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10. 先の奥様はどんな方

 お嬢さんは、帳場の前で深々と頭を下げた。


「不躾は承知しております。わたし、ロザリンデと申します。このたび、リンデンタール伯爵家に、その……縁談を、いただいておりまして」


 来た、と思った。来るなら屋敷の乳母か、商会の番頭あたりの聞き込みだろうと踏んでいたのに、来たのは当のお嬢さん本人である。


 お辞儀の角度に、育ちが出ていた。商家の(しつけ)の、きちんとした礼である。顔を上げたその目は、緊張で少し潤んで、それでもまっすぐこちらを見ている。この目を、私は帳場の椅子から、しばらく黙って見てしまった。


「お屋敷の方に伺っても、先の奥様のことは、どなたも何もご存じなくて。お墓の場所をお聞きしたら、家令の方が黙ってしまわれて。……ご縁者の方が花市においでと聞いて、それで」


 自分の足で、である。婚約者の家の誰にも頼らず、亡くなった先の妻の跡を、自分の足で探しに来たのだ。


 ――このお嬢さんは、駒にしておくには、惜しい。


 私は帳場を小僧に任せ、市場の裏の木陰に席を作った。樽をふたつ、椅子の代わりである。初夏の光が、菩提樹(ぼだいじゅ)の葉ごしにちらちらと落ちて、市場の喧騒が少しだけ遠くなる。豪商のお嬢さんは、樽の椅子に嫌な顔ひとつしなかった。


「遠縁のヴェラと申しますの。……で、何をお聞きになりたいの?」


「何でも、です。なんでも、教えてください」


「先の奥様は――ヴェロニカ様は、どんな方でしたか?」


 また、故人が故人を語る仕事である。ただ、今日のお客の目は、老男爵夫人の偲ぶ目とは違う。これから同じ席に座る人の、切実な目である。


「地味で、静かな方でしたそうよ。領地の別邸がお好きで、四年、王都にはいらっしゃらなかったの」


「……お幸せな、奥様でしたかしら?」


「――いいえ」


 即答してしまった。ロザリンデ嬢が、目を見開く。


 言ってから、湯呑み代わりの水差しに映る自分の顔を、一拍だけ見た。取り繕う道は、いくらでもある。老男爵夫人にしたように、手仕事の上手な静かな人でした、と砂糖をまぶす道が。けれどこの目に、偲び話の砂糖菓子を出すのは、嘘より性質が悪い気がした。この娘は偲びに来たのではない。これからの自分の話を、聞きに来たのである。


「幸せでは、なかったと思いますわ。お輿入れの日から、あの方はずっとお一人だった。……ですけれど」


「ですけれど?」


「あの四年を『お可哀想』の一言で畳んでよいのは、故人だけですの。余人が値踏みしてよいものではございませんわ」


 そう力説したのだが――故人は自分である。言い切っていいような気もするしダメな気もする。


 なんだか調子が狂い、コホンと咳払い――――。


「えーと、あなたのこれからも、同じことよ、お嬢さん」


 私はロザリンデ嬢の可愛い瞳をのぞきこむ。


 彼女は、しばらく黙っていた。それから、膝の上の手をぎゅっと握り、小さく言う。


「……わたし、あのお家のことを、何も知らないんです。父は、いいお話だとしか。でも、先の奥様のことを誰も話さないのが、なんだか、こわくて」


 こわい、と言えるのは、目が利くということである。四年前の私は、それすら言わなかった。


「お嬢さん。その『こわい』は、大事になさいませ」


「え?」


「勘は、嫁入り道具のいちばん底に入れておくものですの。……さ、お茶でも飲んでらっしゃいな。花市の茶は、渋くてよく効きますのよ」


 渋い茶を飲んで、ロザリンデ嬢はようやく、年相応の顔で笑った。笑うと、目尻に幼さが残る。十九というのは、そういう年である。


 ――帰り際、ロザリンデ嬢は木戸の前で振り返り、無邪気に言ったのだった。


「そういえば、ヴェラさん。花市に幽霊が出るんですって。こわいですわね」


「ええ。……お互い、気をつけましょうね」


       ◇


 リンデンタール伯爵邸では、結納の日取りが練られていた。商会側の求めは、書面の整いと早さ。当主は頷きながら、上の空である。頭にあるのは葬儀の払いの綴り――あの帳面一式が、いまも従弟の手元にあるという事実だった。差配を任せたのは母だ。安く済むから、と。いまさら返せとは、言えない。言えない理由を、聞かれるわけにはいかないからである。


       ◇


 店じまいのあと、薄暗がりの帳場で、私は日傘の人に言った。


「あの縁談、潰しますわ」


 彼は驚かなかった。ただ、続きを待つ顔をする。


「四年前のわたくしと、そっくり同じ形をしておりますの。違いはひとつだけ。あちらの縁談は、嘘の死亡届の上に建っておりますのよ。露見すれば婚姻ごと無効、持参金は借金の穴へ――そういう普請(ふしん)の家ですわ。あのお嬢さんを、知らないまま住まわせるわけには参りませんの」


「……守る、と」


「守るなんて、上等なものではございませんの」


 帳場の蝋燭を、ふっと消す。


「故人には、できないことでしたから」


 四年前、誰かがこうして怒ってくれたなら――と、思わないでもない。思わないでもないから、やるのである。


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