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第六章、決別と本物の愛

 それから一週間ほど経過したある日、ブリオット家の大広間では、貴婦人たちが集っていた。

「ジュリー、あなた、このところ頻繁にうちに来ているけれど、シェラザード卿はなにも言わないの? 妻が実家に入り浸るなど、あまり褒められたものではありませんよ」

 クリーム色のソファーに腰掛けたマリアンヌが、ティーカップ片手に話す。

 その矛先は、ダークブラウンのローテーブルを挟んだ、向かい側に座ったジュリアンヌだ。

 彼女はティーカップを傾けると、紅茶を一口含みクスリと笑った。

「文句なんて言わないわ、彼はわたくしにベタ惚れですもの。お母様は周りを気にしすぎよ、そんなことだから心を病むんだわ」

 ジュリアンヌはそう言うと、ローテーブルのソーサーにティーカップを置いた。

 あけすけにものを言う娘に、母親はハァと短く息を吐いた。

「まったく、あなたは口が減らない上に、男まさりなものだから、料理や裁縫にもまったく興味がなくって……わたくしはようやく娘ができたような気分だわ、ねぇ、アンジー」

 マリアンヌはそう言うと、隣に座るアンジェリカを見た。

 目配せされたアンジェリカは、クッキーを食べようとした手を止めて、笑顔を返した。

 貴婦人の嗜み、昼食と夕食の間にある、午後の茶会である。

「それはようございました、わたくしも女らしい妹ができて嬉しいもの。アンジーが作ってくれたお弁当は本当に美味しかったわ」

 アンジーという呼び名も、だんだん板についてきた。

 爵位式からすぐに、ジュリアンヌに誘われて、鷹狩りにおともしたアンジェリカ。 

 もちろんアンジェリカは狩りをしないので、お弁当を持って見学に行っただけだ。

 ジュリアンヌの素晴らしい腕と、勇ましい姿に、アンジェリカは感嘆した。

 そしてジュリアンヌは、狩りは男のものだとか、野蛮だとか言う貴族が多い中、共感してくれたアンジェリカを気に入った。

 以来、暇さえあれば、こうして実家に顔を出し、アンジェリカと話に来るのだ。

「お口に合ったようでよかったです、またぜひおともさせてください」

 ふわっと笑うアンジェリカに、ジュリアンヌは席を立って距離を詰める。

 そしてしゃがんでアンジェリカの頬を包むと、唇がつきそうなほど顔を近づけた。

「本当に良い子ね、アンジー、わたくしが男なら、クラウスより先に結婚を申し込んでいたわよ」

「ゴホンッ!」

 わかりやすく咳払いをして注意を引いたのは、バトラーであるフリードリッヒだ。

 クラウスからアンジェリカのことを頼まれている彼は、身内であるジュリアンヌにも目を光らせている。

「……お姉様とはいえ、いささか距離が近すぎるかと。後、アンジェリカ様にあまり危ない遊びを教えるなと、クラウス様より常日頃から仰せつかっておりますので」

「そんなことを言っていたらキリがないでしょう? 今やアンジーは貴族界の人気者なのだから、これからもっと交友関係が増えて、行動範囲も広がるはずよ」

 ジュリアンヌはアンジェリカの傍らに立ち、ねえ、と言いたげに微笑みかけた。

 彼女の言う通り、爵位式以来、アンジェリカへの誘いはひっきりなしだ。

 アンジェリカから声をかけた、リビドー家やフィンセント家を始め、そこから他の貴族にも話が広がりつつある。

 アンジェリカ様は、公爵夫人らしからぬ腰の低さで、穏やかでお優しい方だと。

 今、ローテーブルに出しているクッキーは、リビドー家でもらったオレンジを使っている。

 大広間に飾られた花は、フィンセント家からの贈り物。

 他にも香水や雑貨、新鮮な野菜まで、どんどん贈答品が増えている。

 貴族界において社交は重要な役割を果たす、特に妻である夫人たちには、高いコミュニケーション能力が求められる。

 アンジェリカはずっと、人同士の繋がりに憧れていた。だからいろんな人と関わり、個人の趣味や特徴を覚えるのが楽しい。

 その上、誰にでも分け隔てなく接することができる彼女は、すでに公爵家の夫人に相応しいスキルを持っていた。

「誰かに会うたびに、挙式を楽しみにしていますと言われるわ、きっと当日は多くの参列者で賑わうでしょうね」

 そう話すマリアンヌは、少し誇らしげだ。

 塞ぎ込むのをやめて、最近では社交の場に顔を出すようになった。

「シェラザード家からも盛大にお祝いするわよ、なにか足りないものがあれば遠慮なく言いなさい」

「ふふ、ありがとうございます」

 頼もしいジュリアンヌにアンジェリカが小さく笑った時、大広間の入り口に、一人の人物が現れた。

 メイド服を着た小柄な彼女は、アンジェリカの姿を見つけると、小走りに近づいた。

「ルカナ? どうしたの?」

 アンジェリカの侍女であるルカナは、少し不安げな表情をしていた。

「あの……アンジェリカ様に、客人がお見えで……妹の、ミレイユだと名乗る方が――」

 大広間の空気に、緊張が走った。

 今ここにいるのは五人、アンジェリカ、マリアンヌ、ジュリアンヌ、フリードリッヒ、そしてルカナだ。

 つまり、ルカナ以外は全員、アンジェリカの境遇や、ここに至るまでの経緯を、クラウスから聞いて知っている。

 ルカナはその異様な雰囲気を察した。

 アンジェリカが肉親のことや、自分の過去について触れたがらないので、実家となにかあったのではないかと考えていたが、やはりそうなのだと確信を得た。

 僅かな緊張の中、最初に動いたのはフリードリッヒだった。

 彼はモノクルの位置を指先で調整すると、アンジェリカに向き直った。

「私がクラウス様にお伝えした後、客人を迎え入れます。フランチェスカ家の方がお見えになったら、通すようにと、クラウス様からご指示をいただいておりましたので」

 アンジェリカはやや視線を下げると、膝に置いた手に少し力を入れた。

「クラウス様は逃げも隠れもいたしません、堂々と対話されることでしょう。そしてアンジェリカ様に、その場に立ち会ってほしいとお考えのはずです……後はあなた様次第でございます、お覚悟ができましたら、書斎にてお進みください」

