第四章 大神(おおかみ)の姫宮(後編)
昨夜、半ば攫うように連れてきた薫の居所と決めた東の対から、貴仁は正殿へと移った。
手水を受け、乱れた髪や装束を女房達に整えさせていると、惟光に連れられて、あこぎが姿を見せる。
「ほう、昨夜より、見違えだな」
ぼろぼろの汗衫から新しい衣に改めさせられたあこぎは、直衣に着替えさせてもらう貴仁のそば近くで、面を下げている。
だが、その表情には、「どうにも納得がいかない」と書いてあるようであった。
惟光から、ここが三条の院であり、目の前の殿こそ三条院その人だと聞かされても、昨夜、屋敷に連れてこられたばかりの利発な少女は、そうたやすくは信じられぬ様子である。
「さて、あこぎとか言ったか?」
穏やかに声をかけると、少女の肩がびくりと跳ねる。
「そこの道化者の言葉が信じられぬなら、門の外の朱雀大路へ出て、人にここがどこか指さして訊ねてみるがよい」
「道化とはひどいですな」と惟光が苦笑まじりに返しながらも、あこぎをうながして正殿を後にした。
しかし、あこぎはほどなく転げるように戻って来た。誰かに尋ねるまでもなく、朱雀大路へ出た途端、ここが三条院であると一目で悟り、声にならない悲鳴をあげて門の中へ引き返したのだと、あとから惟光が面白そうに語って聞かせた。
六条の葎屋敷に籠もりきりの主人と違い、あこぎは日々さまざまな屋敷に手伝いへ出ていたという。当然、この三条院も外から眺めたことがあるし、その主がいかなる方かも知っていたのだ。
「お、お疑いして申し訳ありませんでした。このとがめはわたしのみに、宮様にはかけらも罪はございません。どのような罰もお受けいたしますので、どうかどうか、宮様だけは元の御屋敷に……」
震える声で頭を下げるあこぎを見下ろしながら、貴仁は内心、少しだけ遠い目になる。
(さて、俺は都の者どもに、どれほど恐ろしいものとして語られておるのやら)
惟光あたりに口に出して問えば、「おや、お知りでない?」と、きっと楽しそうにからかわれるに違いない。
「あの葎の屋敷に薫を戻すことはない」
「え?」
一緒におとがめを受けるということかと、あこぎの顔から血の気が引く。そんな少女に、貴仁はゆっくりと言葉を継いだ。
「そうではない。お前の大切な宮様のお世話は、この俺がこれからする。東対にいらっしゃるから、行きなさい」
告げられて、一瞬ぽかんとするあこぎに、貴仁は小さく笑って付け加える。
「目を覚まして、お前の姿もなく、知らぬ女房ばかりでは不安になろう?」
はっとしたように目を丸くしたあこぎは、再び転げるように東対へと駆けていった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
目を覚ませば、そこは見慣れた御帳台とはまるで違っていた。すすけたところも、破れかかった端もない、白く美々しい帳。下に敷かれた畳も、どこひとつ痛んでおらず新しい。
身体の上にかけられた掻巻も、薄い綿ではなく、絹の温もりをたたえた立派なものだ。
たきしめられた香のやわらかな匂いに包まれて、心地よく目を覚ました薫は──かけられた布一枚の下が裸であることに気づき、きょとんとしたあとで、昨夜のことを思い出し、ポン、と花が咲くように顔を真っ赤に染めた。
昨夜は、父宮と母宮の戒めを破り、真の姿を見られたうえに、あの殿方と都の空を追いかけ回され、ついには捕らえられて、なぜか口を塞がれ──まるで食べられてしまうかのようなことになって。
さらには、気づいたときには何もまとわぬ姿で、互いの身体を抱き寄せ合っていて──。
そこまで思い出しただけで、昨夜の熱が胸の奥に生々しくよみがえり、聞き慣れぬ鼓動が身体の底でどくどくと跳ねはじめる。
いったん身を起こした薫は、居ても立ってもいられず、そのまま床へつっぷす。敷布を手繰り寄せて頭からすっぽりかぶり、ぷるぷると情けなさと恥ずかしさに震えた。
ふと鼻先をかすめたのは、昨夜の男の香の匂いだった。かぐわしい橘に、かすかな苦みが混じる香り。
