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第十一章 鬼哭の刻(後編)




 三条院に着くなり、貴仁は気をうしなった薫を奥の御帳台へと抱え入れる。命じずとも左近と右近が湯に白布を持って来た。


「あこぎは?」


「局に眠らせております」


 左近が応える。主人を案じる女童(めのわらわ)に、術で眠りに誘ったのだろうが、今はそのほうがいい。


 薫を何よりも第一に案じる彼女に、ことさら隠し立てをするつもりはない。己の所業をどれほど非難されようとも、貴仁は甘んじて受けとめる覚悟でいた。


 だが同時に、薫があの女童(めのわらわ)をどれほど大切にしているかも、よく知っている。主人の無惨(むざん)な姿を、たとえ一瞬でも目に触れさせてしまえば、幼い心に深い傷を残しかねない。


 実際のところ、薫の有様は目を覆いたくなるほどだった。首には締め上げられた(あと)がくっきりと残り、肩には噛みつかれた牙の跡が生々しい。その肩から下もまた、言うまでもなく。


 貴仁は、己が手ずから刻みつけたその痕跡に、吐き気にも似た激しい自己嫌悪を覚えた。それでも、そこから目をそらすことだけは、自らに許さなかった。


 やがて左近と右近が湯を運び入れ、薫の身体をぬぐおうとしたが、貴仁は先に布を取って「こちらは俺がやる」と静かに告げ、汚れた下肢をそっとぬぐった。白い布地に、いまだ止まりきらぬ血の赤がじわりと滲み広がってゆく。


薬師(くすし)をお呼びいたしましょうか」と申し出た右近に、貴仁は小さく首を振った。


「薫は俺と同じだ。この地上にある毒も薬も、その身には届かぬ」


 手当てといっても意味はうすい。せいぜい清潔な布を当てて取り替えてやることくらい――と、貴仁は続けて答え、そこでふうと深いため息を一つこぼした。


 こんなときばかりは、自分にも癒やしの力があればと、ありえぬ願いを抱かずにはいられない。


 鬼としてのこの身を、心の底から忌まわしいと思ったのは、これが初めてだった。


 かつて六条の河原の刑場で亡者どもと渡り合い、蠱毒のトカゲを握りつぶした折には、貴仁自身、その手に爛れるようなひどい火傷を負ったことがある。


 その程度の傷なら、一晩も放っておけばたちまち癒える。だがあのときは、薫が一瞬にして痛みも痕も消し去ってくれた。大神たる癒やしの風の力ゆえだ。


 今回、自分が鬼を狂わす毒の底から、こうして正気へと引き戻されたのも、薫がその全身を賭して癒してくれたからに違いない。


『よろしいのですよ、いくらでも受けとめます――』


 あのときの、柔らかく包み込むような声の余韻が、いまだ耳の奥に残って離れない。


 やがて薫の身体は湯で綺麗に清められ、真っ白な衣に包まれて、静かに床に横たわった。その姿を前にして、貴仁はたまらず片手で顔を覆う。


 鬼神である自分には、癒やしの力など与えられていない。己の身体の傷など、放っておいても勝手に癒え、この身には一つの(あと)すら残らないというのに。


 薫もまた同じだろう。きっと一日も眠れば、肉体の傷はすっかり癒えるに違いない。それでも、今こうしてこんこんと眠る彼の胸の内に残っているであろう痛みだけは、どうにかして取り除いてやりたいと願わずにはいられない。


『お痛いものは、お痛いでしょう?』


――あのときの薫の言葉がよみがえる。ああ、痛い。今、焼けるように痛むのは己の胸だ。薫が苦しんでいることも、自分がその苦しみの原因であることも、すべてが痛い。


 それでも、薫を遠ざけるという選択肢は、貴仁の中に一度として浮かばなかった。ただ、この罪すべてを抱えたまま、それでもこの月の傍らに在り続けると――覚悟とも、願望ともつかぬ決意だけが、胸の底に静かに根を下ろしていた。


 この人の世に生まれてから、出来ぬことなどなにもない――ずっとそう思い込んでいた。半分人としての定命(じょうみょう)が尽きるまでの、退屈しのぎの暇つぶしにすぎぬと、魔を狩り続けてきた。


 それが今は、なにも出来ぬ。ただこうして、薫が目を覚ますのを待つことしか許されていない。


「そのお姿のままでは……どうかお身をお清めくださいませ」


 左近と右近に促され、そこでようやく、自分自身も泥にまみれた惨憺たる有様であることに気づく。湯を浴びて身を清め、衣を整えると、貴仁はすぐさま薫の眠る御帳台へと戻っていった。


 そして、その傍らに身を横たえることもなく、ただまんじりともせず座り続けたまま、一日が静かに過ぎていった。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