 フリードリッヒはお辞儀をすると、踵を返して大広間を後にした。

「……アンジー、大丈夫? わたくしも一緒に行きましょうか?」

 考え込むアンジェリカに、ジュリアンヌが声をかけた。

 顔を上げたアンジェリカは、優しげなルビーの瞳と出会う。

「なんならわたくしが、そのまま討ち取って差し上げてもよくてよ」

 ふふん、と勝ち気な笑みを浮かべるジュリアンヌ。

 女将軍のような風格のある彼女が言うと、冗談に聞こえない。

 ジュリアンヌの言葉に緊張が解れたアンジェリカは、決心してすっと立ち上がった。

「……ありがとう、ジュリー、でも私は大丈夫です、だって、もう一人ではないもの」

 アンジェリカは周りに心配をかけないよう、気丈に微笑んで一歩を踏み出す。

 ルカナに付き添われ大広間を出ると、螺旋階段を上った。

 そして三階にある書斎の前で立ち止まると、立派なドアをノックした。

「アンジェリカです」

 名を告げるとすぐに、ドアが内側に開く。

 そこに立っていたのは、フリードリッヒだった。

 彼はアンジェリカを中に招き入れると、会釈をして部屋を出る。

 そして、廊下にいたルカナの横に立ち、再びドアを閉めた。

「アンジェリカ、よく来てくれましたね」

 アンジェリカが振り返ると、正面の机越しに立つクラウスと目が合った。

 シアン色の上着とベストに、白いズボンを合わせた、爽やかな装いだ。

 クラウスはアンジェリカを見ると、すぐに微笑んで近づいてきた。

 そして机から向かって左の壁際にある、革張りのソファーを手のひらで示した。

「どうぞ、そちらに座ってください」

 クラウスに案内され、アンジェリカはワインレッドのソファーに腰を下ろす。

 すると、クラウスも同時に、アンジェリカの隣に腰掛けた。

「……怖いですか?」

 クラウスはやや伏せ目がちなアンジェリカに問いかけた。

 一体、ミレイユはなにをしに来たのか。

 その理由はまだわからないが、少なくともアンジェリカにとってよい知らせではないだろう。

 しかしアンジェリカは、意外と落ち着いている自分に少し驚いていた。

「……少し緊張はしているわ、でもね、不思議と怖くはない、きっと、クラウスが一緒だからね」

 クラウスを見つめ返し、控えめに微笑むアンジェリカ。

 クラウスはそんな彼女の膝に置いた手を、両手でそっと包み込んだ。

「あなたが頼りにしてくれると、本当に嬉しいです」

「だけど、少しクラウスに寄りかかりすぎな気もするわ」

「なにを言うんです、僕はあなたのために生まれてきたんですから、あなたが僕を必要としなければ、存在する意味がありません」

 いつも、どんな時も、クラウスはアンジェリカが欲しい言葉をくれる。

 一点の曇りもない真っ直ぐな瞳で、アンジェリカに応えるのだ。

 もうすぐミレイユが来るというのに、アンジェリカはそのことさえ忘れそうになった。

 クラウスと再会してしばらく……アンジェリカの心は、確実に彼に近づいていた。

 唯一の理解者であり、友人であった彼に対する想いは、柔らかく溶けて新たな形に変化しつつあったのだ。

「……クラウス、私――」

 ――コンコン。

 アンジェリカがアクアマリンの瞳に吸い込まれそうになった時、ドアをノックする音が響いた。

「クラウス様、お客様をお連れしました」

 廊下からフリードリッヒの声が聞こえると、クラウスは立ち上がり、机の椅子側に移動した。

「入れ」

 クラウスの返事を聞くと、ゆっくりとドアが開く。

 するとそこには、ミントグリーンのドレスを纏った、金髪の令嬢が立っていた。

 彼女は正面の机にクラウスの姿を認めると、パアアと表情を明るくした。

「ブリオット公爵、ようやくお会いできて光栄ですわ……!」

 そう言ってミレイユが書斎に入ると、すぐに視界の隅にとある人物が映った。

 壁際のソファーに座る姉に気づいたミレイユは、心の中で舌打ちした。

 しかし、クラウスに本性を見破られないよう、あくまで表情は穏やかに努めた。

「……できれば、ブリオット公爵と二人きりでお話がしたかったのですが」

「彼女がいたら、なにか問題がありますか?」

「……いいえ、むしろ都合がよかったかもしれません、彼女も一緒に聞いていただければ、話が早いので」

 ミレイユはクラウスがいる机の前で立ち止まると、ドレスの裾を持ち上げ、膝を曲げて挨拶する。

「改めまして、ミレイユ・ドーリー・フランチェスカと申します、フランチェスカ伯爵家の次女で、そこにおりますアンジェリカの妹ですわ」

「……存じ上げておりますよ、僕の婚約者の妹君が、なんのご用でしょうか?」

 机を隔てて、クラウスとミレイユは対面する形で目を合わせた。

 ドアを閉めたフリードリッヒは、その様子を部屋の片隅で見守る。

 アンジェリカはなにが始まるのかと、緊張を高めていた。

「私は、爵位式からずっと悩んでおりました、ブリオット公爵に本当のことを話すべきか否か……ですが決心いたしました……身内の恥を晒すようで心苦しいのですが……あなた様のためを思って、彼女……お姉様がどういう人間なのか、話をしに来たのです」

 アンジェリカは顔を上げると、前方に見えるミレイユの横顔を見た。

「いいですよ、話を聞きましょう」

「実はお姉様は、幼い頃から病をお持ちなのです……それも身体的なものではなく、精神から来る重篤な病を」

 ミレイユは少し目を伏せ、口元に手を添えて語り始めた。

「影では人の悪口ばかり、虚言癖や妄想癖もあり、ひどい時は私や両親に暴力を奮ったりと、手がつけられませんでした。私も花瓶を投げられたことがあり、危うく大怪我をするところでした。しかし、身内にそんな者がいると知れたら、家の名が汚れてしまいます。だから私と両親は、彼女専用の部屋を作り、なるべくそこから出てこないようにと、必死に隠し続けたのです」