同時に、肌を合わせたときの熱さや、そのあとの──詳しくは思い出せない、けれど確かにあった何かが、胸の奥で渦を巻く。恐ろしく恥ずかしいのに、なのに胸がときめいてしまう。
(あの方は怖い。それでも――嫌ではない)
そんな自分の心こそが、薫にはいちばん理解できなくて、いちばん怖かった。
「宮様」
「あこぎ……?」
聞き慣れた少女の声に、薫はおそるおそる顔を上げた。御帳台の正面の帳が巻き上げられ、あこぎが姿を見せる。肩には新しい袿が掛けられていた。
その手を取られるまま、薫は御帳台の外へと連れ出される。
「左近と申します」
「右近と申します」
そっくりな顔立ちの女房ふたりが、声をそろえて名乗り、「本日より宮様のお世話をさせていただきます」と雅やかに挨拶をする。
それよりも薫の目を引いたのは、その女房装束の裳の裾から、そっとのぞいている二本に分かれた尻尾だった。片方は白、片方は黒──白いほうが左近、黒いほうが右近なのだろう。いずれも猫又の尻尾に違いない。
「あらあら」
「まあまあ」
双子の女房は楽しげに声をそろえ、尻尾をゆらりと揺らす。「宮様にはお見えになって当然ですわね」と、左近が穏やかに笑った。あこぎは訳が分からず、目をぱちくりさせている。
「ご安心くださいませ。ここにいる者達は、殿様に許され、心からお仕えしている者ばかりにございます」
殿様──それは、昨夜のあの殿方のことだろうかと、薫はぼんやりと思う。
薫が戸惑いにまばたきをしている間にも、左近と右近は手際よく動いた。「まるで星屑を散らしたような綺麗な御髪」と黒髪をくしけずり、裸の肌にかけられていた白絹の袿をそっと肩から外す。
「雪のようにまっ白な、お肌」
左近がうっとりと呟き、その首筋にかすかに残る紅の名残りに、右近がまさしく猫のように目を細めた。
そして、ふたりとあこぎの手で、薫の身体には新しい衣が一枚一枚、丁寧に着せられていった。
高貴な姫君というものは、不用意に姿を見られることこそ大きな恥と教えられこそすれ、女房達に裸身を見られることを、ことさらに恥ずかしいとは思わない。
薫はただ戸惑うばかりで、羞恥の名さえ、まだ知らない。
あこぎいわく、「私の宮様は天女のように、穢など微塵もなく……」ということである。
淡い紅に青緑の撫子を散らした合わせの袿をまとわされ、鏡台の前に座らされた薫を見て、左近と右近だけでなく、あこぎまでが頬を染めて「お美しゅうございます」と息をのんだ。
言われた本人は、ただ戸惑うばかりで、自分がどれほどの姿をしているのか、半ばも分かっていない。
左近が最後の仕上げとばかりに、荷葉の蓮の花の香を、その豊かな黒髪にそっと焚きしめる。
「ほんに、殿のお見立ての撫子が、ようお似合いで」
くすりと笑いながらそう告げられ、「殿……」と薫は小さくつぶやいた。
されるがままに座っていた薫の脳裏に、ようやく昨夜の殿方の面差しがよみがえり、ぽうっと頬に紅がさす。
なにも分からず、情けなくて、恥ずかしくて。
──それでも、あの方のことを憎いとは思えない。
怖いと身がすくむのに、同じところから、どうしようもなく惹かれていく思いが湧き上がる。
相反する感情が胸の内で絡まり合い、今まで知らなかった甘い痛みとなって薫を締めつける。思わず「ほう……」と小さく吐息がもれた。
名を、確かめるように。
「貴仁様……」
「呼んだか? 薫」
几帳の向こうから、すっと現れた長身の影に、薫はあわてて扇をかざして顔を隠そうとする。
だが、その前に、太刀を握り慣れた固い手が伸びてきて、薫の白く長い指を、逃がさぬようにそっと捕らえた。
「そなたの背の君を前に、顔を隠すなどとは、なんと水くさい」
え? と薫は混乱する。背の君とは、愛しい方を指す呼び名だ。
貴仁は頭の上の耳に口を寄せ、さらに甘くささやく。
「昨夜、同じ床を共にした俺達は――もう夫婦と申してよいのではないか?」
「……そう……なのですか?」
言葉の意味が、遅れて胸に落ちた。
ならば、すでに自分は、この方の……妻なのか。
