2. 故人の身の振り方
葬儀の翌朝、私は公証人事務所の固い椅子に座っていた。
インクと古い紙の匂いのする部屋である。ヴェンツェル老公証人が、封蝋つきの書類を三つ、卓に並べる。隣にはバルドゥイン子爵。昨日の今日だというのに身なりは折り目正しく、ただ目の下にうっすら隈がある。
「まず、これを」
一つ目は、受理の印のある書付の控えである。
「今朝、大聖堂の審問局へ申告をして参りました。棺を検めた記録の原本と、死亡診断書の認証写し――ひと包みに封をして、教会の文書庫へ納めてあります」
「まあ。手回しのよろしいこと」
「審問局のアンゼルム師は、〈保護の留保〉を宣してくださいました。糺すのは、あなたご自身が申し立て、証しが揃ったとき。それまで封は開かず、教会は騒がず――あなたの今の名も、保護のうちとして黙認される、ということです」
つまり、と彼は生真面目に言い直した。
「あなたは今日から、教会公認の故人です」
「公認」
「非公式の、公認です」
妙な男である。冗談の顔をしていないのに、言うことだけが冗談なのだ。
二つ目は、私の夫だった人へ送る通告状の控えである。わたしか、夫人のご縁者に何かあれば、封は開かれる。ご縁者には、ヴェラ嬢が含まれる。そう、はっきり書いてある。文書庫の封と同じ中身の認証写しが、もうひと封――〈副封〉として、ヴェンツェル先生の手元に残る。「何かあった」かどうかを見極めて、審問局へ開封を求めるのも先生の役目だそうだ。老公証人は眼鏡の奥で、静かにうなずいた。
「これで、あの家はあなたに手を出せません。告発もできません。妻は生きていると言えば、死亡届が偽りだと白状することになりますから」
バルドゥイン子爵様はニヤリと笑う。
「あの黒枠の触れ――やはり、家令どのの名簿仕事でしたのね?」
「でしょうね。……従兄の身辺は、ああいう雑さでできています」
「宙吊りですのね。お気の毒に」
「三つ目が、これです」
身元保証状。子爵バルドゥインの名で、「亡き伯爵夫人の遠縁・ヴェラ」の身元を保証する、とある。平民の勤めと借家に要るのは、血統書ではなく保証人なのだそうだ。血統書より、よほど頼りになる紙である。
次に読み上げられたのは、祖母の遺言状だった。
『王都の家は、わが娘の娘ヴェロニカに。ヴェロニカ亡きときは、ヴェロニカの子に。それ以外の何人にも、一枚たりとも渡さぬこと。リンデンタール伯爵家には、扉の釘一本も渡さぬこと』
釘一本も、のところで祖母の声がした気がして、私は少し笑ってしまった。会ったのは数えるほど、文のやり取りばかりの祖母である。おばあさま。お孫さんは、釘どころか名前ごと取られましたのよ。
受取人は死んだことになっているから、家は名乗り出まで凍結。執行人はバルドゥイン子爵――二年前、祖母がじきじきに指名したのだという。
「理由を伺っても?」
「『夫家で唯一、帳面の綺麗な子だから』と」
「おばあさまらしいこと」
凍った家には、管理人を置ける。かくして「遠縁のヴェラ」は、亡き大奥様の家――生垣に山査子の茂る、王都の外れの小さな家――の管理人に収まった。勤め先も彼の口利きで話が進んでいる。花市の帳場が、達筆と算盤の立つ者を探しているそうだ。
◇
リンデンタール伯爵邸。朝の書斎で、ダンクマールは封書を三度読み返した。公証人の印。従弟の署名。「ご縁者に何かあれば」の一行が、目に貼りついて剥がれない。誰にも言えず、誰にも聞けず、破ることもできず、彼はただ封書を抽斗の奥へ押し込む。抽斗は、嫌な音を立てて閉まった。昼、母が短く問う。「あの、遠縁の女は誰です」。答えの持ち合わせはない。ないことを、母だけは察している顔だった。
◇
夕方、山査子の家の小さな台所で、二人ぶんの茶を淹れる。
四年ぶりに触る、火の入った竈である。湯の沸く音、茶葉のほどける匂い。誰かのために茶を淹れるのも、思えば四年ぶりである。別邸の茶は、いつも一人ぶんで、いつの間にか淹れること自体をやめていた。
取り決めはあらかた済んで、彼が帰り支度をする。その前に、私は手帳を開いた。嫁いだ年に買って、四年、ほとんど白いままの手帳である。書き込んであるのは昨日の葬儀と、月命日。つまり、弔いの日付だけ。
「予定帳ですか?」
「ええ。故人の予定帳ですの。……見事に、お弔いばかり」
彼はそれを覗き込み、何か言いかけて、やめた。代わりに、別のことを聞いてくる。
「――ひとつだけ。なぜ、お戻りにならないのです? 糺せば、あなたは奥方の座に戻れる。それが、その……普通の道では」
「まっぴらですわ」
食い気味に答えてしまった。彼が目を丸くする。
「戻れば、わたくしはまた『伯爵夫人』ですもの。あの別邸か、よくて王都の座敷牢ですわ。――死んだ女は、身軽ですのよ、子爵様。義理もない、呼び出しもない、縁談もない。こんなに具合のいい身の上を、なぜ手放さねばなりませんの?」
「……なるほど」
彼は生真面目にうなずき、帽子を取って、一礼した。
「では、良き故人生活を」
やはり、冗談の顔をせずに言うのである。
戸口を閉めて、湯呑みを二つ洗った。二つ、というところで手が止まる。この家の流しで洗い物が二つ並ぶのは、今日が初めてなのだった。
――翌朝。山査子の家の窓に、市場の呼び声が届いた。荷車の車輪と、競りの手打ちと、水の匂い。四年ぶんの静けさを、まとめて破りに来るような音である。花市の、初出勤の朝である。
その帳場に最初に舞い込む注文が、よりにもよって、わたくしのお墓の花だとは――このときはまだ、知らない。




