第四章 大神(おおかみ)の姫宮(前編)
「そなたは尊き宮家の姫。臣に降嫁するなどもっての他。一生を伊勢の大神様に仕える斎宮の神子のごとく暮らしなさい」
父様は、折に触れてそう言った。
母様もまた、やわらかな声音で。
「けして屋敷の外に出てはなりません。御殿の中においても、御簾の端近などに寄って、殿方に垣間見の隙をお与えになってはなりませんよ」
と――。
だから──これは父宮と母宮の言いつけを破って外に出た、その天罰なのだろうかと一瞬思う。けれど、あこぎを守れたことを、薫はかけらほども後悔してはいなかった。
二日月のほの暗い夜――昨夜の新月から、一夜明けただけだというのに。
闇に紛れて、袿と狩衣の二つの影が、鳳のごとく都の空を跳ぶ。その光景に気づく者は、地上には一人もいなかった。
どこかの御殿や寺院の屋根を蹴り、夜風を切って跳びながら、薫はちらりと振り返る。
昨夜、闇を裂いて現れたあの男が、抜き身の剣のような気配をまとい、金の光を宿した瞳で、黙ってこちらを追ってくる。
怖い――薫はただ、足の赴くままに跳んだ。
屋根から屋根へと飛び移るたび、都の灯りが足もとで遠ざかっていく。息は焼けるように苦しいのに、振り返れば、すぐ背後まで迫る影。
いつのまにか、都中を縦横無尽に駆け回る、とんでもない追いかけっこになっていた。
ついには、羅城門の高い屋根の上。
「行くな!」
必死の声に、思わず振り返ってしまう。
「あ……」
闇の中で、ふっと金色に光る瞳と視線が絡んだ。
刹那、身体が縫い留められたように強張る。――ただの人なら、そのまま動けぬ。
薫なら振り払える。だが、瞳の奥に潜む寂しさが、胸をかすめた。
ほんの一瞬。足が鈍った、その瞬間――背中から強く抱きすくめられた。
「や、離して!」
「お嫌ならば振り払うがいい。あなたならば出来るはず」
必死にもがくたび、耳元に落ちる低い声が、ぴくりと尖った耳を震わせる。くすぐったさと、得体の知れない熱が、同時に背筋をなぞった。
「ひどい……そんな……」
たしかに、この腕の拘束を力づくで解くことは出来る。だが、このような剛の者をふりほどくとなれば、ただでは済まない。彼を傷つけてしまう。
あこぎを襲った、あの底無しの闇とは違う。きっと彼も、あの闇を斬るために現れたのだ──そう思えばなおさら、力を振るえない。
傷つけたくないと、ふるふると首を振ると、「お優しい、姫宮」と、どこか切なげな声音でささやかれ、唇が近づいてきて。
「うんっ……!」
唇が塞がれていた。あまりのことに、薫は目を見開く。触れ合った唇の熱さと、すぐ近くで混ざり合う息づかい。
ぴくぴくと頭上の耳が跳ねると、なだめるようにそっと撫でられ、その感触に、背筋がゾクリと震えた。
どうして、こんなことをされているのか。息がうまく出来ないほど胸がどきどきと鳴り、頭がぼうっとして、くらくらと目眩がしてくる。
「あ……」
「おっと」
かくりと薫の身体から力が抜け、そのまま意識が闇に沈む。貴仁は崩れ落ちる痩身を軽々と抱きとめた。自分とそう変わらぬ背丈の身体。目を閉じた顔に、長いまつげの影が落ちている。
「……口吸いをしただけだぞ」
それで気を失ってしまうか? と貴仁は苦笑する。
軽く触れただけの唇に、不思議な縁の糸のようなものが、ふっと絡みついた気がした。胸の奥をざわつかせるその感覚を、貴仁は何でもない風に押し隠す。
それでも大人しくなってくれて助かったとばかり、その身をしっかりと抱き直し、貴仁は都の空を音もなく跳んでいった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「ん……」
とても温かい。幼いころ、乳母の腕に包まれてうとうとしていたときのような、柔らかな温もり。いや、自分はもう大きく、その乳母もとうにいない。今、そばにいてくれるのは、あこぎだけで──。
すすけた御帳台の中。冬はいくら衣を重ねても底冷えがして、薫は「寒いなあ」と何度も心の中でつぶやいていた。あこぎは、火鉢はあっても炭がなくて……と、いつもすまなそうに眉を下げていた。
「起きられたか?」
「え?」
頭上から落ちてきた低い声に、尖った耳がぴくりと動く。その先を、かしりと軽く噛まれて、薫は思わず声を洩らした。
「……な、に……?」
これは温かい、というより熱い──そう気づいて、はっと目を見開く。すぐそばに、昨夜のあの男の顔があった。
しかも、このひどく近しい温もりは、互いの肌が何も隔てず触れ合っているせいで……。
「な、なに!?」
「良いお声だ」
殿方と、何も隔てず肌を寄せ合っている──それだけの事実に、薫は頬どころか全身の血が一気に熱を帯びるのを感じた。
「や、や……こんな……の……いや……」
あまりの恥ずかしさに、ほろほろと涙がこぼれる。その雫を、男の端正な唇がそっと吸い上げた。
そして、再び口づけられる。
触れたところから、胸の奥へ火が移っていくようで、息がうまくできない。
「ふぁ……あ……っ!」
どうして、彼の唇が、触れる手がこんなにも熱くて、胸の内をかき乱すのに、嫌だと思えないのか。拒めないのか。
何も知らない薫の、純白の心はただ混乱するばかりだった。
「俺の名前は貴仁。あなたは?」
「か、薫……」
「良い名前だ、薫」
名前を呼ばれただけで、胸の奥でなにかがふわりとほどける。
「あ……」
遠くで何かがはじけるような熱に身を預けるようにして、薫はふたたび意識の底へ沈んでいった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
東の空から光が差し始めたのを感じても、腕の中の温もりを手放したくなくて、貴仁はしばし目を閉じたまま、まどろみに身を浸していた。
「…………」
薫はよく眠っている。少し赤い目元に、「泣かせすぎたか?」と苦笑しながら、そっとまなじりに口づけると、「ん……」と小さく身じろぎして、ぴくぴくと尖った耳が顎をくすぐる。その感触に、思わずくすりと笑みが漏れた。
腕に抱いた身体は、たしかに男のものだ。余計な柔らかさはないが、若木のようにしなやかで、白い肌は絹のように滑らかで手触りもよい。
脇腹から胸へとそっと手を移して、貴仁はふと顔をしかめる。あばらが浮き出ている。
(これは、食事など気をつけて差し上げねばならんな)
女房達への言いつけを、心の中でひとつ書き留めるのだった。
貴仁は、腕の中で軽すぎるほど細かった身体の感触を思い返し、胸の底に、かすかな痛みに似たものがにじむのを覚えた。
(どうして、これほどの姫を知らずにいたのだろうな)
これからは自分が守らねばならぬ──そんな思いが、静かに、しかし確かに心の奥に根を下ろしていく。
星の光をすくったような艶やかな髪をそっとかきわけ、形のよい額に一つ、軽く口づける。
それから、貴仁はひと夜を共にした御帳台の外へと、静かに身を引いた。




