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第五章 三条邸の日々



「食が進まないか?」


「いえ……」


 さて、共に朝餉をということになって、膳には粥と野菜の炊いたもの。鴨団子の汁に、今朝宇治から届いた川魚の焼き物まで並んでいた。


「こんなにたくさんは食べられません」


 貴仁の問いかけに、薫はうつむきがちに答える。


 粥はいつも食べていたが、こんなお米だけの粥など初めてだった。あこぎがいつも作ってくれるのは、庭の野草と雑穀を一緒に炊き込んだ、椀を覗けば底が透けるほどの薄いものだ。


 それでも薫にとっては、それが当たり前の味であり、あこぎが世話してくれる暮らしに、不満という言葉を抱いたことは一度もない。


 しかし、粗食に慣れきった身には、目の前の膳はにわかには受けとめきれない。


 薫には、これが"ごちそう"なのか"当たり前"なのかさえ、うまく量れなかった。


 だから、お粥も半分より少なく、汁物も鴨など初めて食べたとびっくりし、川魚も一口二口。


「でも、おいしい」


 これは本当だ。「無理をしてないか?」と問う貴仁に首をふるふる振る。


「他の方とのお食事は、母様がお隠れになって以来です。だから、とても嬉しい」


 言葉にしてみて、薫はようやく、自分がどれほど長く"ひとりきりの膳"に慣れきっていたのかに気づく。


 向かいに座る人の気配がある──ただそれだけのことが、こんなにも心強いとは、今まで知らなかった。


「…………」


 先年、風邪で亡くなったあこぎの大叔母の女房も、そしてあこぎも、いくら近しくとも仕える者達だった。主とは食事を共にすることはない。


「ひとりで食事をすることは寂しいことだったのだと、思い出しました」


 母宮が亡くなったときは、泣いて泣いて、しかし、悲しみとは日々薄れていくものだ。だから、一人で粥をすするのは当たり前だと思っていた。


「俺は母の顔は知らぬ。赤子のときにお隠れになった」


 「それは……」と薫は顔を曇らせる。貴仁は「気にしてはおらぬ」と、いつものように笑ってみせた。


「いや、気にしたこともなかったな。父は帝だ。たとえ春宮(とうぐう)とて、一緒に食事などすることはない。俺もまた春宮であり、そののち譲位を受けて帝となった」


 言葉にしてみて、ようやく自分もまた、ずっと一人で膳に向かってきたのだと、貴仁はふと気づく。


 その事実が、今こうして向かい合って座る温もりを、ひときわ鮮やかに浮かび上がらせた。


「……だけど、それはお寂しい」


 思わず口にして、ハッと片手で口許を押さえる。「し、失礼なことを……」


「いや、本当のことだ。それは寂しい。だが、これからは、そなたが(ぜん)を共にしてくれるのだろう?」


「は、はい」


 その言葉が嬉しくて、薫は野菜の炊いたものから、小芋をもう一つと、がんばって食べたのだった。


 「この方を、もう二度とひとりきりにしない」――その想いが、胸の奥で静かに芽を出した。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


