「『ラプソディー・イン・ブルー①』」
アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンの手によるシンフォニック・ジャズ(ジャズ風の表現を伴うクラシック)の名曲『ラプソディ・イン・ブルー』には、実にユニークな誕生秘話がある。
1900年代初頭、当時ニューヨークで人気のジャズバンドを率いていたポール・ホワイトマンが新聞に掲載した『現代音楽の実験』と題されたコンサートの曲目の中に、本人の許可なく『ガーシュウィンのジャズコンチェルト』が含まれていたというのだ。
もちろんガーシュウィンは驚き抗議したが、ホワイトマンの熱意とごり押しによって急遽作曲に挑まなければならなくなった。
ガーシュウィンはこの曲をわずか二週間で書き上げたが、さすがに初演までにピアノパートは完成しなかったようで、そこは即興で切り抜けたのだという実にジャズらしいエピソードだ──
「さあさあ、行くわよリリゼット~。そんな緊張してないで、まずはグリッサンドから」
わたしは気楽に笑うと、緊張でカチコチのリリゼットの肩をつついた。
「誰のせいで緊張してると思ってるのよ……ああもう、わかったからつつかないでよっ」
リリゼットは小さな声で罵ると、腹をくくったかのように演奏を始めた。
鍵盤の上にぐいと手を伸ばしたかと思うと、踊るようにリズミカルに高音部へと駆け上がっていく。
わたしが低音部を支えるとすかさずピッチを緩め、情感たっぷりに曲を弾き上げていく。
「これでいいでしょっ? 文句あるっ?」
視線をこちらに向けつつも、集中力は途切れない。
タッチタイピングもかくやと言わんばかり。
まるで独自の意志を持っているかのように手が滑らかに動き、美しいフレーズを奏でていく。
「いいよいいよ~、いい調子い~。出だし完璧い~」
わたしは口笛を吹いて称賛した。
リリゼットはたしかに天才だ。
技術は完璧だし、ちょっとやそっとのアクシデントでは崩れない。
精神的な動揺すら糧に出来る、素晴らしいピアノ弾きだ。
だけど──
だけどね──
「……でもさ、ちょおぉぉーっと足りないんだよねえ~」
「は? 足りないですって?」
称賛からの一転。
わたしの煽りに、リリゼットは血相を変えた。
聞き捨てならんとばかりに目を剥いた。
だが事実なのだ。
リリゼットはまだ、会場や観客というものを理解していない。
ここがどういう会場で、観客がどういった音楽を求めているのかわかっていない。
わかる努力をしていない。
ひとりのピアノ弾きとして全力を尽くす、それだけでいいと思っている。
それは彼女がお嬢様だから。
苦労した分だけ、周りが彼女を評価してくれたから。
だけど、それは違うんだ。
だって、ここは南部の街だから。
観客も奏者も、どこをどう頑張ったって世間的には評価されてこなかった人たちだから。
そしてこのお店は、重労働で疲れた男性たちに女性たちが癒しを与える場所だ。
混沌の釜の底の、安息地なのだ。
女性たち──
いかにも大人な衣装に身を包んだホステスさんたちが、フロアを、通路を、観客席を踊り回っている。
肌を露わにして、足を跳ね上げて、ウインクをして、投げキッスをして。
かの『フレンチカンカン』のように陽気に、楽し気に。
時にスカートを、ペチコートを翻しながら性をアピールしている。
男性たち──
観客席に座っている男性陣は、頬を赤らめてホステスさんたちの動きを見つめている。
色っぽく美しい女性陣を。
お金と少々のトークで自分のものになるかもしれな美姫たちを、鼻の下を長くして眺めている。
手にはいくばくかのコインと紙幣を、日ごろの重労働の対価を握りしめている。
その瞳はまるで少年のように純粋だ。
彼ら/彼女らが求めるのは自由の歌だ。
娯楽性が高く、心から楽しみ踊れる。
日ごろの憂さを忘れられるような明るい曲だ。
堅牢な音楽構成も、長大なコーダもお呼びじゃない。
ただ楽しく、ただ開放的に、ただ自由に。
どこまでも喜びに浸れる音楽を。
それが正解。
「何よ。わたしに何が足りないのか言ってごらんなさいよ」
血相を変えて訊いてくるリリゼットに対し、わたしは挑発的に笑いかけた。
「言ったでしょ。音楽を楽しむんだって。真剣に、本気で遊ぶんだって」
クイと左手を持ち上げると、そのままダァァァンと思い切り叩きつけた。
譜面に書かれたのとは違うタイミングで、強い拍で。
「さあリリゼット、一緒に踊ろうじゃないか」
わたしはリリゼットに自由を、即興を迫った。
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