まもるべきこども 3
どろどろと重たい闇の泥の中を沈むような心地だった。
絡みつくようで、それでいてさらさらとしている奇妙な闇は、私の瞳に何も届けない。ただただ暗く、重たい。私は一体どこに向かっているのだろうか。これで、二人の下に行けないとなったら私はあの声の主を殴る。いや、蹴るか。それとも首を刎ねるのがいいか。こちとら剣道部の助っ人で木刀や刀の扱いだけは心配されるほど慣れている。
ああでも、刀が無い。今握っている包丁しかない。
どうしよう、とぼんやり考えていると、急に闇が開けた。
うねるような強い風が吹き付ける中で、ずるりと闇の中を抜けた私は翠の光の元へ落下していく。
襤褸切れか触手のように身体に纏わりついているのは、あの泥のような闇の名残か。風に吹き飛ばされた闇は、頭上の暗雲めいた闇の中に戻っていく。慣れない自由落下をどうにかしようと、身体を捻って下を見る。
光が、円を描いていた。
正確には円だけではなく、なにかの文様や文字をなぞるように光が這って、小説の挿絵や漫画で見た魔法陣のようだった。複雑で、何が書かれているのか、何を表しているのかも分からないが、ただ無性に憎かった。
陣を睨みつけて――そこに、見慣れた2つの姿を見つけた。
倒れ伏したその姿にどきりとする。
人が倒れているのを見るのは嫌だ。今も昔も、ろくな思い出が無い。
光に叩きつけられるように墜落した。
思ったより軽い衝撃だったが、それでも重く痛いことには変わりない。
光の膜だと思っていたそこは、大理石めいた石の床だった。磨かれた床に陣の光が反射して、そう思ったのだろう。心底憎らしい、光がやけに美しいからこそ。
すぐ傍らに倒れたままの、意識が無さそうなふたりを胸に掻き抱く。
あたたかい、鼓動も感じる。――いきている。
その格好のまま、徐々に収束していく光と魔法陣を眺める。睨むといったほうが正しいか。小川の流れのように光が床にわだかまる程度になった頃には、周囲の観察も大方が済んでいた。
――人がいる。
しかもかなりの人数だ。
魔法陣を囲むように、数十人規模で立ち尽くしている。私が落下してきた闇はもう既に無く、絢爛豪華な天井画がひしめき装飾も華やかな、西欧の大聖堂のような大広間に居ることもわかった。そして一番奥、私の目の前にある数十段の階段の頂上に見下ろす視線があることも。
「う、ん……」
腕の中の瑠璃と由鷹がほとんど同時に呻いた。
ぎゅう、と抱きしめると、身じろぐ。ほっとした。
「これはどういうことだ、魔導師」
威圧的な声が広間に響いた。
無条件に嫌悪する声だった。聞くものが聞けば、美声にも聞こえるだろうが、私は御免なタイプだ。
そして、不意に気付く。今のは日本語ではなかった――英語でもない、全く聞かない言語。
だのに、何故意味が分かったのか。
「召喚するものは、2人ではなかったのか。何故3人もいる」
階段の頂上から下りてきた声の主は、まるで中世の王侯貴族のような格好をしていた。といっても、タイツなどは履いていないが。不機嫌そうに西欧風の整った顔を歪ませ、私を通り抜け、私の背後を見ている。
私も気になって、後ろを見てみた。
――紅い男がいた。
魔法使いが着るような、引きずるほど長いローブ。ただそれは血に染まったような異様な赤さだった。フードから覗く顔は病人のように白く、ウェーブのかかった暗い灰色の髪は顔の半分を覆い隠して表情はわからない。ローブの中は、やはり裾を引きずりそうな、トルコや中央アジアの民族衣装風な服だった。あれだけ布を纏っていて重くはないのだろうか。
「……呼んだのは、ふたりだ」
重苦しい、低い声だ。テノールでもアルトでもなく、バス。
声は小さいのに、身体に響く。
「殿下、わたくしは見ました」
紅い男の背後から、駆け寄るように歩み出てきた金髪の女が叫んだ。
「あの子供が、陣の上に現れた闇の中から堕ちてきたのを。陣の上から現れたのは、想定通り2人でした」
「……あの子供が、想定外だったと?」
「リルクヴィストさまは宮廷随一のお力をお持ちです、彼が誤るわけはありません」
女は熱っぽい視線を、隣の紅い男に注いだ。
しかし男は我関せず、という風に、ただどこかを見ている。――私を、か。
おねえちゃん、と困惑の混じった声が腕の中から聞こえた。
いつのまにか目を覚ましたらしい瑠璃と由鷹が、私に縋りつきながら怯えた風に周囲を見回している。
安心させるようにふたりを抱きしめ、その場にきちんと立たせる。背後に2人を隠し、殿下と呼ばれた高圧的な雰囲気の男に向かう。
「これは、なんだ」
「貴様こそ、なんだ。神子とその従者を呼ぶ召喚で、何故貴様がそこに現れた」
忌々しげな男の台詞に、こちらも眉を顰めてしまった。
神子、従者。何だそれは。召喚だなどと、まるでファンタジーだ。
「知らない。いきなり連れ去られそうになった家族を、連れ戻そうとしたらここにいただけだ」
