第002話 森に入ったお姫様
「女ぁ!!」
「えっ!? なに!? きゃあっ!?」
勢いそのままに、俺は女を押し倒す。
300年振りの異性に、俺のあるかないかもわからないくらいに希薄で、かつなけなしの理性は、容易くどこかへと吹き飛ばされてしまった。
こんな言い方をすると、まるで俺が女のことをよく知っているみたいだが、当然学名くらいしか知らない。いや、見栄を張った。俺は女については、学名があるのかないのかすら知らなかった。
「人!? やめっ! 離れなさい!!」
彼女に覆いかぶさり、盾になる。<弾丸狼>の群れから身を挺して守ってやるためだ。それ以上の理由はない。
奮い立つ正義の心が赴くままに、俺は行動するだけ。
柔らかいとか良い匂いとかそんなことしか頭にはなかったが、理由はきっとそれ以外にはないはずだ。
「怖かったろう! もう大丈夫だ! 俺が守ってあげるから!」
可哀想に。
獣を恐れて震えているようだ。
「怖いのはあなたよ!」
違った。どうやら彼女が恐れていた獣は俺らしい。
これは一本取られた。
だが女性をいたずらに怖がらせるような趣味は当然持ち合わせていない。俺は誤解を解くため、誠心誠意釈明する。
「誤解だ! 俺は決して怪しい者じゃない! この人っ子一人見当たらないような暗い森の中で、一人静かに暮らしているだけの平凡な男だ! 本当に、全く、全然、これっぽっちも怪しい者じゃない!」
「怪しすぎるわよ!!」
怪しすぎる様だ。
そして、全く誤解ではなかった。
決して分かり合えない苦しみを、分かち合う。これが吸血鬼と人間の悲しき境界線なのだろうか。俺はもう人と分かり合うことはできないのだろうか。
「ちょ! ほんとに離れて! 今は――!!」
――グルルルッッ……
「ん?」
耳を掠めたのは、獣の威嚇音。
それに最初に反応したのは、突然森から飛び出してきた不審者に押し倒された形となった――女だった。
彼女の視線に釣られる形で、突然森で出会った女を押し倒した不審者こと俺は――その場へと視線をやる。
そこには俺の獣仲間でもある<弾丸狼>の姿があった。彼らはこの女を追いかけて居たようなので、未だにこの場に残っていることは当然なのだが、すっかり存在を忘れていた。
美しい銀の毛並みは、どことなく神聖さを感じさせる。神の生まれ変わりと一部で言われているのも納得だ(俺が言ってる)。
そんな魔獣が、計7匹。前に出ている大型の個体が、この群れのリーダーなのだろう。体格と気配からして明らかに違う。
俺もこいつらの同種とはよく遊ぶしよく食べるので、やはりよく見知っていた。こう言うと成長期のわんぱくな子供みたいだ。
向けられるは、殺意の宿った瞳。
狩りに乱入した闖入者の姿を、鋭く睨みつける。俺はそれを、黙って眺めていた。
「グルゥゥゥ……ガアァァッ!!」
「うるせえ!!」
しかし、黙って見ているのは目が合うところまでだ。
唸りながら一歩踏み出してきた群れのボスに、負けじと裂帛を叩きつける。
子供の癇癪にも近いような咆哮に、狼の逆立っていた毛が一瞬で見えなくなり、尻尾まで丸まる。
そこにいたのはもはや狼ではなく、犬だった。
「俺の獲物だろうが!! 失せろ!!」
見て分かんねえのかと、理不尽な要求を無理やり押し通す。
彼らは獲物を横取りされているので、まさに理不尽だ。
しかし――
「クゥーン……」
弱肉強食は世の常。彼らは弱者としてあるべき姿を示し、退散していった。
死という本物の敗北を避けたあたりに、野生に生きる者としての賢さを見せながら。
「そんな……<弾丸狼>の群れを、こんなに簡単に……」
退散する敗北者たちの後姿を眺めながら、女が静かに喘ぐ。
俺はその美しい音色に惹かれるように、再び視線を戻した。
「さて……」
邪魔者はいなくなったので、さっそくいただくとしよう。
(ん? いただく?)
