流し流され 1
――腹が減った。
もう腹の虫も啼かない飢餓には、うんざりだ。
ざらついた首輪を撫でても、腹が膨れるわけじゃないけど、これはもう癖みたいなものだ。引きちぎれないことは、初日で知っている。
牢に閉じ込められてほぼ二週間が経った。
大広間で意識を失って、目が覚めた時にはもうここにいて、鎖に繋がれていた。
それからはずっとここにいる。
時間の経過は、ドーム上の牢屋の天辺に天窓があり、そこから差し込む光でいつ夜になり、朝になったかがわかる。牢という割には壁も床も真っ白で綺麗で、それだけはありがたい。しかし、それだけだ。他には何もなく、付き物だと思われるトイレだとかもここには無い。不思議とそういった欲も湧かないし、乾いたり飢えて死ぬということもない。
裸足の足が少し寒い。スーツの上着はないし、そもそも今はスーツなんて着ていないのだ。味も素っ気も無い、白い長袖のワンピースと、七分丈のズボンだけ。それもサイズが合わずだぼだぼなのだから、正直見られたものではない。「彼」以外、訪ねて来ないことが逆にありがたかった。
抱えていた膝を伸ばす。じゃり、とさび付いた鎖が音を立てた。
首輪と足の二重の鎖は、慣れはしたが酷く煩わしいことに変わりは無い。
「…入る」
前触れなく牢の扉が開いて、紅い男――ユルヤナが入ってきた。
「おはよう」
「…もう、昼だ」
「そんな細かいことは知らんよ。今日は何、持ってきてくれたの?」
ユルヤナは無言で本を差し出してくれた。ぱらぱらと開いてみる。字は読めないが、繊細な挿絵が美しい、絵本だった。
ユルヤナが私の傍らに胡坐を掻いて座る。慣れたもので、私がユルヤナに向けて腕を広げると、彼は腕の下に手を差し入れて私の身体を持ち上げ、自分の胸を背もたれにするように私を膝の上に座らせた。
「……そろそろこれ、やめない?」
「子供はこうしていたほうが落ち着くんだろう」
「私、19歳なんですけども」
「俺の部族で19歳は子供だ」
人間の成人は二十歳前後かそれより前だ、と言いたかったが諦める。
最初は恥ずかしかったし、今も少し緊張するが、今は他人の体温が傍にあるのは落ち着くから彼のするままにしている。言ったのは駄目で元々だ。大体どこの知識だ、誰に吹き込まれた。
溜息をついて、大人しく本を眺める。せがめば、ユルヤナは音読もしてくれた。罪人に対してそれはどうかとも思うが、怒られるのはユルヤナであって私ではない。だから放っておく。
私が牢で目が覚めた時、傍にいたのはユルヤナだった。
勿論、緊張の一瞬だった。私を昏倒させたのはその男だったのだから、警戒しないというのが不思議だ。しかしユルヤナは、自分の自己紹介を済ませると、ただ押し黙った。
獣同士の睨み合いのようなものだった。
ただ、あの殿下と呼ばれていた男とは違い、憎いとも嫌いだとも思わなかった。ただ、無。
私が落ち着いたと見たのか、ユルヤナはあの低く響くバリトンでこまごまとした説明を始めた。おそらく私に理解できるよう、ゆっくりと。
曰く、ここは世界の西大陸にある大国、アプスブルグ帝国という国らしい。
曰く、瑠璃と由鷹のふたりを召喚したのは、魔と呼ばれる、動物とは違う黒い獣たちが世界を荒らしまわるのを食い止めるため。
召喚された女は【黎明の神子】として、片方の男は【暁の徒】という神子に仕える者として崇められ敬われる。
この国は数百年に一度の割合でこの召喚を行っていて、今回の儀式を任せられたのは一番力の強い魔導師であるユルヤナだということ。そしてそれを命じたのは王族で、最高責任者はあの莫迦。あの嫌な男――オスヴァルト・ヴァルツェル・ベルゲングリューンと呼ばれる、王家の第二王子。
正直、馬鹿馬鹿しいと思った。
魔法もある、軍隊もある、そして大国だとの誉れある国家が。
自ら何とかする訳でもなく別の世界から救世主を剥ぎ取ってくることが。
この世界には神がいる。神の選んだものが、救世主足りえるのだそうだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。自分達の世界なら自分達で救えばいい、私達には迷惑だ。
が、それを目の前のユルヤナに言っても仕方が無い。
王命に抗えば重罪らしく、しかも慣例もある。そこで抗ってもどうしようもないし、ただ干されるだけだ。私の苛立ちは王家に向けているものであって、命令されて実行したユルヤナには無いことだし。
しかもあのふたりは、この話に割りと乗り気であるらしかった。
説明も一応ユルヤナがしたそうだから、持っている情報は同じだろう。ただ何をするべきか、それを知っているか知らないか、それだけの話だ。あの2人は母親に似て優しいところが可愛いが、それも今は欠点にしか思えない。
