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第十一章 鬼哭の刻(前編)



「貴仁様」


 薫は呼びかけた。葦の原に灯りはない。けれど――見えないほうが、よほど残酷だ。


 触れれば斬れそうな横顔。黄金の瞳。息を吸うたび、世界が刃物の匂いに染まる。


 見られているだけで足が竦む。けれど逃げれば、あの手は次に"都"へ向かう。


 半人半鬼神の貴仁は、今はほとんど鬼だった。破壊したい衝動に呑まれ、それでも最後の理性で――血の匂いの濃い内裏から、ここへ自分を追い立ててきた。


 内裏でなにがあったのか、薫は知らない。


 ただ、分かることが一つある。


 この方は、戻れなくなる瞬間を、今、必死に堪えている。


 だから薫は一歩、前へ出た。


 怖いのは、自分が斬られることではない。


 この方が、この方自身を失うことだ。


 あの罪のない漁師の男を殺して、この葦の原を火の海にし……どころか都中がその炎に呑まれたならば、我に返ったときに嘆くのは、厳しくも優しいこの方だ。


 太刀を持たれていなかったのは幸いだったと、次々と叩き込まれる銀色の爪が光る貴仁の攻撃を、手に持つ檜扇(ひおうぎ)で払いながら薫は思う。いや、素手でも結局、威力は同じかもしれない。


 今の彼ならば、その一撃で人の頭など吹き飛ばせる。両手の爪は短いが、先は鋭く尖り、刃のように銀色に光っている。鬼の爪だ。


 だけでなく、壮絶な笑みを浮かべたその唇からのぞく伸びた犬歯も、ぎらりと光をはじいている。その異形の姿に戦慄を覚えながらも、薫はやはり美しいと思ってしまう。この異形に出会ったなら、人は恐怖に射すくめられながら、最後に「美しい」と思ったまま首を飛ばされるに違いない。


 薫は、その美しさの奥に潜む孤独と苦痛を思い、胸が締め付けられた。


 そんなことは、させないけれど。


「つっ!」


 考えに囚われ過ぎていたかもしれない。おのれの横をかすめる鬼の爪から逃れるのが一瞬遅れて、髪の毛がひとすじふたすじ、夜風に飛んでいく。


「あ!」


 それだけでなく、踏み込んだ足に(うちき)の裾を踏まれていた。ぐい、とわしづかみにされた髪を引っぱられ、薫は(あし)の原に押し倒された。


 馬乗りになられて、両手が首にかかる。尖った爪がかすかに皮膚をなぞり、ひりつく痛みと共に息が詰まった。締め上げられて呼吸が細くなる。きっとこの瞬間に、ただ人ならば首をねじ切られていただろう。それでも薫は、自分が潰されることより先に、この方の心が壊れてしまうことを恐れていた。


 自分は大丈夫――この方と同じく、そう簡単には折れない。けれど、このままでは、きっと取り返しがつかなくなる。


「貴仁さ…ま……」


 かすれた声で名を呼び、自分の首を締め上げる彼の腕にそっと手を添える。とん、とん、と、赤子をあやすように優しく叩いた。ふわりと起こした風でその身を包み込み、荒ぶる気をなだめるように、無理やりかき立てられた憤怒の炎を、少しでも鎮めようとする。


 やがて首を締める手から、少しずつ力が抜けてゆき、するりとその指が離れた。薫は大きく息を吸い込み、ゴホゴホと咳き込む。だが、咳をしている暇さえ与えられない。こんどは(ひとえ)の衿元に手がかかり、布地が裂ける嫌な音が闇にひびいた。


 幾重もの衣が紙のように裂け、白い肩口があらわになる。その瞬間、鋭い痛みが走った。牙が皮膚をかすめ、にじんだ血を舌がぬぐう気配がする。胸許に荒い息がかかり、強く吸い寄せられる感覚に、薫は息を震わせたが、そこで意識を手放すまいと、必死に踏みとどまった。


 薫は震える息を整えながら、「これは鬼ではない、貴仁様なのだ」と、反射的に振りほどきたくなる心と身体を押しとどめる。


 そっと手を伸ばし、冠が飛び、乱れた髷だけとなった貴仁の頭を、自分の胸元へと抱き寄せ、子をあやすように撫でさすった。


 理解の外にある行動だった。これではまるで、母の乳を求めてすがる子のようではないか――もっとも、自分からそのようなものが出る道理はないのだが、と場違いな思考がよぎる。そのあいだにも、貴仁の手は長袴へと滑りおりていた。


 それは鬼の力のままに、あっという間に引き裂かれ、はぎ取られていった。冷たい夜気が素肌を撫で、薫は一瞬、身の置きどころのない羞恥に頬を熱くする。


 強い力で地に押し伏せられ、その上から重みが覆いかぶさる。逃げ道のない態勢に追い込まれたことを悟りながらも、薫はきゅっと唇を噛み、貴仁のなすがまま、その身を預けた。


「!」


 全身を貫くような痛みに、喉の奥までこみあげた悲鳴を、薫は両手で口を押さえることでなんとか飲み込んだ。ひたいにも背にも、どっと冷や汗が吹き出す。


 先ほどまでの首を締め上げられた痛みや、肩を噛まれた痺れるような感覚は、まだ「瞬きのあいだの苦痛」としてやり過ごせた。だが、今、襲ってくるものは違う。深いところまで揺さぶられ、身体の奥から世界そのものがきしむような――そんな質の痛みだった。


