第三章 葎屋敷(後編)
あこぎが薫に出会ったのは、まだ七つのときだ。父の顔を知らず、母が亡くなって、唯一の身寄りである大叔母を頼ってこの御殿にやってきたときには、すでに庭は葎で覆われていた。
こんなお化け屋敷、大丈夫かしら? と、びくびくしながらも、もう身内は大叔母しかいない。覚悟を決めて中に入った先で、美しくもお優しい姫宮様に出会ったのだ。
そのときにはすでに、この家に仕えるのは、門番と雑役を兼ねた老人が一人と、女房として仕える大叔母が一人という有様であった。その二人も、流行病の風邪で、ぱたぱたと一年ほど前に儚くなってしまった。
いよいよ生活に困窮し、あこぎは薫の暮らしを支えるため、外の御屋敷に昼間は奉公に出ることにした。女房見習いの女童として、見目も良く利発なあこぎは、このまま御屋敷に仕えぬか? と通い所のあちこちで声をかけられるが、すべて断り続けている。
優しい姫宮様を見捨てることなど出来ない。わたしがいなくなれば、この方のお世話を誰がするのだろう──
昨日の出来事を経て決意を新たにした、その翌夜である。崩れた門を強引に押し開けて横付けされた牛車を目にし、あこぎはぎょっとして、薫のもとへ走った。
「宮様、宮様、大変です! また、もの好きな、素性も知れぬ男が……!」
「おや、まあ困ったこと」
薫はおっとりとした口調で、扇で口許をそっと隠した。
「以前のように、垣間見をわざと許して欺くしかありませぬ」
「あこぎが前に言ってくれた、末摘花の姫のように?」
「そうです、そうです。お美しい宮様が、そのような噂を流されるのは口惜しゅうございますが……」
あこぎは悔しさに唇を噛みしめた。しかし、高貴な宮様を野良犬のような男どもから退けるには、この方法しかなかったのだ。
こんな葎の屋敷にも姫宮が一人住んでいると聞きつけ、やってきた好色な男がいた。それが、かの二条藤家の左大臣の末の息子であり、親の権勢をかさに来てやりたい放題と噂の男である。
十一のあこぎには、先に文一つよこしもせず押しかけてきたこの不作法な男とその供の者を、力ずくで追い返す術などない。そこで、一計を案じたのだ。
幼いながらも、あちこちの屋敷に女童として出入りしている。そこの女房達からこのような男達のあしらいも見て学んでいる。
薫に目眩ましを使ってもらい、"末摘花"のように見せる。――それが、唯一の手だった。
初め、「こうなったら致し方ありません、宮様、とびきりの醜女に化けてくださいませ」と頼めば、屋敷から出たことのない箱入りの薫は、首をかしげるばかりで「醜女様とは、どんな顔とお姿をしているの? あこぎ」と尋ねてくる。そのおっとりぶりに、さすが、わたしの姫宮様! と頬を染めて、ときめいている場合ではなかった。
「源氏に出てくる末摘花の姫です」と説明すれば、薫は「そう、あの方が醜女なの?」とこくりとうなずき、その通りの姿になられた。
あこぎがそ知らぬふりで男を案内する。男がそっと、すすけているどころか布の端が破れた几帳をめくると、ひと目見るなり後ずさりし、「今日は陰陽師の占いで方替えだ、方角が悪い」だのと言い出した。ならばなぜこの御屋敷に来たのだ? という見え透いた嘘をついて逃げていったのである。
あのあと、「葎の御殿に住むのは、とんだ醜女の化け物屋敷だ」と噂を流され、その悔しさにあこぎは唇を噛みしめたものだが──まさか、その話を聞いていそうなものなのに、再びやってくる馬鹿がいるとは。
しかし、牛車からおり立った二藍の直衣姿もあでやかな、その一目で高貴な公達とわかる姿に、あこぎは息を呑んだ。なにより、烏帽子の下からのぞくその美貌に。
これほどの方ならば、どこの屋敷の女房達でも噂でもちきりで、ときめく相手であろうに、あこぎにはとんと見当がつかなかった。通いどころの御屋敷の女房達の噂では、先年、春宮に若くして位を譲られた三条院様が、それはそれはもうとんでもない、触れたらこちらが斬れてしまいそうな美貌の方だと聞いているが──まさかね……と思う。
しかし、目の前の公達の放つ気配は、どこか「ただの美しさ」とは異なる、ぞくりとするほどの鋭さを孕んでいた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
出迎えてくれた女童は、昨夜出会った男が貴仁であるとは、気づいていないようだった。利発そうな顔立ちをした、歳の頃十を少し過ぎたあたりの少女だ。
新月の暗闇では、こちらの顔などわかるはずもない。もっとも、夜目が利く貴仁には、なにもかも見えてはいたが。
「大変、内気な宮様です。今宵はお姿をそっと見られるだけで、ご無体なことはなされず、お帰りください」
しっかりしているというか、まるで年かさの女房のような口ぶりだ。「無体なことはなされず……」とは、女房たちのお決まりのセリフだ。姫君のいる御帳台に案内するもしないも、仕えている女房の胸三寸なのだから、ここまで案内しておきながら、男がその気になれば、姫君に抵抗する手段などない。