 薫が目を覚ましたのは、丸一日が過ぎたころのことだった。


 まどろみの底からふと浮かび上がるように瞼を開け、傍らに座る貴仁の姿を認めて。


「……おはようございます」


 いつも通りの声を、薫は作った。作れてしまうことが、少しだけ怖かった。


「ああ、おはよう」


 貴仁の返事は、どこか遅れた。手が、薫の背に触れ――触れた途端に、びくりと止まる。


「……すまなかった」


 絞り出すような謝罪に、薫はきょとんと目を丸くした。


 そして身体を起こしかけ――奥のほうで鈍い痛みが走り、息が一瞬だけ途切れる。


 けれど薫は、笑った。


「貴仁様?」


 その声が揺れなかったことに、貴仁の顔がさらに歪む。


 薫は悟った。


 痛いのは自分ではなく、この方の胸なのだ、と。


 やがて薫は、そっと腹に手を当て、どこか気恥ずかしそうに頬を染めて口を開いた。


「すぐに用意させよう」


 回復しはじめた身体が、ようやく食を求めているのだろう。実際、薫の首筋に刻まれていた、あれほどくっきりした締め跡は、きれいさっぱり消えていた。


 貴仁が改めて声をかけずとも、御帳台の幕の向こうで、左近がすぐさま食事の手配に立ち上がる気配がした。やがて前の幕が上がり、右近と、その後ろにあこぎが控えて「月宮様、お召し替えを」と恭しくうながす。


 着替えのために几帳を四方に立てめぐらせ、その向こう側で貴仁は静かに待つ。


 その前を、あこぎが通りざま、ちらりと視線を投げた。


 恨めしい――そう言い切るには、目が赤い。


 責めたいのに、月宮を守りたい。その二つが、細い肩の中で喧嘩している。


 仕方のないことだと、貴仁も心の中で苦く笑う。


 薫の着替えが終わり、几帳が取り払われる。菖蒲(しょうぶ)の淡紅と青緑を重ねたあわせも、彼にはよく似合っている。そのゆったりとした所作には、見たところ、なに一つ支障はないように見えたが。


「見たところ、お身体の傷はすっかりお癒えのようでございます」


 右近がそっと耳打ちしてきた言葉に、貴仁は小さくうなずいた。


 目に見える傷が消えていることに、たしかに安堵はする。だがその一方で、貴仁の胸の奥底では、決して消えぬ罪の痛みが、いつまでも鈍く疼き続けていた。


 ほどなくして食事の膳が運びこまれ、二人は向かい合って箸を取った。薫の食は、まだ普段よりは細いものの、それでも思いのほか箸が進んでいるように見える。その様子だけでも、貴仁にとっては大きな安堵となった。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


 そこへ内裏より使いの者がやって来た。貴仁あての今帝の文であり、一昨日の管弦の宴の折に急ぎ席を立ったことを案じた旨が、丁重な筆致でしたためられている。


 桐壺(きりつぼ)での騒動は、すでに殿上人(てんじょうびと)たちのあいだで知らぬ者のない話となっていた。なにしろ、中納言(ちゅうなごん)内侍(ないしのかみ)が、よりにもよって院の御休息所の寝所で衣が切り裂かれた――肌も露わな姿で見つかったのである。


 そののち錯乱した彼女がわめき散らした言葉の数々も、表向きは箝口令(かんこうれい)が敷かれているものの、すでに半ば公然の秘密として、貴仁の耳にまで届いていた。


 本人は半月に一度ほどしか内裏へ足を運ばぬとはいえ、目と耳までも遠ざけているわけではない。惟光の使い魔たる管狐(くだぎつね)どもは有能で、目端も利くのだ。


 中納言の内侍(ないしのかみ)は、その夜のうちに里下がりした実家にて、憑きもの落としの加持祈祷を盛大に受けているという。おそらく再び宮中に出仕することはあるまい。桐壺へ駆けつけた多くの殿上人の前で、普段は御簾の向こうの姫が肌をさらしたのだ。これほどの恥、よほどの厚顔無恥でなければ、もう一度御所の敷居をまたぐことなど出来はしない。


 ただ、彼女が口走った「三条院様は鬼……」という一言だけは、耳に残っている者も多い。その場にいた殿上人たちは、錯乱の果ての戯言と取り合わず、父親たる中納言も、娘にとり憑いた物の怪が勝手に口を動かしたのだと、苦しげな言い訳に終始しているらしい。


 子供の頃から、あまりに抜きんでているがゆえに"鬼子"と呼ばれてきた身だ。今さら一つ二つ、噂が増えたところでどうということもない。噂好きの宮廷雀どもが、好きなようにさえずればよい、と貴仁は高をくくっていた。