 さも苦しげに事実を述べるヒロイン……を演じるミレイユに、アンジェリカは愕然とした。

 クラウスは表情を変えず、ただ静かに聞きに徹している。

「……なので、姉がブリオット公爵の結婚相手に選ばれた時は、本当に驚きましたわ。外出しない姉が、あなた様に見そめられるはずもありませんから。なのできっと、この婚約は、フランチェスカ家とのご縁を望まれてのことだと察しました。ならば、相手はお姉様でなくてもよいはずです……お姉様のように、心に問題を抱えた女性を妻にすれば、ブリオットの沽券に関わります。どうか、お姉様との婚約を破棄し、私と結婚なさってください、今ならまだ間に合いますわ」

 あくまで家のためという名目で、ミレイユはクラウスとの結婚を主張した。

 精神異常者に仕立て上げられたアンジェリカは、ソファーに大人しく座ったまま、ミレイユを傍観していた。

 今までも散々な思いをしてきたが、ここまで計画的に陥れようとするなんて、アンジェリカにはミレイユがまったく理解できなかった。

「……話はよくわかりました、いろいろ考えてくださったようですね」

 微笑するクラウスに、ミレイユは上手くいったと心の中でほくそ笑んだ。

「当然ですわ、爵位式でお会いして、あなた様がどれほど素敵なお方なのか理解しました。そんなお方がお姉様のせいで不幸になるのは、見ていられません。お姉様のことは大切ですが、貴族界やこの国のことも考え、心を鬼にして進言いたしました……」

 エメラルドの瞳に涙を浮かべ、ミレイユはアンジェリカを尊重する台詞も織り交ぜる。

 クラウスはそんなミレイユから、アンジェリカに視線を移した。

 そして、ハッキリと問う。

「アンジェリカ、今、彼女が言ったことは事実ですか?」

 クラウスの声に我に返ったアンジェリカは、パッと彼の方を見た。

 すると、アンジェリカを真剣に見つめる瞳とぶつかる。

 クラウスは、アンジェリカに選択肢を委ねた。

 このまま黙っていていいのか、侮辱されたまま泣き寝入りするのか、本当にそれでいいんですか、と――クラウスの眼差しが語りかけていた。

 アンジェリカは胸に熱いものが込み上げた。

 凍っていた心が、溶けて動き出すようだ。

 このままでいいわけがない。やられっぱなしで泣いてばかりの自分とは、もうさよならしたい。いや、さよならするのだと、アンジェリカは心に決めて、すっくと立ち上がった。

「……いいえ、違います」

 アンジェリカは美しい姿勢で、クラウスに告げると、次にミレイユに向き直った。

「私は、幼い頃から両親に愛されなくて、妹にも嫌われ……居場所がありませんでした。どこにも連れていってもらえず、地下室に幽閉され、いない者として扱われてきました……そして、家が破綻すれば娼館に売られそうになり、挙句……すべては私の病のせいだと、虚偽を申告されています」

 ミレイユは目を見開いた。

 まさかアンジェリカが、ここまで明確に抵抗してくると思っていなかったのだ。

 しかし、ここで動揺しては無駄になってしまうと考え、ミレイユはしつこく哀れむふりをする。

「ああ、お姉様、おかわいそうに……妄想と現実がわからなくなっているのね、ブリオット様、信じてはなりません、これが姉の虚言癖なのです」

 ミレイユは机に身を乗り出し、クラウスに接近すると潤んだ瞳で見上げた。

 見えすいたしおらしい演技に、騙される男もいるだろう。しかしそんな人間は、この女と同じくただの愚か者だと、クラウスは思った。

「残念ながら、僕はあなたとは結婚できません、アンジェリカを愛しているからです」

 クラウスの口から出た台詞に、ミレイユは耳を疑った。

 初めて自分の結婚相手に相応しいと思った男性に、キッパリと拒絶されたミレイユは、ショックのあまり取り乱す。

「――そ、そんな……ブリオット様は騙されているのです! 嘘をついているのは姉の方なのに! そうですわ、証明するために今度は両親も連れてきます、それでも足りなければ、フランチェスカ家の使用人にも話をさせますので――」

「その必要はありませんよ、証人ならば、すでにここにおりますので」

 クラウスはそう言うと、机の前に回り、ミレイユに手を伸ばす。

 そして彼女の顎を掴んで、無理やり上を向かせた。

「相変わらず悪知恵が働くようですね、ミレイユお嬢様」

「な、なにをっ……?」

 クラウスの突然の行動に、ミレイユは驚いて逃れようとする。

 しかしクラウスの手を解こうにも、力が強くてどうしようもない。

 小柄なミレイユは爪先立ちになり、震えながら姿勢を固定された。

 ミレイユの困惑する瞳に、気迫に満ちたクラウスの顔が映る。

「名を明かしたところで、気づきはしないと思っていましたが、やはり忘れていたようですね、使用人をゴミのように扱っていたあなた方にとって、その名は記憶するに値しなかったのでしょう……見覚えがありませんか、僕のこの、珍しい銀髪に――」

 得体の知れない恐怖に駆られたミレイユは、顔を歪めて必死に頭を回転させた。

 ――一体、なにを言ってるの? 気づかない? 忘れていた? 使用人だとか銀髪だとか、意味がわからない――。

 ふと、ある言葉が引っかかったミレイユは、記憶の限り答えを求める。

 そして、徐々に思い出す。

 使用人、銀髪――銀髪の使用人……そういえば、そんな珍しい髪色をした少年が、かつて、フランチェスカ家で働いていたことを――。

「ま……まさか――」

 ミレイユが消え入りそうな声で呟いた瞬間、クラウスの瞳が弓形になり、妖しく煌めいた。

「やっと思い出したようですね、そうです、僕の旧姓はクラウス・バートン。十年前から二年間、父、サウロスの知人の子として、あなたの屋敷で働いていた人間ですよ」

 クラウスが手を離すと、ミレイユはよろよろと後退りする。

 すかさずフリードリッヒがやって来ると、ミレイユの顎を掴んでいたクラウスの手を、ハンカチーフで綺麗に拭った。

「あなたの屋敷ではずいぶん痛ぶられました、劣悪な就労環境で働く使用人たちの、ストレスの吐け口になっていた。そういえば、あなたには髪を引っ張られたことがありましたね、偽物のようで不気味だと言われて……ブリオット公爵に告げ口したら、食事をやらないと脅しまでかけられて」

