第十章 陰謀の宴
つまらん――と貴仁は胸の内でごちた。
今帝の誘い、薫への二品の祝い。その名目ゆえ、上皇である身とて、少なくとも今帝がいるうちは席を立てぬ。
院の琴を久々にお聞きしたいと今帝に望まれて、貴仁は一つ短いものを奏でる。笛もであるが、琴もまた貴仁はたくみだ。楽だけでなく舞いにしてもだ。
さて、今宵の管弦の宴も、貴仁が短くかき鳴らした琴が頂天であって、あとの楽の音もたしかになかなか聞き所があるものもあったが、うわべだけの才が感じられるという。それだけのものだった。
だが今夜は、音より先に人々のまとう香が鼻についた。甘く、やけに"近い"。
おかしい──とかすかな違和感に貴仁は顔をしかめたが、生来の頑強な身体だ。それを無視した。
今帝がおわす座とて酒も入り、さて、それほど聞き入る楽の音もなれば、自然、皆がざわざわと小声で話し合うような散漫な場となる。
殿上人達はどうせ朝まで。だらだらと宴をするのだろうが貴仁にしても、今帝にしても、それに付き合うほどに浮かれ好きでもない。
私はこれにて皆は楽しむように、という言葉を告げて今帝がおっしゃられたのに、貴仁も続けて「では私がお送りしよう」と立ち上がる。そのとき、くらりと目眩がした。また、なんだ? と思う。
酒に酔ったか? しかし、過ごし過ぎるほどの酒を呑んではいないはずだ。
今帝を清涼殿の夜御殿近くまでお送りし、己は一人で御座所として使っている桐壺へと向かった。
その頃には、じわりと身体の熱があがり、己の身に尋常ではないことが起こっていると分かっていた。
――毒を盛られたか?
いや、それならば己の身に効くことはない。東宮時代、三大臣に附子――トリカブト入りの膳を日々盛られた。が、一度たりとも毒は己の身に届かなかったのだ。
そうなった切っ掛けは、春宮の時代、彼自らが父帝前で舞った、蘭陵王だ。未だに語りぐさになる話だが、その美々しさと勇壮さと、あと他の殿上人の子息達の舞いが、まったく、かすんでしまった。
いずれ帝になる方が、あれほど優れていなくとも……と妙な陰口を常にささやかれ続けた。
二条藤家としては、憎い更衣の御子が春宮であり特別優れていることが、自分の甘やかした息子達の不出来を棚にあげて、さらなる恨みと妬心を煽ったらしい。
毎日しつこく毒を盛られるのを逆手にとって「うまい、うまい」と全部平らげてやった。高価な毒が無駄と思ったのか、それも不気味に思ったのか、さすがに毒入りの膳はぴたりと止んだが。
ならば、これは毒ではない。酒にひどく酔ったような――。鬼とて酒には酔うものなのだ。貴仁は酒に強いが、普通に強い程度であり、過ごし過ぎれば二日酔いにもなる。
しかし、くり返すが酔うほど呑んではいない。そもそも、内裏で酔うまで呑むほど貴仁は馬鹿ではない。酔ったところで後ろから斬りかかられても、それを斬り伏せる自信はあるが、さて、酔いのままに、さらに大暴れして御所崩壊などゴメン願いたいものだ。
これはおかしいと貴仁は、桐壺の整えられている己の寝所へと急ぎ足で入った。横になって休めば、この軽い酩酊は取れるはず。
「三条院様……」
几帳の向こうから現れた十二単の若い女。――中納言の娘、内侍。
「去れ」
その一言が、喉の奥から絞り出された。
女の衣に焚きしめられた香が、熱を煽ったのだ。甘い、甘い、息が詰まるほど。
これはこの晩に特別に使うように女が父、中納言に渡されたもの。そして、そして院の御寝所に忍びこめと。
眩暈が、酔いとは違う。血が沸き、理性の輪が軋む。
「……っ」
貴仁は膝を折り、掌で畳を突いた。
女が「去れなどと冷たいことを、恥を忍んで、おしたい申す院の御寝所にあがりましたのに……」とその身を寄せてくる。朱の唇が笑う。
その瞬間──貴仁の腕が伸びた。
「触れるな!」
手を出したのは"女"ではなく、"香"そのものを遠ざけるためだった。
だが力が強すぎた。重ね衣が裂け、布がはらりと落ちる。女の白い肌が目の端に映る。
そこで、貴仁の全身の血が燃え立った。だが、それは呪いにより強引に引き出されたものだ。
──しまった!