我に返ってみれば、ふと思う。俺は一体、何をしているのだろうかと。
女を押し倒して、これから何をするつもりだったのか。というか、人間は初対面の女をいきなり押し倒してもいいんだったか。俺は人間ではなく吸血鬼だから、セーフとなるのか。
300年も無駄に生きていると、常識を忘れてくる。
(なっ!?)
答えを求めるように、押し倒した女の様子を見下ろせば、彼女も俺を見上げていた。
眉を寄せ、まるで不審者でも目にするような顔をしている。彼女の近くに不審なものでもいるのだろうか。<弾丸狼>はもう追い払ったはずだが。
しかしそんな思考も、すぐに霧散する。それどころではなかったから。
(かっ……かわいい!!)
よくよく見て見れば、女は絶世の美女、いや美少女だった。
年齢は高校生くらいだろうか。大人びた顔立ちをしているので分かりにくいが、たぶん16歳から18歳あたりだと思う。
それだけでも嬉しいことだが、特筆すべきはその美貌だ。
月の輝きのような金の髪に、真珠のように光る銀の瞳。王族のような気品と女神のような神々しさを併せ持つ少女。
こんなに美しい人間は、見たことがなかった。
(すごい……凄すぎる。世界一の美女と言われても納得だ)
異世界に転生して300年。初めて会った女が、絶世の美少女。
しかも人なんかほとんどやってこないこの森の中で出会えるなんて、俺の運はまだ尽きていない。それどころか、これが運命という奴なのではなかろうか。
なんにせよ、この出会いを逃す手はない。
仲良くなって、俺の長い人生に一瞬だけでもいいから、花を添える。
そのためには、最初が肝心だ。もう色々と遅い気もするが、俺は選択を間違えるわけにはいかなかった。
「どこ住み? 彼氏いる?」
「……は?」
駄目だ。選択を間違えた。
だってナンパなんか生まれてこの方、死んでからだってしたことがないし、なんなら女の子とまともに会話したことすらない。
「…………」
「…………」
無言の時間が流れる。
じっと見つめ合う間、俺は心の中で女神へと唾を飛ばす。お前のせいでこんなことになったと。完全な八つ当たりだった。
「…………助けて、くれたのよね?」
「あ、ああ……そう、そうだ。助けたんだった」
沈黙を破ったのは、女だった。
どこか不安そうな確認。俺も一緒に不安になりながら、なんとか肯定する。
「じゃあ離れてくれる? もう覆いかぶさる理由はないでしょ?」
「そうだね。理由はないね」
「…………」
「…………」
俺は変わらず、女を見つめ続ける。
やや吊り目の大きな瞳。気が強そうな鋭利な視線。好みだ。
「彼氏……」
「いいからさっさと離れて」
「はい」
すっと音も立てることなく立ち上がる。
手を差し出そうか迷ったが、彼女はこちらに一瞥もくれることなく自力で起き上がり、ひざ丈のスカートについた土を手で払う。当然俺の手は行き場所を失い、視線は揺れるスカートへと向かった。当然だ。
「危ないところだったな。助けが間に合ってよかった」
「ええ……それについては、ありがとう。助かったわ。でもさっき『女だぁ!!』って叫んでなかった?」
「ああ、あの狼がね。変わった鳴き声だよな」
「いや無理だから」
「ああ、俺もあの鳴き声は生理的に無理だ」
「違うから」
さりげなく仕切り直しを図ったつもりだったが、一体どこで間違えたのだろうか。不審な者を見る目が留まるところを知らない。もしかして俺の後ろに誰か立っているのではなかろうか。
「はぁ……まあ、一応助けて貰ったし、自己紹介はしておくわ。私はルルワ――いえ、ただのルルワよ。あなたは?」
畏まり、姿勢を正してまで挨拶をしてくれる少女――ルルワ。
礼を尽くされたならば、こちらも礼によって応えなければなるまい。
俺は背筋を正し、胸に手を当てて腰を折り曲げた。
「俺は森生まれ、森育ち、森ボーイの吸血鬼。今年で300歳、彼女はいません。……今はね」
300年間ずっと彼女なし、というか前世でも今世でもずっと彼女なしだが、そんなことは恥ずかしくて言えないので”今は”と付け加えておく。