 ミレイユは顔面蒼白で、目と口を開いたまま立ち尽くしていた。

 クラウスの言う通り、ミレイユは使用人の名前など覚えない。その上、クラウスはこの八年間で見違えるほど大人になったため、まったくわからなかったのだ。

 昔、バカにしていた使用人が、実は公爵家の後継で、ここまで美男子に成長し、目の前に現れようとは。

 そうとは知らず、アンジェリカを悪役に仕立て、必死に求婚した挙句、こっぴどく振られた。

 その事実は、ミレイユの塀のように高いプライドを粉々に打ち砕いた。

 もはや放心状態のミレイユに、クラウスはニッコリと微笑みかける。

 天使のような、悪魔の笑顔だ。

「僕はこう見えて執念深いんですよ、受けた仕打ちはすべて覚えています、その代わり……優しくされたことは、絶対に忘れません」

 クラウスは後ろを振り返ると、そのままアンジェリカに歩み寄った。

 そして彼女の頬にそっと手を添える。

「あの頃からアンジェリカは、僕にとって唯一の光だ……あなた以外の女など、考えられるはずがない」

「んっ……!」

 クラウスは言い終わるなり、アンジェリカの唇を奪った。

 アンジェリカは突然のことに戸惑いながらも、抵抗することなく彼を受け入れる。

 ミレイユは茫然としたまま、目の前で濃厚なキスシーンを見せつけられた。

 ようやく唇を離したクラウスは、くたっとしたアンジェリカを胸に抱き、剣のような瞳でミレイユを睨みつけた。

「わかったらさっさと消えろ、メス豚、僕のアンには指一本触れさせないぞ」

 ミレイユは全身を震わせながら、ドアに辿り着くと、おぼつかない足取りで部屋を出ていった。

「……クラウス」

 アンジェリカに名を呼ばれたクラウスは、ハッとして身体を離した。

「――あっ、すみません、いきなり人前で、嫌でしたよね……言葉遣いも、その、つい乱暴になってしまい……」

 先ほど、ミレイユに反撃していたのと同一人物だとは思えない。

 それほどに、クラウスはアンジェリカに弱い。絶対に嫌われたくないのだ。

 そんなクラウスを、アンジェリカはじっと見つめていた。

「違うわ、嫌なんかじゃない……クラウスが、私を守ってくれて嬉しかった、ミレイユにハッキリ言ってくれて、胸の辺りがすーっとしたの……こんな嫌な女になってしまって、私はクラウスに嫌われないかしら?」

「……嫌うはずがないでしょう、アンはもっと自己中心になっていいくらいです、この先どれほどわがままになろうが、あなたはあなたです。僕の愛する女性に変わりありません」

 胸に手をあて打ち明けるアンジェリカを、やはり全力で受け止めるクラウス。

 そんな彼を見ていると、アンジェリカは胸がひどく高鳴った。

 全身が熱くなり、頭の中が彼でいっぱいになる。

 ――なん、なのかしら、これ……わからないけど、今、すごく、クラウスに触れたい……。

「クラウス……」

 無意識に熱っぽい視線で訴えるアンジェリカに、クラウスが応えないはずがない。

 クラウスは背を屈め、アンジェリカは少し背伸びをし、どちらからともなく唇を重ねた。

 まるで磁石が引き合うように、二人は自然に互いを求め合っていた。

 静かな口づけが終わると、アンジェリカはふとよぎった不安を言葉にする。

「……だけど、少し心配だわ、ミレイユがあのまま引き下がるとは思えないし……もし逆上して、この家に迷惑がかかるようなことをしなければいいけれど」

「それは大丈夫ですよ……ねぇ、フリードリッヒ?」

「はい」

 クラウスの呼びかけでフリードリッヒが返事をすると、アンジェリカは一瞬固まった。

 そしてフリードリッヒを見ると、火がついたように顔が赤くなる。

 クラウスに夢中で、他に人がいることをすっかり忘れていた。

「あ、ご、ごめんなさい、フリードリッヒがいたのにっ」

「どうぞお気になさらず、当主様の幸せが私の幸せですので」

 フリードリッヒは心から嬉しそうに、穏やかな笑みを讃えている。

「……だけど、どうして、大丈夫と言えるの?」

 自信満々の二人に、素朴な疑問をぶつけるアンジェリカ。

 するとクラウスとフリードリッヒは目を合わせ、クスッと笑った。

「なぜって……? 昔から悪人には天罰が下ると決まっているからですよ、だから、アンはなにも心配しないで」

「クラウス様のおっしゃる通りでございます、すべては神の御心のままに……」

 蠱惑的に光る、宝石のような二人の目。

 なにも知らないアンジェリカは、キョトンと首を傾げている。

 実はクラウスの私怨は、アンジェリカが思うより根深い。

 そう、彼の復讐は、まだ終わっていなかったのだ。


 ミレイユは屈辱の中、馬車でアズール家に帰還した。

 混乱から次第に落ち着きを取り戻すと、次第に苛立ちが膨らみ、憎しみが加速した。

 ミレイユは屋敷に着くなり、足早に廊下を進み、私室に閉じこもった。

 ――あいつら、絶対に許さないわっ、この私をコケにして……!

