↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

第1話 非効率すぎる商い

商売で成功して "M財閥" を作り上げる物語

俺の名前は佐藤幸司。四十八歳。


朝の満員電車は、いつも息が詰まる。

車内の湿った熱気と、誰かの整髪料の匂いが混じり合う中で、俺はつり革に掴まりながらスマホの画面を見つめていた。

今日の商談資料。昨日の売上速報。来週の会議のアジェンダ。


昼はコンビニの弁当を、デスクの隅で急いでかき込む。

夜は残業の後、付き合いの居酒屋で安いビールを流し込み、終電で帰る。

玄関を開けた瞬間、妻の「また遅いの」という低い声が聞こえて、娘はもう部屋に引きこもっている。


人生、こんなものだと思っていた。


その日も、いつものように資料をまとめていた。

キーボードを叩く指が急に重くなり、視界が白く滲んだ。


「……あ?」


体がふわりと浮く感覚。

意識が沈んでいく中で、奇妙な映像が次々と流れ込んできた。


ガラス張りの高層ビルが林立する街。

巨大な銀行の看板が夜の闇に浮かび上がる光景。

不動産会社のロゴ。証券取引所の電光掲示板。

無数の人々が行き交う交差点。

そして、どこかで見たことのある「三井」や「三菱」といった名前が、歴史の厚みとともに重なっていく。

『財閥……?』


思考が途切れた。


次に目に入ったのは、黒い暖簾だった。


白い文字で「三浦屋」と書かれた、簡素な暖簾。

風に揺れる布の感触まで、肌に伝わってくるようだった。


「……ん? 呉服屋?」


気がつくと、俺は畳の上に座っていた。


鼻を突くのは、古い木材と埃の匂い。

薄暗い室内に、障子越しの光が淡く差し込んでいる。

頭の下には硬い枕。体を覆っているのは、少し湿った感触の布団だった。


「幸次郎、起きか?」


初老の男が顔を覗き込んでいた。

深い皺と、疲れた目。だが、その奥に安堵の色が浮かんでいる。


「熱が下がったようじゃな……良かった」


横では、母親らしき女性が手を合わせ、小さく息を吐いていた。

着物の袖が擦れる音が、静かな部屋に響く。


「ここは……?」


「ここは三浦屋じゃよ。お前の家だ」


三浦屋。呉服屋。


俺はゆっくりと体を起こし、足を下ろした。

畳の感触が素足に伝わってくる。現代のフローリングとは全く違う、柔らかくて少し冷たい感触。


店の方へ足を向けると、父親が「無理はするな」と声をかけてきた。

店内は狭く、薄暗かった。


壁沿いに反物が並んでいるが、色あせたものが目立つ。

埃が薄く積もり、空気がどこか澱んでいる。

客の気配は、ほとんどなかった。


「幸次郎、今日は仕入れの手伝いを頼む」


父親に連れられ、俺は外へ出た。


江戸の街は、思っていたより騒がしかった。

木造の家屋が連なり、路地には人の声と車輪の音が響いている。

どこからか醤油を煮詰める甘い匂いが漂い、犬が道端で寝そべっていた。


問屋に着いた瞬間、俺は言葉を失った。


反物を担いだ男たちが、得意先の屋敷へ向かう準備をしている。

「あのお屋敷は掛け値を多めに……」「こちらの旦那は値切りが激しいから……」

値段は相手を見て決める。支払いは盆と暮れ。

一反単位でしか売らず、客の好みなど誰も記録していない。

在庫は「感覚」で管理されているらしかった。


『なんだ、この非効率な商売は……』


俺の頭の中で、現代の知識が次々と警告を発した。


掛け売りは資金の回転が極端に悪い。

貸倒のリスクを織り込むから、最初から値段を高くせざるを得ない。

相手によって値段が変われば、客は不信感を抱く。

一反単位では、庶民は手が出せない。

好みを記録しなければ、リピートも提案もできない。


『これじゃあ、資金が死ぬ。客も離れる。店が潰れるのは当然だ』


帰宅後、俺は夜まで考えていた。


行灯の灯りが壁に揺れる影を落としている。

外では遠くで犬が吠え、どこかの戸が閉まる音がした。

このままでは、店は確実に潰れる。


翌朝、俺は動き出した。


まず、店先に大きな木の札を掲げた。

墨で太く書いた文字。


『現金掛け値なし 正札販売』


次に、反物を必要な長さで切れるよう、定規と刃物を整え、簡単な価格表を紙に書いて壁に貼った。

「一反」「半反」「必要な長さ」で値段がはっきりわかるようにした。


客が来たら、茶を出すだけでなく「どのような用途でお探しですか?」「色はお好みがありますか?」と聞き、好みを小さな紙に書き留める。


最初、両親も奉公人も戸惑っていた。


「そんなことをして、大丈夫なのか?」

「客に失礼では……」

「掛け値なしで、本当に儲かるのか?」


俺は短く答えた。

「現金なら資金がすぐ回ります。値段がはっきりしていれば、客は安心します。必要な分だけなら、庶民も買えます。記録すれば、次の提案ができます」


最初の客が来たとき、俺は自分でも少し緊張していた。


「こちらの柄、一反でいくらだい?」

「正札通りです。現金でお願いいたします。必要な長さだけでも切れますよ」


客は目を丸くした。

値切ろうとして、値段が変わらないことに気づき、首を傾げた。

そして、ゆっくりと頷いた。


「……わかりやすいな。じゃあ、これだけ切ってくれ」


その瞬間、胸の奥が熱くなった。


『通った……』


次の客。また次の客。

「値段がはっきりしてて安心する」「必要な分だけでいいのか」

声が弾み、店内に久しぶりに会話の音が戻ってきた。


三日後には、朝から小さな行列ができるほどになっていた。


俺が在庫を整理していると、ふと視線を感じた。

店の入り口近く、柱の陰から、誰かがこちらを見ている。


顔は影に隠れてはっきりしない。ただ、低い声が風に乗って聞こえた気がした。

「……なるほどね」


俺が顔を上げたとき、人影はすでに消えていた。

残ったのは、かすかな足音と、揺れる暖簾だけだった。


(誰だ、今の……?)


第1話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。