流し流され 3
「し、死ぬ…」
ようやく唇を解放され、ごほごほと咳き込む。
身体は随分楽になったが、酸欠で意識を失うのでは意味が無い。大体暴れてももがいても一向にユルヤナはどかなかった上に、面倒だと思ったのか途中で腕を掴まれて拘束された。私だからいいものの、これを他人にやったら立派な強姦未遂だと思われるぞ。
「……なんで、いきなりキス?」
「蓄積されていた二週間分の時間が、一気に経ったんだ。あのままでは、死にはしないまでも最悪昏倒していた、はずだ。だから――精気を、分け与えた」
それはキスしなきゃできないことなんですかね。
そもそも精気とは何だ。
「精気は……生きる力、生命力そのものだ。食べなければ飢える、眠らなければ衰える。その負荷に耐えるのには生命力を使う――それが足りなかったから、ああして与えた。くっついても体温が移るように生命力を分け与えることができるが、身体の中と中を繋げるあれが一番効率が良い」
「へえ……」
まあ驚きはしたが、厭ではなかったのだからよしとしよう。せっかく外に出られたのに数日意識不明では悲しすぎるし、何よりそんな無様な姿を見せるのは意に反する。ユルヤナならともかく、他の人間のことは何も知らないし、知らない人間に観察されるなど真っ平御免だ。
「それなら、良い」
「……怒らないのか」
不思議そうに首を傾げるのが、子供のようでどこか愛らしく、思わず笑ってしまった。
「理由があった、私も納得した。どこに怒る要素が?それとも、嘘だった?」
「違う」
「ならいいよ。……ああ、こっちは、そういうのに厳しいのか」
こちらの世界の性生活だの観念的なものは分からないが、私の世界のイギリスやそこらの一時代には「足」が性的なものの象徴として捉えられていたこともあったようだし、こちらも似たようなものなのかもしれない。町並みを詳しく見たわけではないし、服装的には中世と同程度の文化の発達具合と見た。ならば貞操観念なりが厳しいのも頷ける。
聞いてみると、やはりそういった意識は強いらしい。特に貴族の嫁入り前の娘などは、夜会を除いて異性との接触は基本はご法度。胸の開いたドレスとか足が見える丈の短い服だとか元より、勿論キスだなんて持っての外。王都の下町女性などは割と解放的な女性も多いらしいが。
「別に裸に剥かれたとか、そういうのじゃあないし。むしろ、助けてくれてありがとう」
ユルヤナはほう、と小さく息をついた。安堵の溜息のようだ。
私も鬼じゃないのだから、怒鳴りなどしないのに。
「……俺の部族は、帝国人に比べたらその、かなり解放的なんだと昔、言われた」
「うん」
「寒さに強いから、男も女も、裸になってることも多かったんだが、でも皆気にしていなかった。身づくろいの時とかも、挨拶として気軽に口付けをしていたし、だからこちらに来た時は」
「……変態扱い、されたとか?」
「………される前に、諭して直してくれた奴がいる」
それは流石にその人には感謝することしきりだろう。しかし身づくろい、というと動物のグルーミングのようなものか。随分と野生的な民族らしい。
「だからその、俺はあまり抵抗がなくて……だから、安心した」
怒られなくて、か。
口ではなくても、頬へのキスは挨拶だという国もある世界の出身――いや関係はないな。今の日本人は戦後ほど貞操観念が重要視されている訳ではないし、性的方面で言うなら戦前のほうがもっと解放的でのべつ幕無しだったのだ。遺伝子的に受け入れる下地は整っているはず――またずれた。まあ、されたのはレベル違いのディープキスなのだが、嫌ではなかったのだ。ならば、それでいい。多少は恥ずかしかったような気もするし。
「……心配しなくても、ユルヤナは嫌いじゃないから。驚きはしたけど」
「そうか。なら、また、する」
今、聞き捨てならない言葉を聴いた気がする。
「今の千隼は、不安定だ。だから度々俺の精気を補填する必要がある」
「…はあ」
「本当は、牢でもやろうと思ったんだが、大丈夫そうだったから油断していて」
「…へえ」
やるならせめて、宣言してからにしてくれ。
「ああ」
こっくりと頷くマッチョな魔導師は、どうやら少々天然らしい。下心の欠片も見受けられないのを、喜ぶべきか、嘆くべきか。――嘆く理由が見つからないので、喜ぶべきだな。
しかし生命力を明け渡すということは、ユルヤナの生命力も削られるということだ。それは大丈夫なのだろうか。私が元気になってユルヤナがしおしおになって倒れるというのでは洒落にならない。
「俺は、大丈夫だから」
「何で」
「元々抑えているから、余っているんだ。あまり溜め込んでも、色々と身体に良くないからな。丁度良い利用場所だ」