 ドレッサーの台を拳で叩き、怒りに震えるミレイユ。その鏡に映る自身の姿が、どれほど醜いか、彼女は知らなかった。

 アンジェリカとクラウス、憎き二人をどうしてくれようかと、ミレイユは親指を噛みしめながら、報復の手立てを思案する。

 しかし、その考えは、すぐに遮られる。

 ガチャッと音を立て、部屋のドアが開いたからだ。

 ミレイユがパッと振り向くと、そこにはこの屋敷の主が立っていた。

「なんですのっ、私は今忙しくて」

「そうかい、では手短に済ませよう」

 苛立ちを隠しきれず、早口で言うミレイユに、ヨシュアは静かに歩み寄る。

 そして、無情な宣告をする。

「ミレイユ……君との婚約を破棄させてもらう」

 アンジェリカたちのことでいっぱいだったミレイユの頭が、一瞬にして白くなった。

 ミレイユのエメラルドの瞳には、冷たい目で見下すヨシュアが映っている。

「は……? な、なに言って――」

「君は私の言うことをなに一つ聞かなかった。あんなに無駄遣いをするなと言ったのに、散財をやめず、横暴な態度を取り、使用人を何人も辞めさせた。君はアズール家に不利益しかもたらさない、よって君との結婚はなしだ」

 予想外の展開に、ミレイユは狼狽した。

 ヨシュアはミレイユよりかなり年上で、身分が低い。そんな相手が、まさか、婚約破棄を申し出るとは、考えもしなかったのだ。

「ま、待ってください、ヨシュア様、そんないきなり……どうかお考え直しを!」

「どうせ私の財を利用して、男漁りでもしていたのだろう、それに気づかぬほど愚かだと思ったか、小娘が」

 ミレイユはしおらしくヨシュアに縋るが、それは一瞬のことだった。

 ヨシュアから放たれた台詞に、ミレイユはすぐに頭に血が上る。ブリオット家でこてんぱんにやられたばかりだったので、さらに導火線が短くなっていた。

「な、な……なんて口ぶりなの! あなたから私に求婚してきたくせにっ、格下の年配者なのだから、ある程度私に尽くすのは当然でしょう!?」

「その傲慢なところ……親にそっくりだな」

 ミレイユの変わりように、ヨシュアは眉一つ動かさずに言った。

 まるでミレイユの本性を、最初から見抜いていたかのように。

「私は女性に興味がなくてね、この歳までずっと独り身だ、そんな私を、君の両親は散々バカにしてくれたよ。だから今回の話を持ちかけられた時は、喜んで引き受けた」

 ミレイユはわけもわからず、ただヨシュアを凝視している。

 そんな彼女に、ヨシュアは狡猾な笑みを浮かべた。

「ここまで来れば種明かししてもいいと言われていたのでね、お伝えしよう。私は最初から君と結婚する気などない。ブリオット公爵……クラウス殿に頼まれたのだよ、君たちをどん底に突き落とす手伝いをしてくれないかと」

 衝撃の事実に、ミレイユは驚愕した。

 そう、これこそが、クラウスとフリードリッヒが、秘密裏に進めていた計画だった。

 フランチェスカ家が破綻した時、ミレイユはヨシュアから求婚された。

 ずいぶんタイミングがよかったのは、その時を狙っていたからだ。

 プライドが高いミレイユとその両親、普段なら下級貴族の年増男との縁談など、聞く耳すら持たないだろう。

 しかし金に困っているなら、話は別だとクラウスは踏んだ。

 そして彼の思惑通り、ミレイユはヨシュアの求婚に食いつき、最悪のタイミングで婚約破棄されることとなった。

 愚かなフランチェスカ家、放っておいても没落していく運命だっただろうが、それではクラウスの気が済まない。

 アンジェリカが受けた苦しみ、悲しみの分だけ、自らが手を下して仕返しする――――すべてはクラウスの指示の元、フリードリッヒが暗躍し、遂行された復讐劇であった。

「まあ、直接クラウス殿と話したのは一度だけだがね、あのバトラー……フリードリッヒといったか、あれは妙に鼻が利く、この役に適した人間を上手い具合に見つけ、声をかけたのだから。しかし、こんな手の込んだ報復を受けようとは、ずいぶんと根深い恨みを買っていたようだな……一体なにをしたんだか」

 恨みの詳細を知らないヨシュアは、大して興味なさそうに鼻で笑った。

 ヨシュアがクラウスの差し金だと知ったミレイユは、頭に岩を落とされた気になった。

 ミレイユは可愛こぶった演技で、完璧にヨシュアを騙し、虜にしたつもりだった。

 しかし実際は、ミレイユの方が騙されていたのだ。

 信じ難い事実に、ミレイユは逆上し、怒りを爆発させる。

「な……なんて卑劣なの……、大の男が寄ってたかって、か弱いレディーを陥れるだなんて……! 今に見てなさいっ、必ずフランチェスカ家を再生して、こんなちっぽけな家、すぐに潰してやるんだから!」

「それは無理な話だな」

 興奮するミレイユに対し、ヨシュアは実に冷静に答えた。

「な、なんですって……?」

「フランチェスカの屋敷は抵当に入っていて、すでに差し押さえの状態だ、そろそろ君のところに、両親が泣きついてくる頃ではないかな? ここまで言えば、さすがに頭の悪い君でもわかるだろう……君たちに報復をする余地などないのだよ」

 ヨシュアは鼻の下に蓄えた髭を、人差し指と親指で摘んで撫でた。

 彼の台詞は、フランチェスカ家の完全な没落を意味していた。

 間もなく彼らは、社交界を追放され、伯爵の称号を奪われるだろう。

 つまり、貴族ではなくなるということだ。

 ヨシュアの言う通り、ミレイユはようやく理解した。

 今、自分がどれだけ窮地に追い込まれているのか。

「……そ、そん、な……」

 ミレイユはカクンと膝を折ると、ペタンと床に座り込んだ。

 今まで自分を支えてくれた家、頼りにしていた男の後ろ盾も失い、立っていることさえできなくなった。

「……私は、これから、どうすれば……」

「君はまだ若く、見目だけは愛らしい女だ、没落したとはいえ、伯爵令嬢というだけで高値がつくだろう、自らが作った負債は、自らで返すんだな」

 ミレイユの背を、冷たい汗が伝う。

 それは以前、ミレイユと両親が、アンジェリカに告げた方法だった。

「さあ、なにをグズグズしている、婚約者でなくなった以上、君の面倒を見る義理はない、今すぐ屋敷を出ていけ……ああ、もちろんうちの金で得たものはすべて置いていってもらうぞ、その首飾りや耳飾り、今着ているドレスもなぁ!」