貴仁は視線を逸らす。目を閉じたまぶたの裏に映る清らかな姿を思い浮かべる。それが一筋の蜘蛛の糸のように感じた。
その名を咆哮する。
『薫!』
それは言葉にならず闇空に響いた。
薫の名が、喉の奥で一度だけ燃える。
彼は几帳を蹴倒し、屋根へと跳んでいた。
伝説の鵺のごとき雄叫びに、何事が起こったか? と清涼殿の庭に滝口の武者が集まり、また寝所には宿直の公達達が飛び込む。
そこに衣が切り裂かれて肌も露わな女が呆然としているのを見て、誰もがそれを目にしてはいないと、とっさに顔をそらすが、視界の端で白い肌が揺らめくのを、意図せずとらえてしまう者も当然いる。
女……中納言の内侍は、呆然と床にへたり込んでいた。自分を残し跳んで几帳を蹴倒して庭へと、さらには御所の屋根へと跳んで去ってしまった……あれは。
「三条院様、いや、いや、あれは恐ろしい鬼。院は噂通りの鬼子じゃ」
「なにを言いだす!」と女の回りを囲んだ殿上人が、それでも泣きわめき暴れる彼女を取り押さえ、女官を呼んで彼女の衣を整えよ。このように物の怪に取り憑かれた女を宮中においてはおけぬ。すぐに実家の里に帰さねばと、言い合うのだった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
三条院。
今日は貴仁が御所の管弦の宴へと招かれて、そのまま桐壺の御座所に泊まるとの話で、薫は左近と右近、そして、あこぎを相手に絵巻物を広げて、あれやこれやと語りあっていた。
とくに薫の興味を惹いたのは、とりかえばや。腹違いであるが双子のようにそっくりな、男女の兄弟がお互いの性別をいつわり入れ替わる。
女君は男として出仕し、男君は内侍となって姫の姿で参内までするのだ。
様々な運命の流転の末に、結局、二人はお互いの立場を入れ替えて、元の性別の姿に戻り、めでたしめでたしとなるのだが。
「なぜ、二人は元にもどったのでしょうか」
と、薫は不思議そうに言ったのだ。それにあこぎが「え、でも姫様。このお話の結末では、とても偽りの入れ替えを続けることは出来ません」と言うのにこくりと薫はうなずく。
「話としては、そうしなければならないのはわかります。でも、それでも、もし物語が動くこともなければ、お二人は男と女の姿を入れ違えたままだったのではないかな? と」
「だってそれがお二人にとっては、自然な姿だったのでしょう?」と首を傾ける薫に、左近と右近が顔を見合わせ、小さくうなずき合う。そして右近が、おそるおそる口を開く。
「月宮様は姫のお姿がお嫌ですか?」
それは確認だった。というより、今の今まで、左近も右近も、そして、いまだ気付いていないがあこぎもだが。
姫として育てられた薫は、自分が女であると信じていると思っていたのだ。
だが、それが違うとしたら?
初めから薫が己が何者か知っていたとしたなら。
薫はこてんと反対側首をかしげて「嫌いとか好きとかではなく、私はこのように育てられました。それを別に嫌とは思ったことはありません」と返す。やはり……と左近と右近は、また顔を見合わせ。
「いつから御自覚が?」
今度訊ねたのは左近だ。薫はそれに当然のように「物心つけばわかるでしょう」と。
「だって父上と私は同じ身体なのに、母上も乳母も私を姫らしくと言うのです。私は嫌ではなかったし、そうしなければ、みんな悲しむことになるでしょう?」
そこであこぎがようやく気付いて「あ……」と声をあげる。彼女はぶるぶる震えて。
「な、なのに月宮様はずっとずっと、わたしの前でも姫君としてふるまっていらっしゃったのですか?」
「私は私ですよ」
にこりと薫は微笑む。そして続けて。
「父上と母上の言うとおり、屋敷の奥にいなければならないことも分かっていました。だけど、あの夜、屋敷の外に出たのは……」
やはり、わたしのせいとうつむく、あこぎの頭を薫は白い手を伸ばして撫でる。
「貴仁様に会うため、だったのでしょうね」
つくづくと薫が口にする。あこぎは意外な言葉に顔をあげる。
薫はにこりと笑いかけ――不意に、顔を上げた。頭の上の耳が、左右別々に動く。
