第49話 咆哮
「それは」
ミルはアルネーに対してなにかいおうとして、ぐっと黙った。
胸もとで両手を握る。
ふと、おれは気づく。
アルネーは、ミルが光の魔術を失ったことを知らないのだ。
彼女が未だ聖女と呼ばれるほどの魔術師であると、そう信じている。
闇の魔術のことを伝えるかどうか迷ったすえ、やめた。
そんな悠長なことをしている暇はなかった。
産まれたばかりの邪竜の子が、紅蓮の双眸でこちらを睨んだからだ。
「来るぞ」
おれは叫ぶと、ミルを抱えたまま横に飛んだ。
ほぼ同時に、アルネーも反対側へ跳躍する。
数瞬前までおれたちがいた空間を、業火が焼き尽くす。
邪竜のブレスだ。
かつて、アルネーの町を滅ぼした紅蓮の炎は、街路を破壊し木造建築を炭化させて視界の果てまでを焼き尽くした。
これ、避難してた民もけっこうやられたな。
五百年前と変わらず、おそるべき威力と射程だ。
まともに受けるには、アルネーではちょっとばかり荷が重い。
万能と呼ばれたアルネーだが、彼女の総合力は、この突出した破壊と相性が悪すぎた。
自分が邪竜との戦いではサポートにまわるくらいしかできないと、そう承知していた。
これはナズニアやバハッダ、ヘリウロスも同様で……決定力のある魔術を行使できたのはネハンとミルだけだった。
あとはもちろん、おれの打撃力だ。
霊剣クリアだけは、邪竜の鱗を引き裂くことができた。
アルネーがおれの到着を待ってことを起こした理由はよく理解できる。
だからって、素直におれがあいつに協力してやる義理も理由も……。
わりと、あるな。
うん、負い目しかねえな。
「ああもう、仕方がねえ。乗ってやるよ!」
「うんうん、コガネ、わたしもそれでいいと思う」
「いいのかよ」
おれに抱きかかえられながら、ミルは嬉しそうにうなずく。
都市のあちこちに設置された光の魔術の輝きに照らされた顔が、少し紅潮しているようだった。
「そのほうが、コガネらしいよ」
「アルネーのやつに操られるのが、か」
「アルネーに怒っているけど、目の前の救える人は救いたい、ってところが」
ミルは、えへらと笑う。
真昼のおひさまのような、呑気な笑顔だ。
ったく、こいつときたら……。
「頭がお気楽でなによりだ」
「ん。気楽だよ。だって、コガネが絶対に守ってくれるもの」
建物の屋根から屋根へ飛び移りながら、邪竜のブレスをかわし続けている。
そんな状況で、ミルは心の底から嬉しそうに、そんなことをいう。
こいつめ……放り出してやろうか。
「そろそろ仕掛けるぞ。ミル」
「任せて。《永劫の深淵、冒涜の囀り、虚空の陥穽、銀の海、そは輝きの道なり》」
シェード・ステップが発動する。
おれの視界が一瞬で切り替わる。
空気が、焼けていた。
目の前にどす黒い存在があった。
むせかえるような臭気がおれたちを襲う。
接近して、初めて気づく。
この邪竜は……五百年前のあいつとは、決定的に違う。
いまのこいつは……。
「皮膚が、腐っている?」
「だね。息ができない」
「ひと太刀浴びせて、逃げるぞ」
おれは月刃衝を放ち、霊気の刃で邪竜の脚部の皮膚をわずかに切り裂いた。
相手がそれに気づく前に、ミルがシェード・ステップを発動している。
おれたちは離れた場所に出現し……。
おおきく息を吸って、吐いた。
ふー、ふー、ふー。
いやあ、あの臭いはきついぞ。
「産まれかたが完全じゃないのか、それともああいうものなのか」
「わからないね。わからないけど、でもあれが、わたしたちの知っているアイシャの前世とは決定的に違うのはわかる」
