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第九章 言祝ぎの御幸(後編)




 任された中納言はといえば、早くも追い詰められていた。これまでも甥として左大臣に取り立てられて、中納言までなったが、切り捨てるときの彼の人の酷薄さも、また良く知っていた。


 しかし、仕掛ける相手が三条院とは、分が悪すぎる。上皇……貴仁の怒りを下手に買えば、かの二条藤家の先の三大臣のごとく、地獄を見た上に髪の毛も冠も官位も失うことになりかねない。


 途方にくれた貴族の頼る先などは、加持祈祷に呪いと相場が決まっている。


 そして、中納言は今、その食客たる異僧を囲っていた。薄墨の袈裟衣に白の頭巾(ときん)を頭から垂らした姿は、僧侶というより武人のように大柄で、延暦寺の僧兵もこの迫力に負けるのではないか? と思われる。


 中納言が助けを乞いたくなる頃合いを見計らったかのようにふらりと現れるのも、この異僧の不気味なところだった。


 この異相の迫力に、一角(ひとかど)のものではないと、中納言はふらりときまぐれに館を訪れる、彼をあてにしていた。というより、あてにしたい時期に、この異僧はやってくるのも心強く思っている理由だ。


 かの二年前の望月(もちづき)の変ときも、今は内侍(ないしのかみ)である大姫に、二条藤家(にじょうとうけ)の右大臣の息子の一人を婿(むこ)にとろうとしていたのだ。それを「もう少し様子を見られたほうがいいでしょう」という異僧の言葉に根回しを控えたのは確かだ。もしこれで「止めておきなさい」などと強く言われたなら、逆に話を強引に進めたかもしれないが、少し先延ばしにするなら……時期も悪いこともあるのだろうと。


 はたして、二条藤家の三大臣は一日にして失脚し、当然その息子達の運命も転げ落ちていった。あれで自分の大切な大姫に、右大臣の色好みのバカ息子を婿にとっていたと考えたらゾッとする……などと、乗り気だったのを棚にあげてつぶやいた中納言だ。


 さて、その異僧……名は北辰(ほくしん)という。それは中納言邸にもうけられた加持祈祷(かじきとう)護摩壇(ごまだん)の前に座して、彼と相対する。中納言のとりとめもない、自分はけして手汚すことのない左大臣への愚痴(ぐち)と、三条院への畏怖(いふ)と、それでもこたび仕掛けなければならない、娘の幸運の為になどと言っているが、いうなれば月宮(つきのみや)、薫という正妻がありながらの横恋慕だ。


 その愚痴と恐れが混じった声には、己が振り上げた手すら自力で下ろせぬ弱さがにじんでいた。


「もともとは(むぐら)の御殿などと呼ばれていた六条の館に隠れすんでいたお方が、院の目に留まられて、朝廷より二品(にほん)まで賜ったのだ。これ以上の幸福はござりますまい。また、三条院たる上皇様が、お一人の妻で満足なされるなど、複数の方をご幸福にされてこその殿方というもの。ぜひぜひ我が娘もその末にくわえて頂きたく」


 などと言いながら。


「月宮様が元お暮らしだった六条の御殿も、院のお世話によって葎も綺麗に取り払われて、崩れた築地塀も直されて、新しい御殿として月宮の御休息所とされるとか。ならばそちらに宮が移られても……」


 貴仁が薫の思い出が詰まった生家が荒れ果てたままでは……と、整えたというのに、それさえ利用して月宮……薫をそこに追いやって、内侍(ないしのかみ)たる己の娘が三条院に実質の正妻として入るという虫のいい未来まで夢想しておいて。


「なあ、御坊よ。なんとかならないか?」


 とまあ、不安げに問う様は、おのれの無策を露呈し、まったく他人任せである。


 異僧……北辰が安心させるように微笑むが、その右の片端が少し高くつり上がったゆがんだ口許は、目の前の男へのかすかな軽蔑がのぞいていたが、しかし、中納言は気付くことはない。


 北辰の笑みは柔らかく、しかし瞳の奥だけは氷のように冷えきっていた。


「さて、院のお口にされる御酒に惚れ薬でも仕込めと?」


 北辰がからかいの口調であったが、中納言は逆に「とんでもない」と青ざめる。


「あの方にお薬などと、二条藤家の三大臣が刺客を送る前に、散々したことではないか」


 と口を滑らせて「わわわ」と声をあげる。それに北辰が「ほぅ」とその目を細めるのに、中納言は己の屋敷の内、周りにだれもいないというのに声を潜めて。


附子(ぶす)を仕込んだ御膳を、うまいとぺろりたいらげて、平気な顔をされていたというぞ」


 附子とはトリカブトのことである。人の命をたやすく奪うほどの猛毒の食事をして平気だったという貴仁の話に、ぶるぶると中納言は震えて「あれは、鬼子よ」とつぶやいたあと。


「こ、このようなこと、けして他言無用ぞ」と目の前の僧に口止めする。ならば話さなければいいが、しかし、己がだけが知ると思っている秘密ほど、内緒だぞ……と話したくなるのが人だ。


「さて、その御膳に仕込まれていたのは毒にござりましょう?」


「ど、毒など……」


 確かに毒なのだが、己が口にしておいて、そのとき帝だった貴仁の食事に毒を仕込んだという事実に、自分がやったわけではないのに、中納言は青ざめている。


「媚薬ならば効くかもしれませぬ。己の身を害するものには耐性があれど、さて夫婦和合を司る歓喜天のお恵みとあらば、鬼神のような強壮なお身体も案外と弱いもの」


「院とて酒にはお酔いにならぬはずはございますまい?」と続けられて、中納言はふむと考えこむ。


「しかし、宴となれば酒器の酒はみなに回される。院にだけというのは不自然であるぞ」


 杯は各自であるが、酒を注ぐ銀の酒器は皆で回すものである。


「ならば、その酒にまじないをすればよろしい」


「宴に参加する全員に媚薬を仕込むというのか? そのようなことになれば、内裏のあちこちで女房共の大騒ぎが……」


 馬鹿なことをと顔をしかめる中納言に、北辰はからからと笑う。


「拙僧はまじないと申しました。酒にしこむのは媚薬ではなく、歓喜天の恵み、秘法です」


 さっきも彼が口にした歓喜天とは仏教の守護神であり、その名のとおり、人の結びつきと歓びを司る神である。それに「おお」と中納言は声をあげて瞳を輝かせる。


「それは院のみにだけ効果があるもの、普段はお酒にお強い院だとお聞きしておりますが、いささか酔ったと席はずされた、そのときに大姫の内侍(ないしのかみ)を介抱のために、御休息所の桐壺におつかわしになるとよろしい」


「拙僧はその管弦の宴の前より、ここにて歓喜天の御法(ごほう)が成就する祈りを捧げましょう」


 という北辰に「よろしく頼んだぞ。ならば、すぐにでも手配を」と中納言は、これで事は成ったも同然とばかりに去って行く。


 北辰は護摩の灰を指先でつまみ、ゆっくりと落とした。灰は落ちる途中で、ふっと黒い粒に変わり、消える。


「人には届かず、鬼にだけ効く――妙薬にございます」


 その声は、炎に油を注ぐように静かで、よく通った。






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