「……そりゃ、どうも」
それは廃棄場所というのじゃあないですか、ユルヤナさん。
ちなみにユルヤナ以外の魔導師がやると大変危険らしい。間接的に殺人犯にならない分、ユルヤナで良かったと言わざるを得ない。
いきなり重たいものは良くないということで、米のような白い穀物をミルクで煮た似非ミルク粥を食べた。
二週間ぶりの食事、しかも温かいそれにじわりと涙が出てくる。元々食い意地は張っているのだ、思った以上に精神的に堪えていたらしい。
粥はユルヤナが厨房から持ってきてくれた。しかも鍋ごと。喰いきれるはずがない量だったが、ユルヤナも食べるらしい。食事は皆で取るもの、というのが彼の部族の教えらしい。素晴らしいことだ。一人で食べるのは何だか落ちつかなかいと思っていたから、丁度良い。
「そういえば、瑠璃と由鷹はどうして?」
鍋から二杯目の粥をよそいながら、ユルヤナに聞く。
「今は神子と従者として、こちらの知識や自分達の役割を学んでいると聞く」
「……役目、ってものを、終えることが出来たら私達は戻れるの?」
ユルヤナはゆるく首を振った。
「戻った神子がいるとは、聞いていない」
考えてはいたことだ。
これがフィクションの小説や物語なら、あちらの世界に戻ってハッピーエンド。けれど、元の世界に戻れない主人公もいる。私達は、後者の貧乏くじに引っかかってしまったらしい。
そのことに感慨は無い。私の生きる場所は瑠璃と由鷹のいる場所で、もうあちらではないのだ。
ただひとつ惜しむらくは――義兄の骨を埋葬できなかったことだ。運よく誰かが見つけて、最悪無縁仏としてでも寺かどこかに収めてくれれば――いい。思い出したが、そういえば義姉の墓もあったのだった。兄の望む自然還りはできないが、誰かが気を利かせて、骨壷になった彼女の横にでも並べてくれたら万々歳。全ては祈るしかないが。
「……そ、か」
少し震えたであろう声に、彼が気が付かなければ良い。
「いつ会える?」
「今は、まだ」
ユルヤナは私の手首をそっと掴んだ。
病的な痩せ方だ。正に枯れ木のようで、ユルヤナが少し力を入れたら折れてしまいそうに見える。
「必ず、会わせる」
その声がやけに真摯だったので、私はふたりの無事を知る。
ユルヤナの人となりを、全て知っているわけではない。けれど、信用に足る人物だということは、理解できる。ならば私は、それを信じる。常日頃、私は自分の感覚を何より大事にしているのだ。どうあっても青信号が点滅しない相手というのも、珍しいのだけれど。
そうこうしている内に二人そろってミルク粥を完食して、私はソファーにもたれかかった。
西日に変わり始めた陽光で暖められたふかふかのそこは気持がよくて、今にも寝てしまいそうだ。
「寝るなら、ベッドで寝たほうが良い」
「まだ、ここがいいよ」
陽だまりで転寝するソファーほど気持ちの良いものは無いと思うんだが。あの温かさと心地良さはまるで悪魔の誘惑だ、しかもこのソファーベッドのように大きくて寝心地が良い。寝返りを打っても落ちる心配が無いとは素敵なことだ。
「千隼、」
右側を向いていたらそっと肩を掴まれて転がされて、仰向けにされた。
太腿の傍に何か重たいものが乗った感触がしたので、眠たい目を擦りながら見やると、ユルヤナが私の上に覆い被さっていた。――既視感。
これは本当に、事情を知らない人間が見たら確実に勘違いされるような構図では無かろうか。
「……するの?」
「寝るのにも体力を使うから」
確かに、疲れすぎて眠れないということはたまにあるが。
それにしても本当に生命力が有り余っているようだ。羨ましい限り。
「ん、」
今度は、突然ではなかった。
ぬるりとして温かい奇妙な感触はそのままだけど、あの息が詰まるような息苦しさは無い。
またじんわりと身体が温かくなって、更に眠気が強くなる。流石に最中で眠りたくはなかったから、すぐ傍に垂れているユルヤナのローブの襟を耐えるために握る。
「んぐ、」
だから催促じゃあないのだと何度思えば。
苦しくはない、けど深いからやはり怖い。身体の中まで侵食されてしまいそうで。
それでも不思議と心休まるのは、矛盾だ。温かい、それだけで酷く安心する。
絡まった舌を吸われて、逆にユルヤナの口の中に舌を導かれる。おずおずと差し出せば、また絡む。
先が見えない、まるで泥沼だ。
――ああ、そうか。
ふと得心がいった。
これは親鳥だ。
そして私は、雛鳥なのだ。
その例えが妙に気にいって、心の中で笑う。
ぴったりじゃないか。
親鳥に抱かれる卵の中の雛のように、私の意識はいつの間に墜落していた。
仲良くなる展開が速いけど、まあいいか……
歳の差カプの、恋情の無い過剰なスキンシップが好きです。