと飛びかかった。その速度は、並の兵士であれば反応すらできずに首を撥ねられるほどの猛打だった。

 しかし――サイリの動きは、アトゥックの野性を遥かに凌駕していた。


 カラン、という、あまりにも静かで美しい金属音が響いた。

 抜刀の瞬間すら視認させないほどの異常な剣速。サイリの放ったレイピアの切っ先は、アトゥックの放ったナイフの軌道を完璧に弾き飛ばし、その戻りの一閃で、アトゥックの左頬を鋭く切り裂いた。


「がはっ……!?」

 アトゥックが、鮮血を飛び散らせながら後ろへと激しく吹き飛ぶ。ブランカが悲鳴を上げて彼を支えた。

「野蛮な獣め。洗練を知らぬ暴力など、我が剣の敵ではない」


 サイリは、剣先に付着したアトゥックの血を、冷酷な所作で一振りして払い落とした。その目は、本気で彼らを皆殺しにすることに、一ミリの躊躇も抱いていない者の目だった。


「待ってくれ、サイリ! 聞いてくれ!」

 ワイラが、傷ついたアトゥックの前に立ちはだかり、背負っていたギターを狂ったように前に突き出した。


「君がこの街で、スペインの連中に何を教え込まれたのか、どんな目に遭ってその心を凍らせたのかは、俺にはわからない! でも、サミは、サミだけは君を、優しいお兄さんだと信じて、命がけでここまで来たんだ! これを見てくれ!」


 ワイラは、左手に握りしめていた黄金の「太陽の紋章」を、月光の下で高く掲げた。

 かつて彼らの両親が、兄妹に一つずつ分け与えたという、インカの王族の絆の証明。

 サイリの冷徹な瞳が、その黄金の紋章をピタリと捉えた。


 その瞬間、彼の完璧だった仮面の奥で、ほんの一瞬だけ、ガラスがひび割れるような激しい動揺が走ったのを、ワイラは見逃さなかった。サイリの、剣を握る右指が、微かに震えた。

 だが、その動揺は、一瞬でより深い闇へと塗りつぶされた。


 サイリは、自らの心の揺らぎをねじ伏せるように、吐き捨てるように冷たく言い放った。

「……それは、呪われた過去の遺物だ。そんなものに、何の意味もない。過去にしがみつく者は、例外なく滅びる。私は、生き残るために、この大地の民が生き延びるために、自らの魂を十字架に捧げたのだ。お前たちのような、音楽を鳴らして現実から逃避しているだけの者に、私の何がわかる」


 その時だった。

「――ああああああああああッ!!」

 回廊の奥、固く閉ざされた礼拝堂の扉の向こうから、空間を引き裂くような、サミの悲痛な叫び声が響き渡った。


 それは、肉体的な苦痛だけではない。彼女の魂、彼女のアイデンティティ、ワイラたちと過ごしたあの温かい記憶のすべてを、スペインの神父たちの冷酷な「魔女狩り」的な精神操作によって、無理やり剥ぎ取り、異界の神の教義で脳を塗り替えようとする、凄惨な儀式が本格的に始まってしまったことを意味していた。


「サミ……!!」

 ワイラの胸の中に、熱い怒りと、これまでにない巨大なエネルギーが沸き上がった。


 トゥパク・アマルの言葉が、脳裏に蘇る。

『民の眠れる魂に火を灯す、声が必要なのだ』

「サイリ……俺たちの音楽は、現実からの逃避なんかじゃない!」

 ワイラはギターのネックを強く握りしめ、その指先を、狂暴なまでの力で弦へと叩きつけた。


「これは、サミの魂を呼び覚ますための、そしてお前の、その凍りついた心をぶち壊すための、俺たちの『声』だぁぁぁッ!!」

 ジャァァァァァンッ!!!

 激しくかき鳴らされたギターの爆音が、アクリャ・ワシの重厚な石壁にぶつかり、何倍もの音圧となって中庭全体に反響した。


 それは、かつて太陽の神殿と呼ばれたこの場所が、何百年もの間待ち望んでいた、支配への抵抗の調べ。

 石の都クスコを根底から揺るがし、血を分けた兄妹の運命を切り裂く、激動と覚醒の戦いが、今、完全に幕を開けた。





この章もAIが書きました。

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