第二章 退屈上皇
「つまらん……」
三条院の昼の御座所。貴仁は蝙蝠扇を手慰みに、半ば開いては閉じ、ぽつりとこぼした。
このため息混じりの一言は、近ごろの三条院における日常の一幕と化していた。
あぐらをくずし、脇息にもたれかかり、白に新緑の卯花の合わせの狩衣の前を少し開いた、いささかしどけない姿。その男ぶりに、行き交う女房達もちらりちらりとこちらを盗み見ていた。
「また、殿の"退屈"が始まりましたな」
傍らに控える一の従者たる惟光が、謳うような調子で言う。
「ならば、暇つぶしにでも、大臣達にお会いになればよろしいものを」
「あんなものと話す時間など、余計に退屈が増すばかりだ」
参内の前に、まず三条院へ。大臣から三位以上の上達部まで、日も昇らぬうちに詰めかけるのが常になって久しい。
たいがいは、「院は誰ともお会いになりませぬ」との惟光の言葉ひとつで、皆すごすごと帰っていくのだが。
しかし、たまの呼び出しで、双方のいがみ合いや利権争いなど、そもそも解決の糸口すら見えぬ政の行き詰まりが、院のひと言の"助言"であっさりとほどけてしまうこともある。ゆえに、皆、この日参をやめられぬ状態なのだ。
「"天声"と方々、おっしゃられているようで」
――惟光が、からかうように目を細める。
「よしてくれ。それで毎朝、高く鳴く鶏のごとく頼られては、うるさいだけだ」
天声とは天の声、すなわち神の声のごときもの。この院を、大臣達以下がそれほどまでに畏れているということだ。
「たしかに、たまにゴロゴロ鳴るくらいが、ちょうどよいので」
惟光が肩をすくめた。
――天声。雷鳴の別名でもある。落ちてくるのが怖いのは、厳しい言葉より雷のほうだ。
「俺は、雷神か何かか?」
ニタリと笑う惟光を、貴仁はじとりとにらむ。惟光は「お~こわや、こわや、おそれ入りました」と、ちっとも怖がっていない調子で飛び退き、芝居がかった所作でひれ伏した。
「さて、天からの雷よりも、地から伸びる亡者の手のほうが、よほど皆様おそろしいでしょう。望月の入道方のように地獄を見たくなければ、なおさらですな」
「…………」
二条藤家の三大臣が失脚した事件は、望月の変と呼ばれている。満月のような禿頭が三つ並んだ――その噂から、彼らは「望月の入道方」と囁かれるようになった。めでたいのか不吉なのか、判然としない名で。
そして、三人が三人とも「地獄を見た」と周囲に漏らした。あれこそが真の阿鼻叫喚の黄泉の国であったのだと、震える声で語ったのである。
それまで権勢欲の固まりであった三大臣はいまや俗世を見向きもせず、念仏三昧の日々を送っている。二条藤家の没落ぶりといい、あれを目の当たりにすれば、誰しも同じ道はたどりたくないと思うだろう。
三条院の名と望月の変の噂は、今や都の子どもでさえ知る"こわい話"として、夜な夜な語り継がれていた。
退位して上皇となった貴仁に、誰もが腫れ物に触れるようにおずおずと接するのも、当然のことであった。──まあ、例外も、いるにはいるが。
貴仁が、閉じた扇の先を目の前で平伏する、惟光へついと動かす。気を軽く放つ。
「イテッ!」
そのとたん、もんどりうって身体が後ろへと転がる。
「酷いですぞ、殿」
惟光はぼやきながらすぐに起き上がる。曲がった烏帽子を直すその頭からは、狐の耳がのぞいていた。顔にはひげまで生えている。それを頭と顔を撫でるしぐさひとつで、たちまち"どろん"とばかりに隠してしまう。
通り掛かった女房の左近、右近の君が、「惟光殿も懲りないこと」とコロコロ笑いながら去っていく。双子の女房の、ゆらりと揺れた裳裾の影からは、二股に分かれた猫又の尻尾が、それぞれひょいと顔を出していた。
三条院の日常は、このように人と物の怪とが入り混じる、奇妙にゆらゆらとした空気に満ちていた。
「さて、日も暮れる。そろそろ出るか」
退屈な昼間は終わったとばかりに貴仁が立ち上がると、「どちらへ」と惟光がうかがう。
「今宵は新月。気の向くままに、そぞろ歩くだけだ。そうだな、六条のあたりまで」
「おや、殿も紅花姫にご興味が?」
『姫』という響きに、貴仁は軽い嫌悪の表情を浮かべる。
「妻問いなどめんどくさい」
「そのお歳で姫君に興味を失うとは、頭をお丸めになってもいないのに」