「家族?……似ていないな」
嘗め回すような視線が気持ち悪い。
血は繋がっていないなどと、こちらの事情を話すような義理は無い。
「我々は、国を救う神子と従者を召喚した。見たところお前は巻き込まれたか、もしくは、――魔、か」
魔、という言葉に広間の空気が緊張した。
壁際に立っていた、鉄仮面を被った兵士たちが全員剣の柄に手をかけるのを横目で見て、私は小さく舌打ちする。
分からないことだらけだ。召喚、神子、従者。巻き込まれた、だと。
そんなことは知ったことじゃない。
ここが漫画にあるような、そんな別の世界だとしても。
そんなことは些細な出来事だ。
「何で、この子たちだった」
「何がだ?」
「何でこの子たちが、そう呼ばれて、選ばれ、連れ去られたんだ」
「それは神が選ばれたこと、我々には与り知らぬことだ。――神子と従者を、神殿へお連れしろ」
どこまでも不遜で横柄な男に、私は何かを思うことさえやめた。この男は嫌いだ。嫌いならば、考えることさえ面倒だ。
男の言葉と同時に、侍女らしい女たちと何人かの兵士が歩み寄ってくる。
男の手が瑠璃と由鷹の腕をとったのを見て、瞬間的に私は傍らに落としたままだった包丁を拾った。
「離せ!」
じゃりっ、という耳障りな音を立て、鉄板のような手甲が裂けた。
2人の腕を掴んでいた兵士が慌てたように後ずさり、侍女たちも悲鳴を上げる。一瞬で騒然となった広間を、目だけで巡る。壇上の――おそらく、一番の権力者であるだろう夫妻も驚いたように椅子から立ち上がってこちらを伺っている。
その時、私には包丁如きで何故鎧が裂けたのか全く考えもしなかった。
ただ、私からふたりを奪うものを跳ね除けたかった。
「魔導師!」
忌々しげに叫んだ男に従ったのか、紅い男はそっと手をこちらに向けた。
黒い手袋をしている、と思ったが、よく見るとそれは爪を持っており、遠めでありながらもその質感は人間の肌のようだ。顔は白磁の色なのに、手はどうしてあんなにも黒いのだろう。
「――、――」
ぼそりと何かを呟いたが、私には何の変化も無い。
魔導師と呼ばれるのだから、魔法でも出すのかと思ったのだが。
私が怪訝そうに眉を寄せると、男も不思議そうな顔をした。目は見えないが、そう感じる。すると、急に背後から何かが落ちる音が聞こえた。振り返ると、瑠璃も由鷹もふたりそろって床に倒れこんでいた。
「瑠璃、由鷹!!」
駆け寄ろうとすると、目の前を風が凪いだ。髪の毛が数本宙を舞うのを見て、歯軋りした。――剣だ。
あえなく後ろへ飛び退ると、兵士が数人、私に向かって剣を向けていた。鈍い色、手に持つ包丁では全く歯が立ちそうにない。
「どういうことだ、魔導師!」
「……魔法が、効かん」
男たちが何か言っているが、耳に入らない。
その隙に近寄ってきた他の兵士たちが瑠璃と由鷹を抱き上げ、どこかに連れて行こうとする。
「瑠璃、起きろ!」
あの、いつも元気な明るい返事は無い。
「由鷹ぁっ!!」
あの、寝惚けて懐いてきた後の照れた怒鳴り声が、聞こえない。
いつの間にか周囲をぐるりと囲まれていたが、私はそれに気付かなかった。ただ、ふたりが広間の入り口から消えていくのを見ているしかなく、実際それしか目に入らなかった。
――何故。
殿下と言われた男は、おそらく偉いのだろう。だが、それが何だ。
私を囲む兵士は、強いのだろう。だが、それが何だ。
それが何だ。
全ては些細なことでしかない。
私にとっての大事なものは、あのふたり以外に、ありえないのだから。
男が憎かった。
その態度、その声、その台詞。全てが汚らしく、憎らしい。
「うぁああぁあああ!!!」
叫び、飛び出す。
まさか本当に向かってくるとは思っていなかったらしい兵士の腰が引けたのを見て、私は彼の剣を包丁で払い、その柄の先端を彼の鉄兜のこめかみあたりに叩きつける。兵士たちの円陣を抜け、目指すは、――あの男の下。
しかし、男に刃先は届かなかった。
もう少しという瞬間、身体にとんでもない衝撃がやってきて、気付けば無様に床に縫い付けられていた。げほ、と咳き込む。ひび割れた大理石に、赤い飛沫が散って、その赤に少しだけ心が冷えた。
冷たい。腕を拘束しているのも、体の上から私を押しつぶそうとしているのも、巨大な氷だった。
こつこつと近寄ってくる足音、その主に私は目だけを向ける。
案の定、あの紅い男だった。
紅い男は、まだうろたえたままの男と床に伏す私の間で膝を折ると、私の吐き出したもので出来た小さな血だまりをに指をつけ、それを口元に持って行き、何をするかと思えば舐めた。
「……ひと、か」
人以外の物になった覚えは無い。
何か男が喚いている。喧しい男だ、もう少しこの目の前の男の寡黙さを見習えばいいのに。
そう思いながら、私の意識はふっつりと途絶えた。
思ったよりも凶暴です。