 そのあとも、貴仁は薫のそばにいた。御簾を少し上げて新緑の庭を眺めたり。


「出来るか?」


 と、女房が取り出した囲碁の道具を示されて、薫は答える。


「はい。ですが……だいぶ前なので、石の置き方を覚えているかどうか」


 そばにいたあこぎが「お道具はとっくの昔に売り払って……」と口走り、左近と右近に見られて思わずその口を手でおおったことを、おっとりと薫は気付かず。


「忘れていたら教えるから、大丈夫だ」


「はい」


 そして、気付けばとても面白く夢中になって、結局負けてしまったのだけど、貴仁が苦笑して告げた。


「忘れていたなどとんでもない。久々に追い詰められたぞ」


「はい?」


 ずっとお強かったけどと、薫が首をかしげれば「では、姫、勝者になにをくださる?」と貴仁が告げる。それに薫はまた首を反対側にこてんとやった。


「おや、囲碁の決まりこそを、先に教えなければならなかったな。初めになにか賭けるのだ」


「賭け……?」


 薫には聞き慣れない言葉だ。


 貴仁はおかしそうに目を細める。


「遊びゆえ、ちょっとしたものでよい。だが貴族共は、女房装束だの楽器だの、珍しい香だのと、すぐに張り合いたがるがな」


 しかし薫には、そもそも「賭け事」というものの感覚がない。


 碁を打つのは、母や女房達と静かに盤をはさむひとときであり、勝ち負けで、何かを奪い合うためのものではなかったのだ。


 「願掛けにございますか?」と真面目に聞いたら、からからと貴仁が笑う。


「うんうん、願いごとかもしれないな。目の前の美しい方から、ご褒美を一つ」


 女房達が、二人のあいだにある碁盤を片付けて、すいっと寄ってきた貴仁の顔が、薫の白い面に重なる。


 唇がちょんと触れあって離れた。


 昨夜もされたこと。


 でもあれは嵐のような口吸いだった。


 今はまるで、小鳥同士の挨拶のよう。


 だけど、口吸いは口吸い――。


 何が起きたのか分からず、薫はきょとんとして唇を押さえた。顔が赤くなり、わなわなと震える。


 また泣くのか、と貴仁がぎょっとする。


 左近と右近は「ならばおよしになればいいのに」「ねぇ」と囁き合い、左近はすかさずあこぎの前に扇をかざした。


「こ、このように……むやみにお触れになってはなりません!」


 泣くことはなく、キッとにらみつけられて、そのようなお顔も出来たのかと貴仁は思うが、しかし、その言葉にやはり動揺した。


 怒った顔さえ愛らしいと思ってしまう自分に気づき、貴仁は胸のうちで小さく苦笑する。ますます加減がきかなくなりそうだった。


「俺に触れられるのは嫌か?」


「そ、そうではありません。貴仁様が嫌ではないです。ですが……」


 扇で口許を隠すようにし、うろうろと視線をさまよわせてから、貴仁の端正な、しかし男らしい眉がいささか下がった、若干弱ったような顔を見て、薫が口を開く。


「ややこが出来てしまいます」


「は?」


 貴仁はまぬけな声をあげた。ややこ、ややことは赤子のことだ。そもそも、自分達は男同士であるが、さて薫には自分が男という自覚はおそらくはない。ないが、しかし、唇が触れあうだけで赤ん坊とは?


「そなた、赤子がどうやって出来るか、知っておるか?」


 率直に訊ねたとたん、薫の顔がさらに赤くなった。頭上のお耳の内側まで、真っ赤だ。


「そ、そのようなこと、口に出してお尋ねにならずとも……貴仁様こそ、ご存じでしょう?」


「いや、聞きたい。もしかすると、俺とそなたとが聞いたのとは違うのかもしれぬ」


「違う……ですか?」


「うむ、知りたいな」


 重ねて聞かれて、薫がもじもじとし、そして、覚悟を決めたように口を開いた。


「夫婦となった者同士が触れあうと……」


「ふむ」


神無月(かんなづき)出雲(いずも)に集う八百万(やおよろず)の神々がご相談なされて、玉のような吾子(あこ)を天から下されると、乳母(うば)が申しておりました」


 薫にとってそれは疑いようもない"真実"であり、神々の采配に身を委ねる以外の道など考えたこともなかったのだ。


「少し違うな」


 「違うのですか?」と薫が驚くのに「そもそも」と貴仁は顎に手を当てて口を開く。


「軽く手を握り合ったり口に触れただけで、子供が授かってしまえば、地上に人があふれてしまうではないか」


「そういえば、そうでございますね。では乳母はうそを……」


「うそではない。赤子は天からの授かり物だ。

 ただ――夫婦になったと、神々に"示す"作法がある」


「示す?」


「うむ、共寝をしてな。……夜、夫婦の作法を交えたであろう?」


 貴仁がニヤリと笑うのに、薫は昨夜のことを思い出して、赤くなったり青くなったりする。


「で、では、あれで、ややこが……」


「いやいや、あれはまだまだ"挨拶"程度のものだ。夫婦が子を授かるには、作法通りの手順がいる。少しでも間違えると授からないゆえに、なかなか子供が出来ぬ夫婦もいるのだ。神々の御心(みこころ)のままにな」


 「難しいものなのですね」と信じこんでいる薫と真顔で「ふむ」と頷く貴仁に、左近と右近は「殿があれほどお口が回れるとは」とぷるぷる笑いをこらえている。


 あこぎは、十一の童女であるが、あちこちの屋敷に通っていれば、女房達のあけすけな話も耳にして、男女の(みそ)かごとに関しては、すでに知ってはいた。知ってはいたが……


「宮様は穢れなく清らかなまま、下世話のなことなど、なにもご存じなくてよろしいのです!」


「まあ、たしかにお可愛らしくて、そのままにして差し上げたくなるのも分かるけど」


「殿も結局、いいようにごまかされて、本当にお困りになるのはご自分なのに……」


 「ま、お教えになるのも殿だから」と左近と右近はくすくす笑い合ったのだった。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