 茫然自失するミレイユを、綺麗さっぱり見捨てるヨシュア。

 彼女の僅かに残っていたプライドは、跡形もなく消え去った。


 それから一ヶ月ほど経ったある日、アンジェリカとクラウスは、二人で出かけていた。

 結婚式を挙げる教会に、最後の下見に来ていたのだ。

 ステンドグラスが美しい、純白の厳かな建物を前に、アンジェリカは挙式への気持ちを高めた。

 ウェディングドレスが出来上がり、参列者の招待も済み、いよいよ数日後に挙式が迫っていた。

 しかし……アンジェリカとクラウスの距離は、未だ縮まっていなかった。

 教会の下見が終わった二人は、前に停まっていた馬車に乗り込む。

 その時、先に乗ったクラウスがアンジェリカに手を差し出すが――。

「だ、大丈夫よ、一人で乗れるわ」

 そう言ってアンジェリカは目を逸らすと、ささっと一人で馬車の座席に乗ってしまう。

 クラウスは、アンジェリカに取ってもらえなかった手を眺め、ガクリと肩を落とした。

「……そうですか」

 小さく呟いて、アンジェリカの隣に腰を下ろすクラウス。

 すると、アンジェリカが窓の方へ身体を寄せる。

 まるでクラウスを避けるかのような動きに、彼はショックを受け、ますますしゅんとした。

 以前、ミレイユがブリオット家に来て以来、アンジェリカはずっとこんな感じだ。

 クラウスの中では、その時、ずいぶんアンジェリカとの距離が縮まった気がしたのだが。

 話しかけると目を逸らされてしまい、手を繋ごうとするとかわされる、近くに座ろうものなら今のように離れてしまうし、クラウスはもう、どうすればいいかわからなかった。

 この状況が、挙式が近づくごとに悪化している気がしたクラウスは、僕と結婚したくないのだろうかと、毎日悲しみに暮れていた。

 しかし、実際はそうではない。

 アンジェリカは隣に座る、クラウスの寂しげな横顔を盗み見た。

 ――はぁ……クラウス……今日も素敵だわ……。

 アンジェリカが心の中でそんなことを言っていようとは、クラウスには見当もつかない。

 アンジェリカはついに、クラウスへの想いを自覚したのだ。

 そして気づいた途端、変に意識してしまい、今まで普通にできていたことが、できなくなってしまった。

 そっけない態度を取るのは、単に恥ずかしいだけで、決してクラウスのことが嫌いになったわけではない。

 むしろ、とても進展している証拠だった。

 ――私、やっぱりクラウスのことが……。

 馬車に揺られながら、アンジェリカは思う。

 この胸のトキメキも、クラウスだけが眩しく見えるのも、触れられると身体が熱くなるのも……もはや、恋、としか言いようがなかった。

 ようやく自覚したなら、その気持ちをクラウスに伝えた方がいいと、アンジェリカも思っている。

 だが、十歳の乙女のような清純な彼女は、初恋をどのように扱っていいかわからなかった。

 どんな時に、どんな顔で、どんなふうに言えばいいのか、思い悩んだ。

 なんでもない時に言っても……なにかきっかけがあれば……挙式の後はどうだろう……。

 アンジェリカがいろんなことを考えている間にも、馬車は進んでゆく。

 そして建物や店が並ぶ、繁華街に差し掛かった時だった。

 その『きっかけ』――いや、引き金がやってきたのは。

 ――ガタッ!

 突如、馬車が音を立てて急停車した。

 その勢いでバランスを崩したアンジェリカを、クラウスがすかさず支える。

 瞬間、クラウスの胸に収まるようになったアンジェリカは、胸がドキンと高鳴った。

「なんのつもりだ!? 危ないだろう!!」

 馬車が止まると同時に、白馬の手綱を握っていた運転手が大きな声を上げた。

 その声は乗客席にも届き、アンジェリカとクラウスは顔を見合わせる。

 ただ事ではないと感じた二人は、馬車を降りて、外の様子を見に行くことにした。

 クラウスが先に馬車を降り、アンジェリカがその後に続く。

「どうか、話をお聞きください!」

 二人が歩き始めると、すぐそばから大きな声がした。

 甘えるような高音は、アンジェリカもクラウスも聞き覚えがある。

 特にアンジェリカの方は、すぐにある人物が頭に浮かんだ。

 そして馬車の前方が見えるところまで行くと、一気に記憶と答えが繋がる。

 騒ぎを聞きつけた野次馬が集まる街中、馬車の目の前には、煉瓦の地面に土下座した三人の姿があった。

 そのうちの一人――真ん中にいた彼女が、アンジェリカの気配を感じ、頭を上げる。

「あ……あ……アンジェリカお姉様……!」

 派手な化粧をした彼女は、アンジェリカを見るなり、神に遭遇したかのような顔をした。

 そして急いで立ち上がると、低い姿勢のまま必死にアンジェリカに駆け寄った。

 その勢いのまま、アンジェリカの前に崩れ落ちるように膝をつくと、縋るような目で見上げる。

 異様に赤いアイシャドウと口紅に、濃いコーラルのチーク。膝が出るほど短いショッキングピンクのドレスに、乱雑に結われた金色の髪。

 貴族でもなければ、町娘でもない。その姿は、かつて、アンジェリカが妹にさせられた格好に極似していた。

「私です、ミレイユです、変わり果てた姿で驚かれたことでしょう……あれから私は、娼館に身売りするしかなく、地獄のような日々を送っているのです」

 過剰にマスカラを塗ってあるのか、妙にバサバサになったまつ毛に囲まれた瞳。

 エメラルドのようだったそれには、もう、以前の光は見られなかった。

 アンジェリカが黙っていると、ミレイユに続いて、他の二人も駆け寄ってくる。

「その通りなのだよ、アンジェリカ……! ミレイユが身を粉にして働いても、私たちの取り分は少なく、食べていくのもやっとなんだ……こんな暮らし、高貴な我らにとって、耐えられるはずがない……、アンジェリカもそう思うだろう?」

