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体が、起き上がれないぐらい重かった。足を怪我した上に、疲れが一気に押し寄せたみたい。イノシシは狩れたけど、私は一歩も動けない。手当はしてくれたけれど、この足では狩をするのも難しいだろう。
(私……そらの足手まといになってしまう)
そらは私の手当てが終わったら、黙々とイノシシを解体していた。黒い石は打ちかくと、縄でもイノシシでも、切りやすくなる。そらは持ち運べる量を縄に通して運び、夜に燻して乾燥させるつもりらしい。しっかり狩の技術を身に着けていて、その成長に気が緩んできた。
(もう、私がいなくても大丈夫なんだ……)
もう私の後ろをついて来た幼いそらじゃない。少し寂しいけれど、嬉しい。
(そらなら、違うムラに行っても、生きていける)
基本的にムラの中で結婚はしないから、ムラの外の人と結婚することになる。祭りの時とか、交易の時にムラの外から来た男はもてなされていた。きっとそらはどこへ行っても、歓迎してもらえるだろう。青目で体の大きな私よりも、ずっと……。
雨が葉を伝って落ちてくるように、私の中に疲れと諦めが溜まっていく。だから、そらの作業が終わったのを見て、声をかけた。
「ねえ、そら。ここで別れよ……そらは、先に行って」
「は? 何言ってるんだよ、姉さん」
一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに怒った顔になって解体に使った道具を片付け始めた。皮もしっかり籠に入れ、肉も落ちないように巻き付ける。それを見ていると、ますます私がいたらダメな気がして。私はなるべく笑って、軽い声音で話を続けた。
「ちょっと、疲れたから、私はここで休む。もうすぐ日も落ちるし、そらは先に行って……あとで追いつくからさ」
置いて行ってとは言えなかった。そらは優しいから、そんなことできない。だけどそらは頭がいいから、先に行っての意味に気づいてしまう。そらの目が吊り上がって、私の側に来て座り込んだ。鼻先が付きそうなくらいの距離。
「足が折れて、迷惑になるから置いて行けって? 分かってるんだよ、姉さんが考えそうなことは。そんなのできるわけないだろ?」
そらは当然だって顔をしてる。いつだってそらは、私を姉さんって呼んで、一緒にいてくれた。他の人は青い目を気味悪がって、遠ざけるのに。そらだけは当然だって。それにどれえだけ救われたかわからない。だから、今だけは……。
私は微笑んで、ゆっくり首を横にふった。
「お願い、そら。……私、そらには幸せになってほしいの。こんな私に優しくしてくれるから。どこか、いいムラで、優しい人と家族になって……」
自分の口から出た言葉なのに、なぜか胸が痛い。そこは怪我なんかしていないのに。そらが行ったら、私はたぶん死んでしまう。山にはイノシシも、クマもいる。死ぬのが怖いのか、そらと別れるのが寂しいのか。今までにない気持ちが、胸の奥にあった。
「なん、で……」
そらはぐっと眉根を寄せて、唇を震わせた。怒ったような、泣きそうな顔に、本当に優しい弟だなと思ってしまう。そんなことをぼんやり思っていたら、両肩を掴まれた。
「なんでいつも自分を犠牲にするのさ! なんで、そうやっていつも、俺の気持ちに気づかないんだよ!」
掴まれた肩が少し痛い。そらは嫌だと言うだろうなとは思ってたけど、ここまで怒るとは思わなかった。そらだって、怪我をした私がいたら、生き残るのが難しいのは分かっているはずなのに。
「でも、私はそらには生きて欲し……」
「俺だって姉さんに生きて欲しいんだよ!」
私の言葉に、そらの言葉が重なる。それでもと、私が言い返そうとしたら、そらは人差し指を私の唇に当てた。私がいつも、そうしているように。
「俺は、姉さんと一緒に生きたいんだ……一緒じゃなきゃ、嫌なんだ」
「けど……ずっと一緒になんていられないよ。そらはいつか、かわいいお嫁さんをもらうんだから」
それは当然のことで、可愛い弟が遠くへ行くのは寂しいけれど、家族としてお祝いするべきことだ。そらは成人していて、相手がいれば家族になって、子どもを作る。それが、役割。
「姉、さん……」
当然のことなのに、そらは傷ついた顔をして、それを見ると私も悲しくなってしまう。そらの目には私が映っていて、私の青い目にはそらが映っているだろう。こんなに近くにいるのに、そらが何を考えているのかが分からない。
「俺、じゃ、だめなの?」
「……え?」
「俺、姉さんと本当の家族になりたい。俺はずっと、姉さんと結婚したかった」
置いていけないからって、嘘を言っている目じゃなかった。
「でも……家族で、ううん、同じムラでも結婚はできないのよ?」
「姉さんは、もともとあのムラの人じゃない。俺とも、血のつながった家族じゃない。何の問題があるの?」
そう言われて、私は何も言い返せなかった。私は流され子、そらとは血のつながりはないし、ムラの外から来た存在だ。
(……あれ? 確かに問題はないけど……あれ? どうして結婚の話になっているの?)
思わぬ反撃を受けて、私の頭はうまく回らない。そもそもお腹もすいた状態で、ろくな考えができるはずなかった。
「俺、一度も姉さんを家族だって思ったこと、なかったよ。姉さんを見るたびに、俺のものにしたくて、誰にも渡したくなくて。ムラのやつらは姉さんのこと、見向きもしないの、腹が立って……けど、俺だけが姉さんの側にいられるから、それでもいいかって」
そらは気が昂っているのか、時々言葉を詰まらせ、声を上ずらせながら、言葉を伝える。
「俺……大好きだよ。だから、俺と一緒にいてよ…………あお」
名を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。その名前を呼ぶのは、怒った父親だけ。正直、嫌いな名前だった。だけど、そらの声で呼ばれたその名前は、まったく違う響きで、嬉しくて。嬉しいと思ったことが、不思議で。自分の気持ちに理解が追い付かなかった。誰かに、嫌悪以外の感情を向けられたのも初めてで、私はそれに答える言葉を知らない……。
(そらと、家族になる。姉と弟ではない、家族に……?)
戸惑いの方が大きい。ただ一つ、そらが私を置いて行かないことは、よくわかった。
「けど、そら……私」
「べつに、すぐにそういう風になってほしいわけじゃないよ……だけど、俺の気持ちは知ってほしかった。ただの家族だと思ってるなら、ここまで一緒に来ないよ」
だから、一緒に行こうと。籠の紐に前から腕を通し、前が見えるように位置を調整すると私に背を向けた。
「あおは、背が高いから……あおより大きくはなれないかもしれないけど、あおを背負えるよういはなったんだ……だから、俺に守らせて」
「小さくて、泣き虫で……いつも後ろにいたのに」
向けられた背中は大きくて、優しくて、涙が頬を伝った。背中の向こうで溜息が聞こえる。
「ほんと、いつまで俺の事を小さな弟だと思ってんだよ……。ほら、早く」
「うん……そら、ありがとう」
弟と思っていたそらと、本当の家族になる。突然言われたことだけど、不思議と嫌じゃなくて……。私はそらの背中に体を預けた。そらは私を背負うと、疲れを感じさせない足取りで歩いていく。そらの背中は居心地がよくて、温かくて、いつの間にか私は眠ってしまっていた。