「……それで昨夜はなにもせずに、お眠りになったと?」


 一の従者たる惟光が、口許に堪えきれぬ笑みを浮かべて言う。こいつ、左近と右近から話を聞いたなと、貴仁は文から視線だけあげて、切れ長の瞳でちらりと見る。


 三条院、昼の御座所。今日もお会いになりませんと告げられて、大臣以下の殿上人はすごすごと帰っていった。


 しかし、お会い出来ずとも……と、大量の文を残していく。顔を見て話すのは時の無駄と切り捨てる貴仁ではあるが、その文には目を通しているのだ。とはいえ、たいがい長ったらしい前置きの挨拶を飛ばし、本題の下らない相談に、その(わら)でも詰まった頭を寄せあつめて考えろと、傍らの乱れ箱に放り込んで終わりだ。箱の中身は女房達があとで回収して、(かまど)のたき付けにでも使われる。


「なにもしてない訳では無い。昨夜は抱きしめて寝た」


「はあ、殿が共寝のお相手を"抱っこ"だけしておやすみとは……」


 最後の文を乱れ箱の中に放り投げる貴仁に、惟光が、口の端をひくひく震わせる。ぼそりと「都中の女妖や女神様と、散々遊ばれてきたお方が……」とつぶやく。


 たしかに己が、ただ一人を壊さぬよう包みこむように抱きしめる"だけ"の夜が来ようとは――と、貴仁は内心で自嘲めいた笑みを浮かべた。


 ちなみに左近と右近には手がついていない……側仕えの者とは閨を共にしないというのが、貴仁なりの規律らしい。もっとも、お情けなど受けずとも、心からお仕えしたいという者達のみが、この三条院に集ってきているのだ。それこそ、門番の(むじな)のお爺まで。


「……光の君が若紫を育てたのは、こんな気持ちだったかもしれん」


 かの有名な源氏物語の主人公の光源氏は、幼い少女だった若紫をひきとって、理想の妻へと育てる。誰もが知る有名な話であるが。


 ぽつりと貴仁が漏らすのに、ついに惟光が堪えきれず吹き出すのみならず笑い転げれば、ついと貴仁が持つ蝙蝠扇(かわほりおうぎ)が動いて、気を跳ばす。


 今回の気はことさら大きく、惟光は御簾を突き抜け、廂も簀の子も越えて、白砂の庭まで転げ落ちた。


「ひどいですなぁ、殿」


 しかし、一瞬後には畳を二枚重ねた上、脇息(きょうそく)にもたれ掛かる貴仁の御前(みまえ)に戻ってきていた。まったく、めげることを知らない男だ。


「しかし、若紫とは、あの宮様はもうすこし大人であらせられると思いましたが」


「二七だ。俺より四つほど年上だな」


 貴仁は二一で退位して、この三条院に移り二年、二三となった。


「はあ、年上の幼妻」


 言っておいて、惟光も「これはおかしいですな」なんてつぶやいている。


「しかし、初めの夜にされることはされたのでしょう?」


「最後まではしていない」


「はい?」


 この男は、自分がどれほど絶倫だと思っているのか?「殿が据え膳前に、最後まで致していない」と呆然とつぶやいている。この男、自分をどれほど節操無しだと思っているのか?


 まあ、普段はニタニタいつも企むような顔をしている、これの呆け顔を見られたからよしとするか。


「――眠られてしまったのだ」


 眠ったというより、あの羅城門(らじょうもん)の上のごとく、気を失ったというべきか。まあ、まったくなにも知らないのならば、口吸いからの肌の触れあいなど、薫にとってはすべて未知の衝撃であっただろう。


 貴仁の胸の内には「急ぎすぎて壊したくはない」という、大切すぎて臆病になる。そんな自分でもおかしくなるような気持ちがあった。


「……それで殿がなにもなされず、さらに昨日は抱っこだけして寝たと?」


 呆然と惟光がつぶやいている。「あの殿が……」なんて、こいつはどれだけ自分を節操無しと思っているやら。


 そのとき、琴の音が聞こえた。弾き手の心根を表すかのようにどこまでも清んだ音色だ。少し古風な奏法であるが、それがまた奥ゆかしくてよい。


 貴仁は無言で立ち上がる。その背を東対(ひがしのたい)に行かれるのか……と惟光は見送った。あそこには惟光以下の屋敷の男は、近寄ることも許されてはいない。






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