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「……うっ」
体中を駆け巡った痛みに、私は目を開けた。でも視界は真っ暗で、目をやられたのかと思えばどうやら夜になっているみたいだった。私は、高い位置に作られた倉庫を支える柱に縛り付けられていた。あちこちが痛くて、あれから殴られたんだろう。骨は折れていないけれど、縄が傷に当たって痛い。
「姉さん」
「……え、そら?」
耳元でそらの声がした。暗闇に少しずつ目が慣れてきて、そらの顔がぼんやり見えるようになる。
「逃げよう」
そらは短くそう言うと、縄を切った。体が自由になって、足で体を支えると痛みが走る。だけど体の痛みよりも、そらが言ったことが問題だ。
「どういうこと? 逃げる?」
よく見ればそらは大きな荷物を背負っていて、二人の弓を肩にかけ、斧も腰につけていた。
「ムラの奴ら、朝日が昇ったら姉さんを殺すつもりなんだ。そんなこと、させない」
「でも、なんで……そらまで」
そらは逃げる必要なんてないのに、いつも私を助けて、ついてこようとする。
「あの人のとこに姉さんを連れて行ったのは俺だから……姉さんがあの人を助けられたら、このムラにいやすくなると思ったのに」
「そうだ、あの女の人は、無事なの?」
毒に効く葉を飲ませたけど、絶対に助かるわけではない。そらは不愉快そうに顔をしかめて頷く。
「助かったよ。あの後、祈りのばあさんが、神に祈って……ムラの人はそのおかげだって。姉さんは毒を使って殺そうとしたって……馬鹿かよ。姉さんが飲ませなかったら、死んでたのに」
「そう……助かったのね」
それを聞いて安心する。それと同時に、この状況になっても人を救って喜べる自分に安堵した。表情を和らげた私を見て、そらはおもしろくなさそうな顔をする。
「姉さんは優しすぎる。だから、そんな姉さんが死ぬのを、黙って見てなんかいられない」
そらは私の手を取り、やさしく引いてくれた。しっかりその手に触れたのは、久しぶりの気がする。思ったより手が大きく、皮が固くなっていた。その手を握りかえす。
(このムラで死ぬ理由なんて、ない)
私たちは足音を殺し、静かにムラから出ていった。私は一度も振り返らなかった。
しばらくすると日が昇り、私たちは他のムラや狩場を避けて森の奥へと進んでいく。太陽が昇って来た方へと歩いて行った。そらは他のムラとの交易について行ったことがあったから、物を交換する場所や周辺のムラ、狩場なんかの情報を知っている。逆に私は狩以外でムラから出たことはなくて、見たことのない木の実や草を見ると、手に取って籠に入れた。
ひたすら太陽が昇る方へと進む。動けば傷は痛むが、歩けないほどではない。途中でウサギを狩り、食べられる木の実やキノコを採る。そらは大きな籠の中に入れられるだけの食べ物や種、そして怪我に効く葉や、武器・道具を入れていた。聞けば、こういうことが起こった時のために、日ごろから準備をしていたらしい。用心深い弟だ。
日が落ちる前に、木のうろや洞窟といった場所を探して休む。ちょうどいい岩の隙間を見つけたので、今日はここで眠ることにした。火おこしの道具もしっかりそらは持っていた。お腹を満たし、武器の手入れをしたら、パチパチと木が弾ける音を聞きながら、私は目を閉じる。
「姉さん……」
そらの声にうっすら目を開ける。
「……うん?」
「何でもない」
さすがに眠くて、瞼が重い。そらは岩から出たところで、火を焚いて番をしてくれていた。ぼんやりとしか見えないけれど、優しい目で見てくれている気がする。父親がいない、二人の時、そらはたまにこの顔をする。
(いつまでも、子どもなんだから……)
お姉ちゃん、お姉ちゃんと、後ろをついて回っていた幼いそらを思い出しながら、私は眠りに落ちた。なんだか夢で優しく頭を撫でられた気がした。きっと、子どもの頃のことを思い出したたから、そんな夢を見たんだろう。親に頭を撫でられたことなんて、ないのに。
ムラを出てから七回日が昇った。最初の日にウサギを狩ってから、私たちは何も狩れていなかった。水は川沿いを歩いているからなんとかなる。だけど、二人とも魚を捕るのは苦手で、数匹取れても足りなかった。木の実やキノコはあっても、お腹は満たされない。
お腹がすけば頭はぼんやりとする。寝るのは外で火の番をしないといけないから、長くゆっくり眠れない。体が重くて、私たちは無言で歩いた。平地は少なく、すぐに山を登ることになる。夜に雨が降ったから、山の斜面はぬかるんでいて歩きにくい。それでも、歩かないといけない。
「……姉さん、イノシシがいる」
「できるだけ近づいて、弓で狙おう」
今は二人だけで、イヌもいない。極力身の安全を確保したかった。私は矢を弓につがえて、ゆっくりと引く。そらも弓を引き、目を合わせると同時に矢を放った。イノシシの怒り狂った叫び声が山に響き、鋭い目が私たちに向けられた。
「来るよ!」
私は急いで次の矢を放つ。イノシシは私たちに突っ込んできて、矢は外れた。そらが腰の斧を手に取るのを確認しつつ、私は矢をつがえる。いくら私の弓が大きくて威力が高くても、一撃でイノシシを仕留めるのは難しい。
(そらはまだ狩に慣れてないから、私がやらないと!)