生贄と同然だというのに、顔も知らない人間を救うと意気込む。子供らしく、そして哀れだ。
とりあえず、ふたりは厚遇されているらしいのでよしとする。いづれ会わせてくれるとは、ユルヤナの談だ。
気にはなるけれど、ここを出れない限り気を揉んでも仕方が無い。もし再会した時に言っていることが違ったり迫害なりの後があれば、ユルヤナは勿論、あの第二王子もぶん殴る。フルボッコだ、否応無しに半殺しだ。ただしユルヤナは難しいかもしれないが。いや、勢いと度胸だけは高く持ちたい。
ここに来て一週間、頭も冷えた。
あの場で取り乱してしまったのは得策ではなかったと、ちゃんと理解も反省もしている。
おそらくあれだ、義兄を失ってしまったショックで、『失う』ということに過剰反応を起こしていたのだ、きっと。そうでなければ私が、ああも取り乱すことなど無かったはずだ。友人の間での私のアイデンティティは『無駄に冷静』なのだから。
私をどうやらどう扱っていいのか王族や諸侯も決めかねているらしく、第二王子に牙を向いた逆賊、しかし異世界人だからこの世界の決まりごとを知らなかっただろうし、しかも【黎明の神子】と【暁の徒】の縁者。故に私は生かさず殺さず、こんな政治犯のための牢屋に閉じ込められているらしい。
この空間には寝食排泄を行わなくても済む呪いがかけてあるらしい。しかし何も無いものだから、膨大な時間の前に気がふれる者もいるという。ていうか、そんな恐ろしい場所に処遇の分からない人間を入れるな。
しかしまあ、一日に数度訪れるユルヤナのおかげで退屈は無い。
「……これ、何て読むの?」
ふと気になった言葉を指差し、ユルヤナを見上げる。
「…『全てに愛を覚えなさい。さすれば自ずと幸福は得られる』」
「きれいごとだけど、いい言葉だね」
「出来れば苦労は無い」
「はは、」
文字をなぞるユルヤナの黒い指はごついけれど綺麗だ。
ユルヤナはアプスブルグよりもっと北、一年のほとんどを雪が占める凍った国の出身らしい。国といっても少数民族が散り散りになった、国家とは名ばかりの大地らしい。
暗い灰色の髪と、白磁の肌、手足は黒い肌。顔も身体も、基本は頑丈で体格がいい。それがユルヤナの民族の特徴。
それから、温かくて浅い海の色に似た、翠のようなアイスブルーの瞳。程度や色合いの差はあれ、彼の一族は皆水の色の瞳をしているらしい。
それにしても、ユルヤナはでかい。私を抱え、支えて余りある上背。顔を上げると顎の裏がきっちり見えるのは凄いと思う。後頭部で感じる胸板は厚いし、腹も硬そうだ。尻の下にある足もそうだが全体が筋肉質で、立ち上がると見上げるのに首が痛くなる。私だって160センチはあるのに、ともすれば2メートル以上余裕で超えていそうだ。羨ましい。
無意識に、右手をユルヤナの頬へ伸ばしていた。
髪のせいで顔は見えない。狼の毛皮にも似た色の、うねる髪。いかつい顎も、服の隙間から時々見える逞しい首も、男性的だ。多分、彫刻を愛でるような、そんな感覚。
「……千隼は、おかしいな」
「何が」
「俺を怖がらない」
「どこをどう怖がればいいのか、わからない」
そもそもこの膝抱っこを強行してきたのはこの男なのだが。
人間、数日あれば大概のことは慣れるものだし。
「俺の黒い手も、大きな身体も、この声も、おまえは恐れない」
「わからないよ、怖くないから」
「大抵は皆、萎縮する」
「ふうん」
寡黙な男だ。私は喧しい男は好きじゃないし、美形も苦手だ。男らしい男が好き。私の不利になることをしない、必要以上のことを言わない、でもたまに冗談も言うユーモアもある。おそらく甘やかしてもくれている。彼らから見れば被害者であり、加害者になろうとした私を。
ならば、私がこの男を嫌う理由は無い。
信頼はしていない。ただ、信用はしている。それだけのことだ。
「……さて」
ユルヤナは本を取り上げると、私を腕の上に抱き上げた。いつもは無い動作だ。
私が首を傾げると、ユルヤナは空いているほうの手で私の頭を撫でた。その感触は、たまに義兄がしてくれたそれに少し似ている。
彼が左手を私の首に這わせると、音も無く首輪がちぎれて床に落ちた。鎖の落ちる耳障りな音が牢に響く。私が驚いて目を見開いている間に、足の鎖も事もなく床に這う。
ユルヤナは歪みない足取りでさっさと歩き出して、いつの間にか開け放たれていた扉をくぐるとぼそりと呟く。
「外に出る許可をとった」
そういうことは先に言え。
ユルヤナは千隼を、千隼はユルヤナをそれぞれ振り回して欲しい。
気を抜くとまだ打ち解けて無いのにすぐいちゃいちゃする、このふたり。




