第三章 葎屋敷(前編)
「紅花姫の葎御殿?」
翌朝の三条の御所。朝食の粥を口にしながら、貴仁は惟光に聞き返した。
「はい。別名、六条のバケモノ屋敷と」
「そちらも、相当な呼び名だな」
屋敷が荒れ果てるたとえに、「屋根に葎が生える」という言い方がある。葎という蔓草があるのだが、今では生い茂って手入れされていない藪の総称ともなっていた。
おおよそ、家人も少なく、まったく庭が手入れされておらず、藪だらけとなったのだろう。そんな屋敷を「御殿」と呼ぶあたりが、なんとも皮肉である。
しかし。
「そこに紅花姫がいると?」
昨日、夜歩きに出る前に耳にした惟光の軽口を、貴仁は忘れていなかった。
そんな荒れた屋敷に噂の美姫がいるとは、なんともちぐはぐだと思ったが、惟光はとたん吹き出して。
「いや、それが赤いおはなの……末摘花のことにございますよ」
「…………」
貴仁はなんともいえない顔となる。
末摘花とは源氏物語に出てくる姫君の名だ。源氏に出てくる女性はいずれも趣ある方々ばかりだ、この姫はとびきりに趣味が深いと言えるだろう。その描写ひとつにしても、鼻が長くその先が紅花の様に赤いと。
つまり、ありきたりの輝くような美人ではない。──いや、ここははっきり言おう。不美人であると。
紅花は末摘花の別名である。
その葎御殿こそが、昨日の少女を惟光の手下である管狐達が追いかけて行き着いた先なのだという。
「中は?」
貴仁は末摘花の話を、いったん脇へ置いた。
その姫の姿を見たのか? と問いかけると惟光が渋い顔つきをした。
「それが、築地塀は崩れていて、草ぼうぼうの庭までは見られたというのですが」
「ならば、入り放題ではないか」
塀が崩れているなら、門さえも傾いていそうだ。ならば野良犬やたぬきも入り浸り、狐が忍び込むことなど造作もあるまい。
「それが、一歩も中に入ることが出来なかったそうでして。屋敷の中をうかがうことも叶わなかったと」
「お前の狐が?」
「はい。――一歩も、です」
「…………」
惟光の使い魔である管狐は優秀だ。宮中でもどこでも入り放題──さすがに清水寺の御堂で遊ぶなよ、と申しつけてはあるが。
よほど強力な陰陽師の結界が張られているのか──貴仁は粥椀のふちを指先でなぞりながら、静かに思いを巡らせた。
「入れぬというより……畏れ多くて、近寄れぬと」
「畏れる?」
「はい。――殿に対するときのように」
「…………」
「姫君はどんな素性なのだ?」と貴仁は問うた。
「お暮らしになっているのは、六辻宮様と呼ばれた父宮も母宮も亡くされた姫がお一人」
「父は先々帝の孫であり、母もまたその孫同士のいとこ腹の結婚ゆえ、正しき皇の血筋の姫にござります」と惟光が続ける。
とはいえ、後ろ盾たる父と母を亡くせば、零落した家の娘というのは哀れなものだ。
家人も一人二人と離れ、または齢を重ねて亡くなり、今は仕えているのが、昨夜出会ったあの童女一人だという。
「しかし、そのやんごとなきお血筋の姫君が、そんな葎屋敷暮らし。そのうえに浮かれ公子に垣間見られて、末摘花もかくやの醜女だという噂を流されるなど、お気の毒で」
惟光の口調は半分は同情、半分はどこか面白がっているようだ。悪趣味だが所詮は人ごとの噂話だ。
「その語りはちぐはぐもいいところだぞ、惟光」
普段なら浮かれ狐が耳にいれる流言など、貴仁は放置しておく。が、主人が口を開いたことに、惟光は今は隠している見えない耳をピンと、これも見えない三本の尻尾を立てて、緊張を見せた。
「お前の管狐が屋敷の中に入れないのに、その浮かれ男が垣間見などなぜ出来た?」
「は、はあ、たしかにそうですな。これはうっかりだ!」
惟光ははたと気付いたとばかりに、己の額を己の手でぺしんと軽く叩く。
内裏さえ入りこむ惟光の管狐が入れなかった、葎屋敷。"ただの人間"がそこに暮らす姫君の姿をなぜ垣間見など出来たのか?
――見せたのだ。わざと、こちらに。
果たして、姫君は噂通りの赤いおはななのか?
「今宵も出るぞ」
貴仁が告げる。
「紅花姫の葎屋敷にございますね」
「六条の宮のお住まいのところだ」
貴仁は言い直した。
その姫が噂どおりの末摘花であるかどうかなど、興味はない。
ただ、昨夜、闇の中で刃を交えたあの気配。
邪ではなく、どこか薫風さえ感じさせる。
それを確かめねばならなかった。