三本目の矢はイノシシの体をかすり、そらが走って来る巨体に駆け寄って斧を振り下ろすが、イノシシは跳びあがった。次の矢へと手を伸ばした私に向かって、さらに突っ込んでくる。
「姉さん危ない!」
そらに言われるまでもなく、本能が危機を感じる。恐怖で体が固まる前に、私は無理矢理足を動かした。横へと跳ねて、避ける。避けられるはずだった。
「きゃぁ!」
「姉さん!」
だけど地面がぬかるんでいたせいで、足を滑らせ斜面を転がり落ちてしまった。ズキンと今までにない痛みが右足を襲ってうずくまる。土をかく音が聞こえ、はっと顔を上げた時にはイノシシが斜面を下ろうとしていた。矢傷からは血が流れ、動きは鈍くなっている。それでも、矢を放つ時間はない。
(間に合わない!)
私は矢を弓を構えることもできず、ただ少しでも傷を負わそうと矢を握りしめてイノシシの頭を狙った。黒く鋭い石を使った、貴重な矢だ。
(そら、だけは!)
ここでイノシシを仕留めなければ、そらはやられてしまう。覚悟を決め、イノシシを迎え撃とうとした時、何かが横から入って来て視界が塞がれた。
「そら!?」
いつの間にか斜面を滑り降り、私とイノシシとの間に割って入ったのだ。
「ダメ、そら!」
そらを押し避けて矢を刺そうにも、少し動こうとしただけで足に痛みが走った。地面が揺れる。巨体が草をこする音が、近い。
「姉さんは俺が守る!」
そらが斧を振り上げる。次に聞こえたのは耳が痛くなるほどのイノシシの叫び声。そして、そらの向こうで、イノシシがゆっくりと倒れていった。
「……やった?」
心臓の音がうるさい。息も荒くて、死にそうだったという現実に、遅れて恐怖を感じ始めた。足の痛みが全身を駆け巡って、矢を握ったままの右手は真っ白で動かせない。
「姉さん! 大丈夫!?」
そんな私にそらは泣きそうな顔で抱き着いてきて、その温かさを感じた瞬間、すっと体が楽になった。不思議と安心ができて、痛みが和らいでいく。
「うん、大丈夫よ……そら、すごいね」
「姉さん……よかった、生きてる。もう、無茶しないで」
そらの心臓の音が、呼吸が、すぐ近くで聞こえる。背中に回された腕はいつの間にか太くなっていて、大人になっていた。
「うん……ありがとう」
なんだか抱きしめられているのが恥ずかしくなってきて、私は少しみじろぐ。体を離したそらは、私の足に目を落とすと眉を顰めた。私の足は赤く腫れていて、一目で骨が折れていることがわかる。
「手当てするね……」
そらは離れた斜面を登り、置いていた荷物から縄をとって来た。近くに落ちていたちょうどいい枝を拾い、添え木にする。私は足に枝を添わせて、縄で縛ってくれるそらを見ながら、「ありがとう」と呟いた。
「別に、当然だよ」
少し照れたのか、ぶっきらぼうに言うのが可愛い。
(そら、頼りになるようになったな……)
いつも私の後ろをついて来ていたのに、頼もしく成長していた。気づいた変化に、胸の奥がむずがゆくて、私は黙って手当てを受けていた。