 ユリウスもミレイユと同じように、アンジェリカの足元に平伏し、涙ながらに訴える。

 夫妻ともに、切りっぱなしの布のような、見窄らしい服装をしていた。

「ああ、アンジェリカ、私たちの可愛い娘……! どうか助けておくれ、私たちは家族でしょう……!?」

 アマンダが手指を組み合わせ、祈るようにアンジェリカを仰いで言う。

 ついに首が回らなくなった三人は、最後の頼みの綱である、アンジェリカに助けを求めに来たのだ。

 直接屋敷に行っても入れてもらえないため、ブリオットの馬車をよく見かける、この街の道端で待ち構えていた。

 三人のあまりに虫のいい言動に、我慢の限界に達したクラウスが、一歩前に出て口を開こうとした。

 しかし、彼が発言することはなかった。

 アンジェリカがクラウスの前に手を出し、動きを制したからだ。

 アンジェリカは静かに、ミレイユたちを見ていた。

 なにか決心したような、そんな面持ちの彼女を前にしたクラウスは、怒りを抑えて見守ることにした。

 アンジェリカはクラウスを止めていた右手を下ろすと、腹部の前で綺麗に左手と重ねた。

「……お怪我はありませんでしたか?」

 女神のような微笑みで、ミレイユたちに声をかけるアンジェリカ。

 それを見たミレイユたちは、暖かな光に包まれた気がした。

 アンジェリカの神々しいまでの優しさに、ミレイユも、ユリウスも、アマンダも……自分たちは救われるに違いないと確信した。

 次のアンジェリカの言葉を聞くまでは――。

「は、はい、大丈夫ですわ! さすがお姉様、慈悲深くてお優しい――」

「どこのどなたか存じませんが、馬車の前に飛び出しては危ないですよ」

 ミレイユたちの時が止まる。

 凍りついたかのように、表情も身体も、固くなって動かない。

 今、なんと言ったのか。

 三人とも耳を疑い、現実を受け入れられなかった。

 決して取り乱さず、優しい笑顔と穏やかな声音で告げられるアンジェリカの台詞。そこには彼女の長年の悲しみと苦悩に対する、ささやかな抵抗が込められていた。

「……あ、あの」

「ブリオット公爵様の行く手を阻まれるなど、首を撥ねられてもおかしくない愚行です。ブリオット公爵様はお優しいので、今回はお見逃しになられますが、次はないと肝に銘じておきなさい」

 キッと引き締めた表情で、アンジェリカは三人に言及した。

 ミレイユたちは、こんなアンジェリカの顔を見たことがなかった。

 気高く、美しく……凛とした立ち姿で貴婦人の風格を纏うアンジェリカに、初めて三人は、自分たちの今までの行いを激しく後悔した。

「……お許しを――」

 ――カツン。

 アンジェリカが高いヒールを鳴らし、胸を張って踵を返す。

 その後ろで、蚊の鳴くような声が零れた。

 震えながら涙を流し、地面に這いつくばるようにして、ミレイユはアンジェリカの背に手を伸ばした。

「ど、どうかお許しを…………ゆ、ゆる、して、許して、お姉様……私が悪かったわ、今まで冷たくしたこと、叩いたり、嘘をついたことも、全部全部、謝るから――!」

 アンジェリカは馬車のそばで足を止めると、顔だけ動かし後ろを振り向いた。

 そして彼らをしかと見つめ、明確に言い放つ。

「あなたの望む『お姉様』はもういないわ、私はアンジェリカ・シモンズ・ブリオット……クラウス様の妻よ」

 アンジェリカはそう告げると、再び歩き出し、馬車に乗り込んだ。

 消えていった彼女を、ミレイユたちは茫然と眺め、やがて地面に突っ伏した。

 かつて、アンジェリカの家族だった――いや、家族だと信じていた人々は、自らの愚かさで身を滅ぼし、最悪の結末を迎えることとなった。

 クラウスも座席に乗ると、馬車はミレイユたちを避けて、進行を再開した。

 白馬の動きに合わせ、馬車が緩やかに揺れる。

「驚きました、あんなにキッパリと拒絶を示されるとは――」

 クラウスは言葉を切った。

 隣に座ったアンジェリカが、震えていることに気づいたからだ。

 アンジェリカはお腹を抱えるような形で、重ねた手と手を強く握りしめていた。

「……私、上手くできていたかしら……? あなたの妻として、恥ずかしくないよう、振る舞えていた……?」

 どんなにひどい仕打ちを受けても、アンジェリカは肉親を嫌いにはなれなかった。

 きっと、いつかわかってくれると、甘い考えを捨てきれなかったからだ。

 しかし、クラウスと出会ってわかった。

 愛されることの真の喜びと、強い意志を持って生きることの美しさ。

 だからアンジェリカは勇気を振り絞り、偽物との決別を誓った。

 例え、心が血を流そうとも、大丈夫、すぐに傷は塞がって、そうしたらもっと輝けるようになるから。

 そう思えたのは、誰のおかげなのか――そんなこと、アンジェリカには、もうとっくにわかっていた。

「はい……できていました、とてもご立派でしたよ」

 アンジェリカは顔を上げ、クラウスを見た。

 すべてを赦し、包み込むような、愛に満ちた微笑み。

 それを前にしただけで、アンジェリカの心は温かな鼓動を取り戻す。

「……クラウス」

「はい」

「クラウス」

「はい」

「クラウス――……!」

 アンジェリカは両腕をクラウスの首に絡め、抱きつくように唇を重ねた。

 頭で考えるよりも先に、身体が勝手に動いた。

 さっきまで告白のことを、細かく考えていたのが信じられないくらい、感情が溢れ出して止まらなかった。

「私……あなたが、好き――」

 あまりに突然のことに、クラウスはあっけに取られたままアンジェリカを見つめた。

 涙ぐみ、鼻の頭を赤くしたアンジェリカは、一心にクラウスだけを映している。

「クラウスがいなかったら、ここまで来れなかった、今の私に、出会うこともないまま終わってた……ありがとう、クラウス……ごめんなさい、待たせて……やっと、あなたの気持ちに追いついたから――」