惟光は嘆かわしいとばかりに、大げさに空を仰ぐ。
妻問い――夜に女性を訪う。つまりは夜這いだ。夜な夜な、まめまめしくあちらの姫、こちらの女の元へと通うのが、当世風の貴公子とされている。
六条のあたりにその浮かれ貴族共のあいだで話題の『紅花姫』とやらがいるのだろうと、貴仁は思った。
「六条のあたりに匂うのは、姫君の黒髪に焚きしめられた香ではなく、血の匂いよ」
「おやおや、物騒なことで」と惟光はこれまた大げさに肩をすくめる。これ以上、この道化の相手も飽きたとばかり、貴仁は無視して御座所を出る。
まったく気にせず、道化の従者はあとに続いた。
「この惟光は、どこまでもお供いたしますぞ」
一の従者はうやうやしくそう言ったのだった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
あこぎは新月の夜の都を早足で駆けていた。
月の無い闇はひときわ深く、家々から漏れる明かりだけが、糸のように細く道を照らしている。
昼間ならば大路でなくとも、ちらほら人影のある道が、今は誰一人歩いていない。きっと助けを呼んだところで、皆、家の内に引っ込み、様子を見に出てきもしないだろう。
建物の内で息をひそめる人々の気配が、かえってこの都の夜の冷たさを、いっそう際立たせていた。
すっかり遅くなってしまった。本当は日が暮れる前に、姫宮様の待つお屋敷へ帰るつもりだったのに、人手が足りないと、出稼ぎに出た大納言家の用事が立て込んでしまい、こんな有様である。
当分の米と塩は手に入った。庭の野草と炊き込めば、姫宮様に温かい粥を差し上げられる。――だから、急ぐ。
恐怖よりも、姫宮様に温かいものを食べさせたいという一心が、細い足を前へ前へと押し出していたのである。
だから、忘れていたのだ。「今夜は六条の河原の辻には近づいてはいけないよ」との、己の主人の言葉を。それが一番の近道であったがゆえに。
ぬうっと闇からあらわれた影に、少女はその場に立ち尽くした。
闇の中で、赤いものが二つ光った。――目だ。
その下の闇が裂け、真っ赤な口と、ぎざぎざの歯が覗いた。
逃げなければと思うのに、足が動かない。人のものではない丸太のような太さの腕と、大きなかぎ爪の生えた手が、少女の怯えた顔へと近づいてくる。
が、それは少女に触れる前に止まった。横から伸びた"白い手"が、闇の腕を掴んで止めた。光を帯びて浮かぶほど白い指が、ひと握りで"それ"の力を奪っていく。
骨の折れるような鈍い音がして、闇の腕は白い指の一握りで力を失い、だらりと崩れ落ちた。バケモノはそれでもあきらめず、今度はその口をぐわりと開く。大きな頭が半分に割れて見えるほどの大口で、こちらを丸ごとのみ込もうとした。
が、それも白い手が大きな頭をわしづかみにした瞬間、ぐにゃりと横へねじられる。骨のきしむような音とともに、バケモノの首は奇妙な角度に折れ曲がり、どさりと地面に倒れ伏した。
あこぎは、己をかばうように前に立つ、すすけた袿を頭からすっぽりとかぶった背に声をかけようとした。だが、新月の影に塗り潰されたその姿が、ふいにとん、と軽く彼女の身体を押した。
「え?」
次の瞬間、二人のあいだに白刃の閃光が走る。狙われたのはあこぎではなく、もう一つの袿の影であった。
「俺の一の太刀を避けるか」
低い美声が闇に落ちた。狩衣の背の高い男が、太刀を構えている。切っ先が向く先は、あこぎではない。――頭から袿を被った"白い手の主"だ。
それを一つ、二つとうち払ったのは、白い手に握られた袙扇であった。
「この刃を扇で……ああ、違うか。風使いときたか」
男が、わずかに感嘆をにじませてつぶやく。
あこぎには見えなかったが、扇の周りには見えない風が渦を巻いていた。
この状況をなんとかしなければ、あの方がこの武者に斬られてしまう。あこぎの小さな頭はその考えで一杯だった。
「違うのです! その方は、このあこぎを助けてくださいました! ここに倒れている、このバケモノから!」
「は?」
男の動きがぴたりと止まる。
狩衣の男の動きが止まると、袿姿の影は扇をかざして、ごう……と風を起こした。突然の突風に、狩衣の袖がはためき、あこぎもまた思わず肩をすくめる。