今はいないだけで過去にはいたのではと思わせられる魔法の言葉。実体が伴わないため、所詮は幻術の類だが。
「聞いてないから……って吸血鬼!?」
「うん」
瞬間、鞘から剣は抜かれた。
金属光沢を放つレイピアの切っ先が、断罪の輝きに光る。俺は正義の騎士を目の前にした化け物らしく、恐れ慄く――ようなことはせず、眩しさに少し目を細めた。
「なんだよ急に。俺はひかりものは嫌いなんだよ」
「…………」
「あと先端恐怖症と女性恐怖症も持ってるから、今は最悪の気分だ」
「さっき『女ぁ!!』って叫んでたじゃない」
「女性恐怖症にはついさっきかかったから。今なお悪化してる」
「そう、なら安心ね」
意外にあっさりと、ルルワは剣を仕舞う。
一体なんだというのか。そんな思いが顔に出ていたのか、彼女は自ら答えてくれた。
「よく考えれば、意味が無かったわ。<弾丸狼>の群れを簡単に追い払える人間……いえ吸血鬼なら、私なんかいつでも襲えるものね」
「襲うって、獣じゃあるまいし」
「さっき私に覆いかぶさってたわよね?」
「ああ、身を挺して庇ったあれね」
「…………」
誰が何と言おうと、俺は悪しき獣たちから彼女を救った心優しき吸血鬼だ。
異論は認めない。
ルルワはあまり引きずるタイプではないのか、それともあまり興味がないのか、俺の見苦しい言い訳をため息一つで終わらせると、話題を次に移す。
「吸血鬼って本当なの? あなた一人だけ?」
「うん。この森には俺しかいない。もしかして珍しいの?」
「珍しいに決まってるじゃない。数千年前にはいたって文献には残っているけど、現世にはただのいっぴ……一人として目撃情報はないわ」
「おお、じゃあ俺が最初の一人か」
「最後の一人でしょうね。まさかこんなところにいたなんて……いえ、こんなところだからか……」
不穏な言い方だ。
ここは俺の住処でもあるのだから、嫌でも気になってしまう。
「なんだよ。この森、なんかいわくつきなの?」
「あなたここがどこか知らずに生き……いえ、住んでいるの?」
「うん」
呆れたと、これ以上ない程分かりやすいあきれ顔。
そんな表情でも可愛いのだから、美人というのは得だ。
「ここは通称――”還らずの森”。一度踏み込めば、二度と出られないと言われている禁域よ」
「ほーん……」
「現にここから帰ってきた人間は、過去、誰一人として存在しない。人が絶対に触れてはならない、禁断の地」
「ほほーん……」
そうだったのか。
生まれてこの方ずっとこの森にいたので、全く知らなかった。
「腑に落ちてないようね。この森は外とはレベル違いの魔獣たちが生息する魔境なのよ。更に森の奥深くには、人知の及ばない恐ろしい怪物がいるとされてるわ」
「誰も帰って来てないのに、どうやって森の中のことを知ったの?」
「え?」
それは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔だった。
こんな表情もできるのかと、新鮮な気持ちを味わう。あとやっぱり可愛い。
「た、確かにそうね。盲点だったわ」
羞恥に頬を染める表情も可愛い。
困った。300年で今が一番幸せかもしれない。
俺が顔面をだらしなく弛めながらルルワを眺めていると、彼女は逆に、キリっと表情を引き締めた。カワイイ。
「でも確実な情報もある。今から200年くらい前に、当時世界最強と言われていた魔王が、この森に挑んだことがあるの。”還らずの森”などという大それた呼称を打ち崩すために、たった一人でね」
「ほーん……」
やっぱ魔王とかいる世界なんだと、漠然と思う。
まあ外の事は俺には関係ないのだが。
「その魔王は、今も帰ってきていない」
「…………ん? 200年前?」
「ええ」
200年前――。魔王――。
記憶にあるような、無いような――。
記憶の糸を必死に手繰り寄せた末、俺は答えを導き出す。
「ああ……それたぶん俺が殺した奴だわ」
「はい?」