 徐々に動き出したクラウスの思考が、アンジェリカの一言一句を余すとこなく拾い上げる。

 やがて理解に及ぶと、クラウスは夢のような幸せに目を細めた。

 感激のあまり言葉を失ったクラウスは、『ありがとう』と『愛してる』の代わりに、アンジェリカを力の限り強く抱きしめた。


 その夜、アンジェリカとクラウスは、寝室のベッドに隣り合って座っていた。

 暖色の間接照明に照らされたベッドで、二人の姿が滲むように浮かび上がる。

 アンジェリカがブリオット家に来たての頃、料理の許可を得るためクラウスを呼び、そのまま一緒に寝た。

 しかし、その後は、別々の私室で寝ていたので、二人でベッドにいるのは久しぶりだった。

 以前と同じように、アンジェリカは純白のネグリジェに身を包み、クラウスはゆったりとした白いシャツと黒のズボン姿でいる。

 違うのは、ここはアンジェリカの部屋ではなく、クラウスの部屋だということ。

 赤が基調のアンジェリカの私室に対し、クラウスの私室は銀が基調で、シックな雰囲気にまとまっている。

 アンジェリカがブリオット家に来て約二ヶ月、クラウスの部屋に入ることはあっても、ベッドに上がるのは初めてだった。

 毎日、クラウスが眠っている場所にいると思うと、アンジェリカはそれだけでドキドキした。

「そういえば、クラウス……最初に私の部屋で寝たきり、ちっとも一緒に寝てくれなかったわよね?」

 ふと、アンジェリカは、以前から思っていたことを言った。

 すると、膝がつきそうなほど近くにいるクラウスが、あきれたように息をついた。

「……当たり前でしょう、愛する女性が隣で寝ているのに、なにもできないなんて拷問ですから、堪えた僕の理性を称賛してほしいですよ」

「そ、そういう、ものなのね、気づかなくてごめんなさい」

 アンジェリカは男性の身体に詳しくないため、クラウスに言われて辛いということを初めて知った。

 そして、なにがどう苦しいのだろうと、いろいろ妄想しながら、申し訳なさそうに謝った。

「そういうあなたこそ、ここのところずいぶんそっけなくて、てっきり嫌われたのかと、ヒヤヒヤしていましたが」

「えっ? そっけない? 私が?」

 クラウスはかなり気にしていたことを言ったが、当のアンジェリカはキョトンとしている。

 アンジェリカはわざとツンデレ対応をしていたわけではないので、一瞬、なんのことかわからなかった。

「……無自覚だから困るんです、あなたは」

 やれやれ、といったふうに額に手をあてるクラウスに、アンジェリカは最近の自身の言動を振り返ってみる。

 すると、思い当たる節がどんどん出てきて、だんだんクラウスに罪悪感が湧いてきた。

「あ、そ、そうね、確かに……考えてみれば、クラウスを、男性として好きかもしれないと感じてから、意識して不自然な態度を取ってしまっていたかも……」

 眉を下げて申し訳なさそうにするアンジェリカだが、クラウスはもう、そんなことはどうでもよくなる。

『クラウスを男性として好き』

 アンジェリカからそんな台詞が聞けただけで、クラウスは本気で生きていてよかったと思った。

「……でも、もう大丈夫ですよね?」

 クラウスはアンジェリカの頬に手を添え、熱い眼差しを送る。

 するとアンジェリカも、熱っぽい瞳で応えた。

「そうね、認めたら楽になったというか……クラウスを好きな自分が、すごく好きというか、なんだか不思議な感じ……」

「僕も、あなたが好きです、アンジェリカ」

「私も……あなたが好きよ、クラウス」

 吸い寄せられるように二人が近づき、唇が重なり合う。

 その温もりと柔らかな感触に、ついに理性が崩壊したクラウスが、アンジェリカをベッドに押し倒した。

 食い尽くすような激しい口づけを、アンジェリカは息を乱しながらも受け止める。

 息継ぎの合間に、クラウスはうわごとのように、アンジェリカの名を呼んだ。

「もっと言って、僕のアン」

「す、好きよ、クラウス」

「もっと、もっとだよ、愛してる、愛してると言って、僕のアンジェリカ」

「愛してるわ、クラウス、あなただけを――」

 ふと、間近で目が合った刹那、アンジェリカはクラウスの目尻に浮かぶものを見つけた。

 暖色の光を受けて煌めく、涙の粒。

 それが彼の深い想いを表しているようで、アンジェリカはキュウッと胸が締めつけられた。

「……夢を見ているようだ、ずっと、ずっと、焦がれていた……手に入れたくて仕方なかったあなたが、今、僕の腕の中にいるなんて――」

 美しいアクアマリンを見つめながら、アンジェリカはクラウスの頬を両手で包んだ。

「夢ではないわ……クラウスの年数には敵わないけれど、私だって想いの強さは、負けないつもりだから」

 感激のあまり秀麗な顔をクシャッとするクラウスと、そんな彼を優しく迎え入れるアンジェリカ。

 今までの渇きを埋めるように、アンジェリカを求めるクラウスは、愛を乞う美しい獣のようだった。


 翌朝、カーテンの隙間から射し込む光に、クラウスは目を覚ます。

 そして、すぐ目の前にいる彼女を見て、幸福な現実に浸った。

 朝日を浴びたアンジェリカの髪が、夕陽のように煌めいている。

 結局、婚礼の直前に、抱いてしまった。

 しかし、あんなに愛らしくされては、不可抗力だろう。

 クラウスは困ったように微笑みながら、自分に言い訳をしつつ、アンジェリカの髪を撫でる。

 すると、アンジェリカから「ん……」と小さな吐息が漏れた。

 そして、ゆっくりと長いまつ毛が持ち上がる。

「おはよう、僕のアン、今日も愛してるよ」

「……私もです、旦那様」

 愛おしい人の姿に気づくと、アンジェリカは世界中の幸せを独り占めしたような顔で笑った。

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