同時に、頭から袿をかぶったその姿は、ふわりと宙へ舞い上がった。長袴の裾をひらひらとさせながら近くの築地塀の上に軽々とおどり、さらには天女のごとく舞い上がって寝殿造りの屋根を飛び越え、その向こうへと消えていく。
「あの袿装束で、あれだけ動くとは……」
妙に感嘆したような男の声が漏れる。
男の言葉に被せるように、あこぎは「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
「危ないところを、お助けいただきました」
「いや、助けたのは、今、去っていった者だろう?」
たしかにそのとおりではあるが、あこぎの頭の中には、今この場を立ち去って、あの方のあとを追いかけることしか浮かんでいなかった。
「急いでいますので、これで!」
ぺこりともう一度頭を下げるなり、あこぎは「おい」と呼び止める声を無視して、その場から駆け出した。
胸の鼓動が早鐘のように鳴り続ける中、あこぎは一刻も早くこの場から遠ざかろうと、必死に足を動かした。
それを呆然と見送っていた狩衣の男──貴仁は、「惟光」と名を呼んだ。「は、こちらに」と、一の従者はたちどころに傍らに片膝をつく。
「すでに管狐に、あの娘のあとを追わせております」
管狐とは惟光の使い魔である。なにも言わずとも主人の意をくみ取る、なかなかに出来の良い従僕と言えた。貴仁が横目でちらりと見れば、惟光はニヤリと笑う。その顔は少々小ずるいが、狐とはだいたいこういうものだ。
そして、貴仁は足下に転がるバケモノに目を落とす。名も持たぬ、それはこの都の闇が固まり育った、鬼のなり損ないであった。
「その首を一撃で折るか」
まだ形を保っている闇の巨躯に太刀を静かに突き立てると、それは煙のごとくほどけ、霧散して消え失せた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「強くて怖かったな……」
真っ暗な屋敷に戻るなり、薫は座敷の真ん中にぺたりとへたり込んだ。
さきほどまで張り詰めていた神経がふっとゆるみ、全身から力が抜けていく。
決して外に出てはならないという父宮と母上の禁を破ったのは、あこぎが危なかったからだ。
このよく聞こえる耳は、遠くから駆けてくる少女の聞き慣れた足音と、そしてそれを待ち構える闇の気配を、確かにとらえていたのだ。
危ない──そう思うより早く、身体が自然に動いた。肩にかけていた袿を頭からかぶって顔を隠し、葎の生い茂る庭を一気に駆け抜け、崩れた築地塀を跳び越え、闇に紛れて駆けだしていた。
間一髪であこぎを救うことは出来たものの、予想外だったのは、あの太刀の男である。なんとかしのぎ切ったが、あれは──。
黒い瞳が、一瞬、金色へと変わって見えた。あのまま、あの目に射抜かれていたなら――。
「鬼神……」
薫はかすれた声で呟いた。
ぶるりと背筋が震える。そのとき、小さな足音が駆けてくる気配がして、薫は袿の袖をひるがえし、ぽう、ぽう、ぽう……と蛍火を起こした。己は闇の中でも目が見えるが、あの幼い童女は慣れているとはいえ、真っ暗な中では痛んだ床につまずくこともある。
「宮様!」
飛び込んできた少女は、床に座る薫のもとへ膝立ちでにじり寄ってくる。「もっと近くに」と呼び寄せ、うなだれたその頭を撫でてやり、涙に濡れた額髪をそっとかき分けた。
蛍火に照らされ、頬を涙で濡らしたあこぎは、「申し訳ありません」と震える声で謝った。
「宮様に、六条の辻には近寄ってはならぬと仰せつかっていたのに……」
「うん。あこぎが無事でよかった」
その言葉どおり、言いつけを破られた怒りなど、薫には微塵もなかった。ただただ、少女が生きて帰ってきたことへの安堵のほうがはるかに大きかった。
「頂いたお守りも、こんなことに……」
彼女が、いささかくたびれてくたりとした汗衫のふところから取り出したのは、黒く焦げ、ぼろぼろになった一枚のお札であった。薫がてづから作り、持たせたものだ。
「また書けばよい。それがそうなったのは、ちゃんと役に立った証だから」
「お優しい宮様……あこぎは一生、姫宮様に御仕え申し上げます」
泣きじゃくる少女の頭に、薫は白い手をそっと伸ばして撫でた。




