一話 礼を言いに来た男
王都の外れには、石畳が途切れる場所がある。
貴族街や商業区から離れたその一帯は、小さな職人の工房や庶民向けの食堂が肩を寄せ合うように並んでいて、朝になると路地に干した洗濯物の間から子どもたちが駆け回る、賑やかで雑然とした場所だった。
私はその一角にある薬草屋「ヴェルメール薬草店」の二階に住んでいる。
朝は六時に起きて店の掃除をして、七時から開店の準備をして、八時に父が店番に立ったら私は裏の作業場で薬草の仕分けをする。午後は配達か採取か、あるいは調合の手伝いか。日が暮れたら夕食を食べて、本を読んで、眠る。
前世の過労死が嘘のように、穏やかな毎日だった。
これでいい。これが理想の人生です。
問題は、その理想が昨夜の時点で少し揺らいだこと
だった。
助けた騎士のことを、朝から何度も思い出して
しまっている。別に後悔はしていない。
あのまま見捨てていたら確実に死んでいたから、
助けたことは正しかった。ただ、名前を聞かれたのが少し誤算だった。
あの場では適当に誤魔化して逃げてきたけれど、
騎士団の制服を着ていたということは、向こうには
調べる手段があるということだ。裏路地で倒れていた位置から、近くの店を片っ端から当たれば
薬草屋の娘くらいすぐに辿り着く。
……まあ、二度と会わなければ問題ないですね。
そう結論づけて、私は薬草の仕分けに集中することにした。
今日の仕分けは昨日採取してきたヒール草と魔力草の選別だ。ヒール草は葉の色が均一なものほど効能が高く、魔力草は根の部分に香りが強く残っているものが良品とされる。これを判別するのに魔力感知を使うと正確さが格段に上がるのだが、もちろん私は使わない。代わりに長年の経験で培った指先の感覚と嗅覚で判定する。
正直、魔力感知を使った方が十倍速い。
でもそれをやるわけにはいかない。
私は黙々と手を動かした。
◆
「アリア、お客さんよ」
母が作業場の扉を開けたのは、
昼をすこし過ぎた頃だった。
「はーい、今行きます」
手についた薬草の粉を布巾で拭きながら
店先へ出た瞬間、私の足が止まった。
店のカウンター前に、昨夜の騎士が立っていた。
黒い短髪。昨夜と違って制服ではなく簡素な平服を着ているが、体格と雰囲気で見間違えようがなかった。怪我は完全に塞がっている。
当然だ、私が治したのだから。
男は私を見た瞬間、わずかに目を細めた。
「……やはりここか」
やはり来ましたか。予想はしていましたが。
私は努めて普通の笑顔を作った。
「いらっしゃいませ。本日はどのような薬草をお求め でしょうか」
「薬草を買いに来たわけじゃない」
「そうですか。では何のご用でしょう」
男はしばらく私を見ていた。品定めというより、
何かを確かめるような目だった。
「お前が昨夜俺を助けたか」
「さあ。心当たりがありません」
「裏路地でうずくまっていた騎士に、薬草を使って手当てをした娘がいた。この辺りで薬草を扱う家は三軒しかなく、そのうち十代の娘がいるのはここだけだ」
「……調べましたね」
「当然だ」
当然ですか。全く。几帳面な騎士もいたものだ。
怪我が治って命拾いしたなら、そのまま忘れてくれればよかったのに。
私は少し考えてから、腹を括った。
「……助けたのは私です。でも薬草を使っただけですよ。たまたま良いものを持っていたので」
「あの傷が薬草だけで塞がるか」
「塞がりました。現に塞がっているじゃないですか」
男はしばらく黙っていた。私も黙っていた。どちらが先に折れるか、という静かな攻防だった。
最終的に男が折れた。正確には、折れたのではなく別の選択をした、という感じだったが。
「……礼を言いに来た」
「え」
「命を救ってもらった。理由はともかく、礼は言う」
男は真っ直ぐに私を見て、きちんと頭を下げた。
「ありがとう」
……拍子抜けした。正直に言うと、もっと詰問されると思っていた。「お前は何者だ」「なぜ本当のことを言わない」くらいは覚悟していた。なのにただ礼を言って帰るつもりらしい。
……この人、ちょっと変わっていますね。
「どういたしまして」と私は答えた。
「お気をつけて」
男は頷いて、店を出ていった。
それで終わりかと思った。




