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第十二章 動乱の予兆(前編)




 中納言は久々に内裏に出仕した。娘の内侍(ないしのかみ)のこともあり、あちらこちらで殿上人がこちらを見て、さざやきあっているが耐えねばならぬ。


 同情と嘲りが入り混じる視線の痛さが、胸の奥にじりじりと広がる。


 娘の内侍(ないしのかみ)は里である実家の屋敷から、宇治にある別邸にほとぼりがさめるまで移らせた。加持祈祷を三日三晩した末に、なんとか正気に戻ったが、出仕などもう出来ないだろう。


 出来れば誰か良縁を……と思うが、さて内裏にてあられもない姿を目撃された娘の婿になってくれる奇特な公達などいるのか? 正気に戻り世を(はかな)んで(あま)になると、繰り返し訴える娘をなんとかなだめたが……このまま誰も相手がいなければ、いつまでも独り身も外聞が悪いから、本当に尼にするしかないのかもしれない。


 世間体と娘の将来を天秤にかけざるを得ない我が身の情けなさよ。


「中納言殿」


 六位の蔵人(くらうど)に声をかけられる。蔵人とは女官である内侍(ないしのかみ)と同じく、帝の身の回りのことや、御政務の雑務のあれこれを整える秘書役であり、将来有望な公達がなる。


 これも二条藤家(にじょうとうけ)の時代はその縁故で固められていたが、今は三条院のご意向によって、家柄や身分の関係なく、有能な若者達で固められていた。


「こちらへ」


 先に立って歩き出す。六位ふぜいが、三位の自分を理由も告げずに呼び出すなどと、二条藤家の世なら言えただろうが、いまは三条院のご意向が色濃く内裏にある御代だ。


 呼び出された瞬間、背筋に冷えた汗が伝う。誰に会うのかは分かっている。逃げ場などない。


 帝の官吏がなにも言わずに案内するということは、この先には待つ方が誰なのかわかって、今すぐにでも逃げ出したいと思いながらも、中納言はついていくしかなかった。


 案内されたのは桐壺ではなく、仁寿殿(じじゅうでん)長局(ながつぼね)。宮中の行事のときのみに使われる建物であり、通常はあまり人気(ひとけ)もない。


 静まり返った広間――呼び出し場所としてはあまりに不気味だ。


 そこに入れば、はたして畳を二枚重ねした上に座していた方は予想通りの三条院……貴仁その人で、中納言にもまた、相対するように畳一枚の座があったが、あえてそこにつくことなく、その後ろの板敷きの床に膝をついた。少しでもこの方から遠ざかっていたいという畏怖からだ。


「久しいな、中納言。管弦の宴以来か?」


「は、はい。三条院様におかれては、つつがないご様子でなによりでございます」


 今日、久々の参内であるが、その前の殿上人達の日課となっている、早朝の三条院参りには中納言は行っていない。おそらく今日も、あの惟光とかいう五位の従者の「今日は院はどなたともお会いになりません」の言葉に大臣以下、すごすごとそのまま内裏に出仕したに違いないが。


 そこで自分だけが呼び出される肝が冷えるようなことは避けたいと逃げた結果が、この内裏にてその恐ろしいお方が待っていたというわけだ。


「中納言の内侍(ないしのかみ)の様子はどうだ?」


「は、はあ、三日三晩の加持祈祷(かじきとう)の末になんとか物の怪は退散し、今は宇治の別宅にて静養をしております」


 "娘のことを問われる"だけで胃が縮む。あの夜の惨劇が頭の奥で蘇る。


 あの夜、桐壺にある院の寝所に娘は忍びこんで、あの大事件となったのだ。娘はうわごとのように「三条院様は鬼じゃ、わたくしは鬼に会った!」ととんでもないことを叫んでいたが、()きものが落ちた今でも、院のお話をちらりとでもにしただけでも、ガタガタと震える有様だ。


「見舞いだ」


 普通の貴族のやりとりならば、ここでさらにぐだぐだと遠回しな挨拶がだらだら続くのだが、この三条院はそういうことを、帝の時代から好まなかった。面倒くさいとばかり本人が切り上げる。


 そして、貴仁の言葉ともに、後ろに控えていた女房が差し出したのは、漆塗りの底の浅い大きな盆の上に置かれた、見事な女房装束一式だ。その重ねの色合いは、あの夜に自分の娘である内侍(ないしのかみ)が着ていたものとそっくり同じものだとは、このときの中納言は知るよしもなかった。


「我が手で引き裂いた衣の……詫びというのもおかしいな。なにしろ、一服盛られたのはこちらだ」


 視線をすい……とそらし「お見舞いかたじけなく思いますが、なんのことやら」と震えながらとぼけたのは、それでも中納言までなった男だ。それぐらいの腹芸が出来なければ、この宮中では生き残れないが。


「さて、衣だけでよかったな。毒が回りきっていたならば、娘の身体も形も留めぬほど無残な姿になっていたところだった」


「ヒッ!」


 その衝撃的な言葉に中納言がはじかれたように顔をあげれば、そこには金色の瞳が二つ輝いていた。とたん呆けたような顔となる。


 視線がぶつかった瞬間、思考が凍りつき、世界がすっと遠のく。


「答えよ、誰にあの酒に混ぜたものと、香を用意させた?」


「……北辰(ほくしん)、北辰という旅の僧侶にございます。ふらりと我が家にやってきてはしばらく滞在して、また何処かに」


「今もいるのか?」


「いえ、あの夜に煙のように姿を消して以来……」


 貴仁の問いに中納言はつらつらと答える。それに貴仁は「()れ」とひと言、なにかに操られるように立ち上がる中納言に、衣をもってきた女房……右近が、彼の手に盆ごと唐衣を押しつけて、それを抱えた男はそのまま出ていく。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


 長局の外へと出て、建物に高欄がめぐらされた簀をしばらく歩き、清涼殿へ向かう渡殿(わたどの)で、中納言は我に返った。目をしばたかせ、たしかに三条院には会ったが、娘の内侍(ないしのかみ)のことを気遣われ、こうして見舞いの品まで頂いたと……貴仁の金の瞳を見てからの記憶は、彼のなかからすっぽり抜け落ちていた。


 "思い出せない"という恐怖だけが、喉の奥に刺のように残る。


 とにかく、あの管弦の夜に院へとしかけたことは、成功もしなかったが、失態を追及されることもなかったと、中納言は思い込んだ。


 さらには院からの賜りものまで頂いたと、お前のことを気遣われているのだと、うかつに内侍(ないしのかみ)の娘に見せた。


 それが、あの管弦の夜に桐壺は三条院の寝所へと忍びこんだ。その時に自分が着ていた十二単の合わせにそっくりそのままだと気付いた彼女は、真っ青になって悲鳴をあげた。


 娘の悲鳴に、父娘そろって背筋が凍りつく。これが"忌まわしい夜の記憶"の確かな証拠。


 泣き叫ぶ娘に、中納言は青ざめ震えることしか出来なかった。







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