「う…あ…ぁ……たか…ひ…と……さま……っ!」


 喉をしぼり出すような声は、半ばうめきに近かった。それでも薫は、「ここでこの腕を振りほどけば、この方はさらに深い闇へ堕ちてしまう」と悟っている。滲む涙は痛みだけのものではない。狂気のふちで泣き叫んでいる貴仁の魂が、胸の内側まで突き刺さってくるのだ。


 薫は震える手を伸ばし、なお黄金にぎらつくその双眸を、両の掌でそっと包み込む。荒ぶる光は、少しずつその鋭さを失い、代わりに――なぜ自分がこんなにも憤っているのか、自分でも分からないと訴えるような、悲しげな色を帯びていった。


「よろし…い……のです…よ……いくら…でも……私ならば…うけと…め……」


 続く言葉を、貴仁の唇が噛みつくようにふさぐ。乱暴でありながら、どこかすがるような口づけに変わっていく熱を感じながら、薫の意識は白く滲み、その先の記憶は曖昧にほどけていった。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


 薬を盛られた――そこまでは分かった。


 これは鬼を狂わせるための毒だ。理性を奪い、なにもかも引き裂き、踏みにじらずにいられない。破壊の衝動だけが身体を突き動かす。


 灼けるように熱を帯びていく意識の端で、貴仁はただ一つ、「このまま内裏にいてはならぬ」とだけ考えた。今帝の御身を、この牙にかけるなど、あってはならない。


 左京も、もはや許されぬ。人のいる場所へ踏み込めば、その血を求めて引き裂き、その暮らしの場を踏みにじり、炎で焼き尽くすまで止まれなくなると分かっている。


 ならば――と、なるべく人のいないほうへ、ほうへと駆けた。鬼と化した足は、うち捨てられた都の半身である右京へ、さらに寂しき葦の原へと彼を連れてゆく。


 それでも、身体を灼く熱はおさまらない。のたうつような苦しみのさなか、ふいに白い手が差し伸べられた。女のようにたおやかではない。けれど、まとう風はやわらかく、すべてを包み込むようだった。


 その手にすがりつく。「いくらでも受けとめる」と、たしかにそんな声が聞こえた気がした。


 焼けただれた意識の暗闇のなかで、その声だけが、夜の底に差し込む一条の光のように思えた。


 そして、ようやく頭を覆っていた霧が晴れたとき、貴仁は、自分が組み敷いている存在を見て、はっと目を見開いた。


「薫……?」


 雪のように白いはずの面は、今やそれを通り越して青ざめて見える。汗ばんだ額に黒髪が張りついた姿は、痛々しくも、透き通るように気高く、美しかった。


 その肌の上に残る痕の一つ一つが、自分の手がなにをしてきたかを物語っている――そう悟った瞬間、貴仁の内側を、熱とは別種の冷たいものが駆け抜けた。


 ふいに、閉じられていた瞼がふわりと持ち上がり、薫が濡れた黒い瞳で貴仁を見上げた。金から、いつもの色を取り戻した双眸を確かめるように、じっと。


「お戻りになられて……よかった……」


 か細い安堵の囁きとともに、薫の身体から力が抜け、そのままぐったりと倒れかかる。その身を、貴仁は慌てて受けとめた。己が傷つけた白い身体を抱き寄せ、刻まれた痕を腕の内に隠すようにきつく抱きしめる。


 そして、天を仰ぎ、声にならない咆哮(ほうこう)をあげた。


 涙に変わることのないその慟哭は、鬼の喉からではなく、人としての貴仁の魂の底から絞り出された悲鳴でもあった。


 鬼は泣けない。泣く代わりに吠えることしかできない。


 それでも、ここで膝を折っているわけにはいかぬと、貴仁は自らに言い聞かせる。破いてしまった衣の代わりに、埃と泥で汚れてはいるが、ないよりはましと、自分の着ていた(ほう)を脱いで薫の身体にそっとかけた。


 軽々と横抱きにし、胸元を隠すように布の端を整える。それから一歩、また一歩と走り出す。夜明け前のまだ暗い都を、風そのものとなって駆け抜けた。


◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇


「返されたか……」


 護摩壇の前で、北辰が低くつぶやいた。


 炎の揺れが、その影を舐める。


 影は一度、笑ったように揺れた。


 先ほどまで、そこには異様な黒い炎が立ちのぼっていた。祈りの邪魔になると人払いをしてあるため、その光景を目にした者は彼以外にいない。雑念が交じれば祈祷(きとう)は上手くいかぬと、それを口実にしたのだ。


 だが、その炎は突如、わき起こった薫風にあおられ、音もなく吹き消された。散った火の粉の一部が、北辰の被っていた白い兜巾(ときん)に燃え移る。彼は舌打ちしながら、慌ててその布を頭から引きはがした。


 露わになったのは、ざんばらに切りそろえられた赤い髪である。僧が頭を丸めていないこと自体が異様であるうえ、その常ならぬ髪色を見れば、怪異に敏感な都人なら、ためらいなく「鬼だ」と叫んだことであろう。


「鬼か、鬼だ――あれと我の、いったいどこが違うというのだ?」


 夜深く、人払いをした護摩壇の前にて、その低いつぶやきを耳にする者は誰一人いない。






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