そんな、そんなはず、と心の中で否定しながらも、胸のどこかがじんと熱くなり、息が詰まる。
ほろほろと涙が頬を伝い、声にならぬまま泣き出した薫に、貴仁は昨夜と同じく、ぎょっと目を見張った。
いつも冷静沈着な殿が、あからさまに狼狽える姿など、そう見られるものではない。左近と右近は「ま」と扇で口許を隠し、珍しいものを見たとばかりに目を見合わせた。
「そんなに嫌だったのか?」
苦いものをのみ込んだような、美声ながらどこか情けない響きに、双子の女房達は思わず肩を震わせる。
けれども、目の前で泣いているのは、撫子の袿をまとった"姫"──いや、男である。貴仁には笑う余裕など、欠片もなかった。
立ったまま支度を整えられていた薫は、貴仁よりも指二本ほど低いとはいえ、それでも十分に長身だ。
痩身で薄い身体つきは、逞しい貴仁とは大きく異なるが、撫子の袿をまとったその姿は、どの姫君であろうと裸足で逃げ出したくなるほどに美しい。
艶やかな黒髪に縁どられた白い頬を涙が伝うさまは、まさしく"もののあはれ"そのものだった。
「嫌だったか?」という問いかけに、薫はふるふると首を横に振る。
「嫌では……嫌だったのでは、ありません」
泣き濡れた瞳でこちらを見上げる姿は、あどけない童のように頼りなく、途方に暮れているようで、思わず抱きしめてやりたくなる。
頭の上の耳もしおしおとうなだれ、その小さな震えが、そのまま薫の心の揺れを映しているようだった。
貴仁はそっと手を伸ばす。守りたい──その想いが、さらに深く、強く胸に刻まれていく。
「父様の言いつけを破ってしまいました。この身は宮家の姫として、降嫁などもっての他だと。伊勢の斎宮になったつもりで一生暮らせと」
斎宮とは、帝に代わって伊勢におわす皇祖神に仕える宮姫とのことだ。
実のところ生涯斎宮などということはなく、たいがい十代の初めに任じられ、長くても五年ほどで次の斎宮に代わるのが常。
それを"一生"と言い含めるなど、ある意味「尼になれ」と言っているに等しい。
それでも薫は、その厳しい言いつけの奥に、自分がただの人とは違うがゆえに、父母が必死に守ろうとしてくれていたのだと、うすうす気づいていた。
我が身を案じた愛情があったからこそ、いま、その戒めを破ってしまったことが胸をきゅうと締めつける。
「母様も、けしてけして不用意にこの身を見られてはならぬと。寝殿の端近などに出て、殿方に垣間見などされるなど、もっての他とおっしゃって……」
母の言葉を思い出すたび、薫の声音は次第に細くなる。
なるほど──と、貴仁は薫の父母の思いを悟る。
宮育ちで世間知らずなりに、生まれた子を守ろうと懸命だったのだろう。頭に大神の耳を持つ"異形"として生まれた男の子を、姫として隠し育てる決意をした。
それでも、どうか健やかに生きてほしいと願ったに違いない。
「安心しなさい。あなたは"降嫁"など、けしてしてはいない」
"降嫁"とは、宮家の姫が臣下の家に嫁ぐこと。ならば──と、貴仁は静かに口を開く。
「俺は先の帝。今は退位して上皇となっている。宮を、この三条院にお迎えしたい」
お迎えしたいもなにも、実のところは強引に連れてきてしまったのだが──それでも貴仁の声音は、どこまでも真摯だった。
「上皇様?」
「うむ」
「…………」
黒々と潤む瞳をいっぱいに見開き、薫はまじまじと貴仁を見つめる。やがて、袿のひらひらした袖口で口許をそっと隠し、ぽつりとつぶやいた。
「上皇様に后として求められたときは、どうすればよいのか……父宮様は、おっしゃってはおりませんでした」
「では、この俺を父宮だと思って、お頼りになればよろしい」
「はい」と素直にうなずく薫を見て、貴仁は胸の内で小さく苦笑した。
──亡き父宮も、まさか男と知ったうえで妻に迎えようなどという物好きがいようとは、思うまいな。
薫は、差し出されたその言葉へと素直に心を預けながら、これからの自分の居場所は、この方のそばなのだと、おぼろげながらも悟りはじめていた。
まだ夢の続きのようで、けれど胸の奥だけは、不思議と静かに落ち着いている。