胸の奥が、針で突かれたように痛んだ。
「……呼んでいらっしゃる」
「どなたが?」
「貴仁様が」
あこぎの問いに「行ってきます」と薫は、いつものおっとりした姫様ぶりの動きとは裏腹、それこそ風の速さと軽さで、寝殿の外へと白砂の庭をこえて、築山の松の木の上を跳んで、築地塀の向こうへと。
薫の足元には、踏むたびに白砂がふわりと舞い、風の尾のように彼の背になびいていた。まるで"風そのもの"が主の焦りを察し、行く先を押し出すかのように。
それを、あこぎも左近も右近も呆然と見送ってしまったのは。
「あの……私、宮様は三条院様にここに連れて来られたから、そのままいらっしゃると思っていました」
あこぎの言葉では、貴仁が強引に薫をここにさらってきて妻にしたようだが、事実そうであるし妻問いとは元からそういうもの。親や親族、女房が認めた殿方を、姫君は拒めず、そこに姫の好き嫌いの感情など存在しないも同然だ。
そして、光源氏が後の妻となる紫の上を、まだ若紫と呼ばれた少女の頃に連れ去って、己の屋敷に囲い込んだというのも、よくある話でもあるのだ。
力ある男にさらわれてしまって隠されては、そうとう身分ある姫君でも、見つけ出すのは難しいのも、御簾に几帳に囲まれた広い邸宅の奥にいる女の姿を、誰も見られる者はいない。
「でも、宮様はあの通り、抜け出そうと思えばいつでも、このお屋敷を飛び出すことが出来るのですのよね」
「わたくしたちが止める暇もありませんわ。あのお力は殿様と同じ」
左近の言葉に右近が続け、さらにあこぎも交えて三つの顔を見合わせる。もしここに貴仁がいたなら、「月宮様は案外に殿をお好きだった?」などと、ずいぶん失礼なことを言い合っていると苦笑しただろう。だが三人は、次の瞬間にハッ! と気付く。
「月宮様、月宮様が飛び出して行かれて!」
「惟光殿! すぐに管狐にあとを追い掛けさせるのです!」
左近と右近が慌てて声を上げ、あこぎも青ざめてうなずいた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
大内裏の正門である朱雀門から、都の正面の門である羅城門まで貫く朱雀大路。二つに分けられた都のうち、左京は洛陽と呼ばれ、貴族の大きな邸宅が並び栄え、その大路や小路にも桜や柳の木々が植えられて、華やかな都の風情を伝えていた。
たいして右京と呼ばれる地は──土地の大半が低地の湿地帯のうえ、盛んに桂川の氾濫が起こって水害が発生した。
都でありながら、もはや都とも言い難い、廃棄された地と言えるだろう。そこにすまうのは当然、貴族などではなく、華やかな左京から逃げるようにして出た、わびしく草庵暮らしをする出家した世捨て人か、貧しき人々だ。
葦の湿原。夜は人影も薄く、聞こえるのは水と虫の音だけ――そのはずだった。
そこに男がやってきた。夕方にしかけた網を回収するためである。なれ寿司用の小魚が大半だが、鯉やウナギが捕れれば市に出して、それなりの金にはなる。
夜の都は物騒だというが、それは夜盗などが出没する左京の話だ。物の怪は怖いが懐にはお守りもある。本当に恐ろしいのは直接害をなす人間のほうで、こんな葦の沼地には、漁をする自分以外はいまい――男はそう高をくくっていた。
今日もかかっているなと、重い網に手をかけて引きあげようとしたところで、男はなにかの気配に顔をあげ、「ヒッ!」と息をのんだ。
見上げるほどの大きな影に、爛々と光る金色の目が二つ、こちらをじっと見ている。それに見据えられただけで身体は固まり、ぬうっと自分へと伸びてくる手を、男は呆然と眺めた。銀色に光る尖った爪が迫る。
だが、その手は横から伸びた白い手に掴まれ、ぎり、と押しとどめられた。自分をかばうように立つ影の背丈は、金色の瞳の魔物とさほど変わらない。葦の原をざあっとわたる風が、その黒髪と袿の裾をなびかせた。
「なにをしているのです。早く、お逃げなさい」
かけられたのは柔らかくも明朗な男の声だったが、猟師の男はそんなことに構っていられない。「は、はひっ!」と裏返った声を上げ、一目散に逃げて行った。