――ただ一つ、薫の前でだけは、その呼び名を決して口にさせたくない。


 そんな思いだけが、いつのまにか貴仁の胸に根づいていた。


 ともあれ、あの管弦の夜に、貴仁が何者かに毒を盛られたことだけは疑う余地がない。それも、鬼神の血を引く貴仁にのみ作用する、特別な毒である。


 同じ酒器から酒を回し飲みする作法に、さすがの貴仁も油断していたと言ってよいだろう。いや、酒そのものに仕込まれていたものだけでは、まだ"毒"としては半端だった。ゆえに、貴仁も違和感なく口にしてしまったのだ。


 そこへ、あの内侍(ないしのかみ)がその身に焚きしめていた香が重なったことで、ようやく一つの(しゅ)が完成する。鬼を狂わせるために仕組まれた、入念な罠。


「同じ匂いがしました」


 ふいに横から声が落ちた。薫だ。「匂い?」と聞き返すと、彼は小さくうなずき、


「貴仁様から……いえ、あれは貴仁様ご自身の香ではありません。甘さにまぎれた、いやな匂いでした」


 薫はそう言って、わずかに顔をしかめる。それは、おそらく葦の原で貴仁が襲いかかってきたとき、間近に感じた匂いなのだろう。


「俺が……恐ろしくはないのか?」


 問いかけてから、貴仁は胸の内で舌打ちした。後悔しているのは、自分が薫を傷つけたことなのに、その痛みをさらに抉るようなことを口にしてしまった。


「貴仁様を? どうして、そのように」


 薫は本気で不思議そうに首をかしげる。その言葉も態度も偽りのないものと知れて、貴仁は思わず、その細い身体を抱き寄せた。


 肩に触れた瞬間、薫の身体がかすかに震えたように見えて、貴仁の胸がぎゅっと締めつけられる。だが薫は、すぐにその強張りを解き、自らの重みをすべて預けてきた。


――貴方を信じています。


 そう静かに告げられたような気がした。


「そなたは、強いな」


「強いのは、貴仁様のほうでございましょう?」


 当の本人は自覚もなく、いつもの調子でそう返してくる。その見事な黒髪を、貴仁はいつものようになで、指を絡ませながら、出来ることなら触れたくもない夜のことへ、あえて言葉を向けた。どうしても確かめておきたいことがあった。


「さきほど言った、同じ匂いとは?」


 この大神(おおかみ)は耳も良いが、鼻もまた鋭い。考えてみれば当然のことだが。


「あの蠱毒(こどく)の匂いです。甘い香の匂いにまじって、かすかに……」


 薫の言葉に、貴仁は六条河原の刑場を思い出す。あそこに埋められた蠱毒の(つぼ)が、刑場にとどまる亡者どもを怨霊へと変じさせ、やがて二人が打ち倒した巨大な骸骨の物の怪を作り上げたのだ。


 あのとき蠱毒を仕掛けた術者本人の匂いが、酒と香の奥にかすかに混じっていた――たとえどれほど微弱であろうと、大神の鼻をごまかすことは出来ない。


「つまり、(しゅ)をしかけた者は、あのときと同じ……ということか?」


「はい」


 薫の黒髪を撫でさすりながら、貴仁は思考をめぐらせた。


 あの蠱毒を放置していたなら、六条河原の怨霊はやがて疫病(えきびょう)となって人々を襲ったに違いない。


 同じように、今回の毒も、一歩誤れば今帝の御身すら危うかった。たとえそうならずとも、薫が己を鎮めてくれなかったなら、貴仁は狂える鬼として都を荒らし回り、本物の鬼として追われる身となっていただろう。


 そうなれば今帝は、上皇たる貴仁の庇護(ひご)を失い、あとは権勢欲に目のくらんだ殿上人どもの思うままに操られる傀儡(かいらい)と成り果てる。


 どちらに転んだところで、都どころか、この国そのものが大きく揺らぐことは避けられまい。


「……ひょっとしなくとも、この国そのものの滅びを願っているのかもしれんな」


 貴仁がぽつりとつぶやくと、薫が静かに続けた。


「強い意思と、深い憤怒が、匂いにまじっておりました」


「それが、そなたの感じたかすかな匂いの主というわけか」


 薫がこくりとうなずくのを見て、貴仁は短く息を吐く。


「……やっかいな相手だ」


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


 やがて夜も更け、「そろそろ休むとしよう」と、貴仁が薫のそばを離れようとしたそのとき、白い手がすっと伸びてきて、彼の直衣の片そでをそっとつまんだ。


「薫?」


「ここに……いてくださらないのですか?」


「いいのか?」


「はい。私は、貴仁様と一緒に眠りたいです」


 その一言で、自分がどれほど今宵の闇を恐れていたかを、貴仁は思い知らされる。無垢な望みが差し出されたことで、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけていくのを感じた。


 それは、薫がはじめてと言っていいほど、はっきりと自らの望みを言葉にした一言でもあった。


「ああ……共に、夢をみよう」


 そう応じながら、自分の声が情けなく震えているのを、貴仁ははっきりと感じていた。


 そしてその夜も、二人は肩を寄せ合い、静かに同じ眠りへと落ちていった。






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