「台湾独立」は中共的情宣句
1624年、オランダ東インド会社の船舶が台湾島に到着し現地住民らを征服して統治を開始したときから、台湾の歴史が記録されることになった。
1662年、明の遺臣がオランダ軍を駆逐して台湾を統治。
1683年、清軍が鄭軍を破って台湾を統治。
1895年、日清戦争で敗れた清が台湾を日本に割譲したが、台湾に派遣されていた清国官僚らは此れに従わず台湾民主国の独立を宣言して日本軍を攻撃した。彼らは西欧列強の支援を得ようと画策したが失敗し、清国も日本側に協力したため、台湾民主国独立運動は消滅した。
1945年10月(ポツダム宣言受諾の二箇月後)、台北で中華民国戦区台湾省降伏式典が挙行された。
1949年1月、中共軍が国民党軍を敗退させて、北京に入城した。10月1日、毛沢東が北京市で中華人民共和国の建国を宣言した。10月25日、中共軍八個連隊は、対岸の厦門からの砲兵隊の援護を受け、200隻のジャンクで三方向から包囲するようにして金門島に迫った。これに対する国民党軍(三個師団と保衛一個連隊)は、旧日本陸軍中将 根本博氏の指揮を受け、一発も反撃せず、中共軍を上陸させて島内に誘い込んだ。日没後、国民党軍は、ジャンクに火を放って上陸軍への補給と退路を断ち、総反撃に出た。中共軍は、混乱し、包囲網の開いた一方向に雪崩を打つように殺到して海岸に向かったが、追いかける国民党軍と島陰で待機していた海軍の挟み撃ちに合って壊滅した。以後、中共軍は、対岸から砲撃するだけで、金門島に上陸しようとしなくなった。
1951年、サンフランシスコ講和条約が締結されて台湾の中華民国帰属が明記された。
1971年7月、アルバニアなど23ヵ国が「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」案を国連に提出した。10月、アルバニア決議案が反対票の倍を上回る賛成票で可決され、中華民国は国連から追放された。
中共は常々「台湾独立勢力を赦さない」旨の声明を出しているが、歴史上、台湾島が中華人民共和国の支配を受けたことは嘗て一度たりとも無かったのである。