それでも、少女のすすけた汗衫から覗く手はかすかに震えていた。生意気な口ぶりとは裏腹、緊張しているのだろうその姿に、貴仁の唇にかすかな笑みが浮かぶ。
「昨夜、六条の辻で会ったな」と言いおき、「え? え?」と戸惑う少女をそのままに、貴仁はすすけた御帳台の布をそっと開いた。
果たして、そこにいたのは──色あせてくたびれた袿をまとい、痩せぎすであわれな身体つきの姫君であった。白く青白い横顔の顎は妙に尖り、なにより、その鼻先だけが長く伸びて、そこばかり妙に赤く血色が良い。どのように言い表そうとも、醜女としか言いようのない姿。
――常人の目には、それが"末摘花"に見えるだろう。
だが、貴仁の眼には違った。
扇の陰からこぼれる気配は、偽りではない。美しさだけが、そこにあった。
くたびれた袿はたしかにそのままだが、その肩から裾に広がるのは、星屑を散らした夜空のごとき黒髪。
――貴仁は、息をするのを忘れた。
痩せた身体つきは、貧相ではない。しなやかで、研ぎ澄まされている。
昨夜のあの動きからもわかる、無駄な肉をいっさいそぎ落とした長い手足。今はおっとりと座しているが、すくっと立ち上がり駆け出したなら、そのまま千里を駆け抜けていきそうな──。
男だ。
そう、まとう衣は姫君でありながら、立ち上がれば貴仁とそう背丈は変わらぬだろう。どこからどう見ても、それは男の身体つきであった。
しかし、その男は、ため息をつくほど美しかった。濡れたような黒髪に縁取られた白い横顔、通った鼻筋はどこから見ても完璧で、内着の袖からのぞく、すらりと長い指先にいたるまで、どこもかしこも完璧な曲線を描いている。
昨夜、闇を裂くように動いた白い手と同じ、しなやかな強さをはらんだ指であった。
あまりに貴仁がじっと見つめているので、不思議に思ったのだろう、くるりとこちらを向いた顔は、己よりすこし年上だろうに、どこかあどけなさの残る表情であった。
男ではあるが、その柔和で優しい顔立ちは、宮中にあがることがあれば、女共のあこがれの的となったに違いない。美しいには美しいが、どこか先鋭的で「畏れおおくて……」とさえ噂される貴仁の顔とは対照的な、誰もが夢見る理想の貴公子の面差しである。
長く黒いまつげに縁取られた黒目がちの瞳。その目尻がすこし下がりがちなのが、また愛らしい。半開きの、吸い付きたくなるような少しぽってりとした桜色の唇が、その顔に幼さと艶めきを同時に添えていた。
貴仁は、するりと御帳台の中へと身を滑り込ませた。「あ!」と少女、あこぎが声を上げる間もなく、中の"姫宮"はとっさに扇をかざして顔を隠す。その所作も、なよやかな姫君そのもの。優美でたおやかである。
──だが、貴仁の視線は扇の陰の顔ではなく、その少し上、頭の上にある"耳"に向けられていた。
「これはこれは、大神の姫に出会うとは思いませんでしたな」
頭上に覗くのは、黒く艶やかな毛並みに覆われた尖った耳──狼、いや、大神の"耳"であった。
「なぜ……」
桜色の唇からこぼれた声は、貴仁よりは高いが、やはり男の声色であった。力の抜けた指から、ぽとりと扇が床に落ちる。
見開かれた瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。まろやかな白い頬を伝うその一粒一粒は、水晶の珠のように美しく、いじらしく、いと哀れである。
「姫……?」
貴仁は、柄にもなく狼狽えた。いや、人生でこれほど慌てたことは、これまで一度としてなかっただろう。
幼き頃より、なにが起ころうともすべて予想のうち、周りの大人の慌てふためく様を、表情一つ変えず冷ややかに眺めていた子供であり、今もまた「たいくつだ」と、二十年あまりの人生に飽きている風を装っていた男が──
目の前の美しい姫(男)の涙に動揺している。思わず伸ばした手を避けるように、その身体は、ふわり……と浮き上がるように後ろへ下がった。
「このような、あさましい姿を見られては……もう、ここにはいられませぬ」
泣き濡れた瞳に、震える声。なにより、しおしおと頭の上の耳がぺたりと倒れるさまが、なんとも愛らしく、思わず撫でたくなる。
だが、貴仁が再び手を伸ばそうとした瞬間。御帳台を飛び出し、廂から簀の子をひと跳びに越える。葎の庭を駆け抜け、崩れた築地塀を飛び越えた。
とても、裾を引く袿に長袴の身のこなしとは思えない。それでいて、宙を飛ぶようなその姿には、姫君の所作そのままの優美さが宿っていた。
その逃げゆく後ろ姿すら、貴仁の胸に妙な余韻を残す。
──と、見とれている場合ではない。
築地塀の向こうへと消えたその姿を追い、貴仁もまた片膝をついた体勢から御帳台の外へと跳び出た。そのまま一気に庭へ飛び降り、さらにひと跳びで崩れかけた築地塀を越えていく。
「あ! 宮様ぁ! え!? あ!?」
戸惑いの声をあげるあこぎのそばへ、惟光が歩み寄る。
「大丈夫、大丈夫。うちの殿が、あの姫様を逃がすはずがない。……こちらで、落ち着いて待っておいで」
その声音には、主人の狩りを面白がる狐のような響きが混じっていた。