「だな。あれは……」
足もとでみた、あの竜は。
あの化け物は。
おれは思い出す。
「邪悪だ」
「うん。邪悪だね。あれはのさばらせたら駄目なやつだよ」
おれとミルの意見は完全に一致していた。
アルネーがどうこうは、ひとまず置いておくとして……。
こいつは、速攻で倒さなきゃいけないと心から理解する。
地面が、ひどく揺れた。
腐った邪竜が、おれたちの方に一歩、前進したのだ。
それだけで街路が陥没し、まだ無事だった建物が崩壊した。
小規模な山が動くようなものだ。
ただ存在するだけで周囲を危うくするような、天災じみたなにか。
それが、邪竜アイシャザックである。
ましてや、こいつは。
その紅蓮に燃える双眸をみあげる。
そこには、果てしない怒りがあった。
身もだえするほどの憎悪があった。
ヒトに対する、想像もできないほどの嫌悪があった。
「近づきたくないけど、近づいて始末するしかないな」
「じゃあ、また。いくよ」
ミルがシェード・ステップを詠唱する。
視界が切り替わり、邪竜の左斜め下に出現する。
邪竜はおれたちを見失って……いなかった。
後ろ脚を振って、出現したばかりのおれたちが襲われる。
おれはミルを抱いて、素早く跳躍、間一髪でこれを回避する。
そういえば、邪竜アイシャザックは自分の身体のまわりに薄い霊気の結界を張ってたんだった。
その巨体に似合わぬ感知能力と反応速度で、おれたちをさんざん、苦しめてみせた。
ああもう、五百年経ってるからか、いろいろ忘れてるな!
こんどはひと太刀も浴びせられないまま離脱すると、そばにアルネーがやってきた。ひどく睨まれる。
「ひょっとして、コガネ。あんた、ボケたのかい」
「うるせえ、こっちにもいろいろあるんだよ!」
「あと、ミル。あんたは……」
ミルが、えへらと笑った。
「わたしにも、いろいろあったんだよ」
「いうようになったじゃないか」
「これでもわたし、ずっと、お偉いさんだったからねえ」
だから、とミルはアルネーをみていう。
「アルネー。勝ちたいなら、出し惜しみはナシだよ」
「ちぇっ、わかってるさ。ほら、受け取りな」
アルネーがなにかを放り投げてくる。
おれとミルは手を開いてそれをキャッチした。
手の中をみれば、飴玉のようなものがそこにあった。
「舐めるといい。しばらく鼻を麻痺させてくれる」
「心の底からありがとう!」
おれとミルは声を揃えたあと、飴玉を口に入れた。
酸っぱい。鼻の奥がすーっとなる。
「あんたたち、五百年たっても仲がいいねえ」
うるせえ。
「《永劫の深淵、冒涜の囀り、虚空の陥穽、銀の海、そは輝きの道なり》」
ミルが呪文を詠唱する。
シェード・ステップが発動し、おれとミルは邪竜の背後にまわりこむ。
おれはミルを抱えたまま、邪竜の尻に向かって跳躍する。
至近距離で、おれは霊剣クリアを叩き込む。
「閃迅衝」
爆発的な衝撃がおれの腕を痺れさせる。
邪竜は悲鳴をあげて、よろけた。
激怒し、尻尾を振っておれたちを襲う。
だがそのときすでに、おれとミルはミルの魔術で離脱している。
陰から、陰へ。
この場所も、真夜中というロケーションも、おれたちの味方だ。
いまの一撃は、かなり効いたはず。
この調子で攻撃していけば……。
と、邪竜が天を仰いだ。耳を聾する咆哮をあげる。
これは……ヤバイ。
おれはとっさに、上空めがけて月刃衝を放つ。
一瞬遅れて、それが来た。
上空から、衝撃波が落ちてくる。
広範囲に、まんべんなく。
ケイの都のあらゆる場所に、致死の圧力が襲撃する。
すさまじい爆発が起きた。




