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1. わたくし、死んだそうです

 報せが届いたのは、使用人が消えて三日目の朝である。


 領地の外れ、糸杉(いとすぎ)の並木の先の別邸。皆がまとめて暇を出されてからというもの、この家で音を立てるのは私と、雨戸を揺らす風だけになっていた。人の声というものを、もう三日、聞いていない。だから門の呼び鈴が鳴ったとき、私は少しばかり感動したのである。


 配達人が置いていったのは、黒い枠のついた刷り物だった。


『リンデンタール伯爵夫人ヴェロニカ様には、流行病により永眠あそばされ――』


 ……あら。


 私は刷り物を裏に返し、表に戻し、朝の光にかざして、もう一度読んだ。読み間違いではない。伯爵夫人ヴェロニカ。それは私の名である。


『葬儀は三日後、王都の大聖堂にて執り行い候』


 ――わたくし、死んだらしい。


 種を明かせば、こういう刷り物は、家令が配り先の名簿どおりに刷って発送するものである。あの几帳面な家令どののことだから、名簿の上から順に、一軒も漏らさず――そう、一軒も。名簿から、この別邸を消し忘れたのだ。おかげさまで、訃報が故人ご本人に届いた。世界でいちばん律儀な、手抜かりである。


 嫁いで四年になる。「静養」の名目でこの別邸に置かれて、夫の顔は婚礼の日と、あとは数えるほどしか見ていない。手紙は家令の代筆で、季節の変わり目に定型文が一枚。この家で私は、待つことすら求められていなかった。その夫が、妻を書類の上で片づけたのだ。理由は考えるまでもない。新しい、持参金付きの縁談であろう。


「へえ」


 声に出してみたら、存外に乾いた声が出た。怒りが来るかと、しばらく胸の中を探ってみたけれど、来ない。四年かけて、この胸は「欲しがる」ことも「怒る」ことも、どこかへ仕舞い込んでしまったらしい。代わりに来たのは、妙に晴れ晴れとした算段である。


 死んだ女には、義理がない。呼び出しも、無心も、縁談も――もう、何ひとつ。


 私は手持ちの古着から一番上等の黒を選び、二日かけて喪服に仕立て直した。針を運びながら、生まれて初めて、自分のために予定を立てる。指先が、少し温かい。


 三日後。王都、大聖堂。わたくしの、お葬式。


      ◇


 大聖堂は、義理でできていた。


 香の煙が高い天井へのぼり、色硝子の光が石の床に落ちている。流行病名目の棺は固く閉じられ、参列者は誰ひとり「顔を出さない夫人」の顔を知らない。私は濃い喪のヴェールの下から、自分の棺を眺めた。白い花に埋もれた、上等の棺である。運び込む人夫が、小声でこぼす。


「……軽うございましたなあ」


 でしょうね。中身は、こうして立っておりますもの。


 喪主の席には、夫。ダンクマール・リンデンタール伯爵。四年ぶりに見るお顔は、少しお太りになった。私は弔問の列の順に進み出て、完璧な作法で一礼を差し上げる。膝の折り方、首の角度、間の取り方。淑女教育というものは、こういう日のためにあるのだと思う。


「ようございましたわね。故人も、さぞ清々しておりましょう」


 ヴェールの下の顔を、夫だけが見た。血の気が、音を立てて引いていく。口が開いて、閉じた。言えるはずがないのである。「妻は生きている」と叫べば、虚偽の死亡届が、そのままご自分の首に巻きつくのだから。


 立ち上がりかけて、座り直した喪主を残し、私は静々と席へ戻った。香の煙の向こうで、聖歌隊が故人の安らかな眠りを歌っている。安らかである。生まれてこのかた、今日ほど安らかな日はない。


      ◇


 式の後、聖具室(せいぐしつ)の脇で呼び止められた。


 葬儀の差配(さはい)役。夫の従弟にあたる、バルドゥイン子爵である。面識はない。蝋燭の匂いのする薄暗がりで、生真面目を絵に描いたような顔が、声を落として言う。


「棺が、軽すぎました」


「あら。よく気のつく差配ですこと」


「――お戻りに、なりたいですか?」


「いいえ」


「では、わたしは何も見ていません」


 即答だった。詮索も、説教も、憐れみもなし。この人は、たったいま「戻る」以外の道があることを、当たり前の顔で認めたのである。それから彼は一拍おいて、付け足した。


「ですが、備えだけは、させていただきます。従兄には、そう伝えます」


 何の備えかは、言わない。言わないまま廊下へ出て、遠巻きにこちらを窺っていた夫に向かい、聞こえよがしの声で告げたのである。


「夫人のご縁者に何かあれば、ただでは済まぬ備えです」


 ご縁者。ヴェールの女を見もせずに、そう呼んだ。夫の顔色が、白から灰色へ変わる。


      ◇


 会葬(かいそう)御礼の席は、香の匂いと、遺産の話でできていた。


 喪服の男が滑るように寄ってくる。夫家の親族の、どなたかであろう。目が、算盤(そろばん)の玉のように動いている。


「時に、あなたは亡き夫人のご縁者とか。夫人のお祖母様が王都に家をお持ちだったそうで――あれは今後、どなたのものに?」


「あいにく、故人ですので」


 私は扇を閉じ、にっこりと申し上げた。


「故人の財布は、もう開きませんの」


「は、はあ……」


「故人に代わりまして、御礼だけ申し上げますわ。本日は、ようこそお運びくださいました」


 深い、深い礼。相手が怯むほど深いのが、こつである。男は後ずさりに人混みへ消えた。


 なるほど、死んだ女は身軽である。義理を断るのに、理由がひとつも要らない。


 入れ替わりに、先ほどの従弟どのが立った。


「……して、あなたのお名は?」


 さて。伯爵夫人ヴェロニカは、本日をもって故人である。私は少し考え、洗礼名の端を千切って差し出した。


「――ヴェラ、と申します」


 死んだ女の、新しい名前である。

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